真の姿
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
全身の気配が、静かに張り詰めていく。
それは魔力の奔流ではない。
戦場そのものが、一人の戦士を中心に息を潜めるような圧力だった。
空気が震える。
地面に映るロウガの影が、不自然に揺らぎ始めた。
「――刮目して見よ!」
低く響く声と同時に、影が膨れ上がる。
そして影と現実が入れ替わるように、ロウガの肉体が変貌した。
銀白色の鬣が背中まで流れる。
琥珀の瞳は獣の輝きを宿し、瞳孔は鋭く細まる。
口元からは白い牙が伸び、閉じたままでも覗いていた。
だが、それは獣ではない。
理性を失った怪物でもなかった。
獣性を受け入れながらなお、人としての知性を宿した戦士の顔だった。
全身の筋肉は鎧のように膨れ上がる。
長身だった体躯はさらに五十センチ近く巨大化し、肩から先は銀灰色の毛皮に覆われた。
五本の鉤爪は剣よりも鋭く伸びる。
下半身は完全に獣へと近づき、逆関節の脚が地面を掴む。
一歩踏み出すだけで、大地が軋んだ。
「……牙狼転化」
静かな宣言だった。
「……これが牙王の真の姿だ」
人と獣。
本能と理性。
相反する二つを一つへと昇華した、純血の人狼族だけが可能な究極の姿だった。
「レヴェナント!」
ノクスが即座に命じる。
漆黒の甲冑が疾走した。
巨大なハルバードが頭上高く掲げられ、そのまま大地ごと断つ勢いで振り下ろされる。
しかし。
甲高い金属音が響いた。
ロウガは右腕一本。
いや、巨大な獣腕だけで、その一撃を受け止めていた。
鋭い爪が刃を噛み、微動だにしない。
ロウガが息を吸っただけで、周囲の砂塵が渦を巻く。
「この姿になった俺は……今までと同じではない」
次の瞬間だった。
前蹴り。
ただ、それだけ。
凄まじい衝撃がレヴェナントの胸部装甲を陥没させ、黒い巨体を砲弾のように吹き飛ばした。
さらにロウガは地を蹴る。
空中へ。
吹き飛ぶレヴェナントへ、一瞬で追いつく。
そして身体を捻り、追撃の蹴りを放った。
甲冑の巨体はまるで球のように弾かれ、そのまま一直線にノクスへ飛んでいく。
「意味の無いことを」
ノクスは慌てない。
足元の影が大きく広がる。
影は生き物のようにうねり、飛来したレヴェナントを飲み込んで回収した。
その余裕ある口調も変わらない。
「力を増したことは認めましょう」
「しかし、ただそれだけでは、ボクたちは殺せない」
不死への絶対的な自信。
その笑みは、仮面の奥で少しも揺らがなかった。
だが、ロウガは静かに首を振る。
「いや」
「俺は、お前たちを倒さない」
その言葉に、ノクスが初めて沈黙する。
仮面の奥の視線だけが、一瞬だけ鋭く細まった。
「そのために、この姿になった」
黄金の獣眼が二人を見据えた。
そこに宿るのは怒りでも焦りでもない。
勝利を確信した者だけが持つ静かな自信だった。
牙王が隠していた真の切り札。
それが、いま戦場へ姿を現そうとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
牙王と化したロウガが、大地を砕く勢いで踏み込んだ。
一直線。
獲物を見つけた狼のように、迷いなくノクスへ迫る。
「肉弾戦に持ち込むための変身ということか」
ノクスは静かに後退した。
同時に、その前へ漆黒の甲冑が躍り出る。
「レヴェナント!」
黒い影が波打つ。
次の瞬間、影の中からさらに五体のレヴェナントが姿を現した。
六体の処刑人が、一斉にロウガを包囲する。
「舐めるな!」
咆哮が戦場を震わせた。
牙王の進撃は止まらない。
振るわれた鉤爪が一体目を引き裂く。
返す拳で二体目の甲冑を砕き、蹴りで三体目を吹き飛ばす。
まるで何枚も重ねたパイ生地を、一枚ずつ食い破るようだった。
しかし、レヴェナントもただでは倒れない。
砕かれる寸前にハルバードを振るい、爪を突き立てる。
浅い傷。
それでも確実な傷。
ロウガの身体には、少しずつ血が刻まれていく。
そして倒れた影から、新たな甲冑が現れる。
終わりの見えない消耗戦だった。
すべてのレヴェナントを突破し、ノクスへ届くのが先か。
それとも物量が牙王を削り切るのが先か。
「……これが牙王か」
初めてだった。
ノクスの声から余裕が消える。
「計算が狂い始めた」
目の前にいるのは戦士ではない。
傷つきながらも獲物だけを見据え、決して勢いを失わない魔獣そのものだった。
しかも弱体化した状態で、この強さ。
「……それだけに危険だよ」
「……確実に仕留める必要がある」
ノクスは腰の刺突剣を静かに抜いた。
決して自ら傷つこうとしなかった処刑人が、初めて前へ出る。
その瞬間だった。
最後のレヴェナントが砕け散る。
だが、新たな甲冑は現れない。
「……品切れか。在庫は客が満足するくらい、十分用意しておくんだったな」
ロウガが荒い息を吐きながら笑う。
「商人としては失格だ。やり直してこい!」
その挑発に、ノクスは応えない。
ロウガもまた、無傷ではなかった。
全身に傷が刻まれ、呼吸は重い。
ついに膝がわずかに揺らぎ、動きが止まる。
「……終わりだよ、ロウガ君!」
黒い外套が翻る。
ノクスは一気に間合いを詰め、刺突剣を真っ直ぐ突き出した。
鋭い刃がロウガの胴を貫く。
「残念だったね。弱体化していなければ、もしかしたら君の勝ちだったかもしれないのにな!」
勝利を確信した声だった。
だが、その瞬間。
ロウガの口元が、不敵に吊り上がる。
「いいんだよ」
「これが狙いなんだからな」
ノクスの笑みが止まる。
「戯言を!」
刺突剣を引き抜こうと力を込める。
しかし、動かない。
剣が抜けない。
腕も動かない。
さらに足までもが、その場へ縫い付けられたように固定されていた。
「この距離が、ちょうどいいんだよ」
牙王は静かに笑う。
その黄金の瞳には、勝利を確信した光だけが宿っていた。
「王手だぜ、死王たち」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なんだ……どうなっている」
初めて、ノクスの声に焦りが混じった。
刺突剣はロウガの身体を貫いたまま、まるで見えない鎖で繋がれたように動かない。
それだけではない。
ノクス自身の足も、レヴェナントも、徐々に動きを失っていく。
「お前たちは、傷つくこと、壊れることに意味を持たないから気が付かない」
ロウガは肩で荒く息をつきながら、それでも口元に笑みを浮かべた。
「痛みに鈍感だ。そして、その痛みが知らせる異変の意味を忘れている。だから気付くのが遅い」
「……まさか」
その一言で、ノクスはようやく違和感の正体へ辿り着く。
レヴェナントの表面が、白く曇っていた。
いや、曇りではない。
薄く張り付いた氷だった。
自分の腕にも、白い結晶が静かに広がっている。
指先から感覚が失われていく。
周囲を漂う空気さえ、白い息となって凍り始めていた。
大気中の水分が、音もなく固体へと姿を変えていく。
「"お前たちを倒さない"と言ったはずだ」
ロウガは静かに言う。
「殺せないなら、止めればいいだけだ」
それこそが、牙王ロウガが最後まで隠していた切り札だった。
世間では、風を操る魔王として知られている。
だが、それは半分だけ正しい。
風は結果に過ぎない。
空気へ熱を与えれば気流が生まれ、暴風となる。
熱を奪れば、あらゆる物質は活動を失う。
ロウガが真に支配しているのは、熱そのものだった。
「我が――『凍結牙』は、すべてを凍らせる」
その宣言とともに、周囲の空気がさらに冷え込む。
半径五メートル。
その領域に存在するものから、生命を動かす熱が容赦なく奪われていく。
肉も。
鉄も。
空気すらも。
例外はない。
「俺も例外じゃない」
牙狼転化した腕から、白い霜がゆっくりと広がっていく。
「この姿で身体を強化していなければ、俺自身が先に凍り付く」
まさしく諸刃の剣。
敵も、自分も等しく蝕む絶対零域だった。
「……おのれ……!」
仮面に霜が走る。
ノクスは最後の抵抗とばかりにロウガへ手を伸ばす。
しかし、その腕は途中で止まる。
指先から肩へ。
肩から全身へ。
氷は一瞬で全身を覆い尽くした。
レヴェナントもまた、巨体のまま凍り付き、微動だにしない。
二体の死王は、巨大な氷像となって戦場に立ち尽くした。
「これで、お前らの再生も意味がなくなっただろ」
静まり返った戦場へ、ロウガの低い声だけが響く。
そして張り詰めていた力が、ようやく尽きた。
「……まったく、手こずらせやがって」
そう呟くと、ロウガはゆっくりと片膝をつく。
荒い呼吸。
凍傷で震える腕。
白い吐息だけが、凍てつく空気の中へ静かに溶けていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




