……ならば試してみるか
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「音に聞こえた魔王ロウガが、逃げの一手とは拍子抜けの限りですな」
「それとも、噂だけで実力がなかったので、覇王についたのですか」
背後から届くノクスの挑発。
軽薄で愉快そうな口調とは裏腹に、その一言一言には相手の心を揺さぶるための棘が隠されていた。
だが、ロウガが舌打ちした理由は、その挑発ではない。
自分自身の状況だった。
人狼族は魔王国でも屈指の脚力を誇る。
風を纏って大地を駆ける種族。
純粋な走力だけなら、同じ獣人族の中でも並ぶ者はほとんどいない。
それがロウガであれば、なおさらだった。
しかし。
背後の二人を振り切れない。
むしろ、わずかずつ距離を詰められている。
敵が速いこともある。
だが、本来のロウガであれば、この程度で追いつかれることは決してない。
原因は腹部を貫いた刃にあった。
仕込まれていた毒。
最高速度は三割以上も削がれ、身体は思うように応えてくれない。
(思った以上に、厄介な毒を盛られたらしい)
ロウガほどの実力者ともなれば、鍛え上げた生命力と気功によって毒の巡りを抑え込み、時間を稼ぐことができる。
戦いながら解毒することさえ可能だ。
だが、この毒は違った。
浄化を試みるたびに進行は鈍る。
それでも確実に身体を蝕み続ける。
まるで、生き物のように。
(そして、あの二人も面倒だ)
視線だけで後方を探る。
ノクスは笑みを絶やさず追ってくる。
一方、レヴェナントには生物らしい気配がなかった。
呼吸。
心拍。
殺気。
戦士なら誰もが無意識に放つ生命の鼓動。
そのすべてが感じ取れない。
そこにいるはずなのに、感覚だけが存在を拒絶していた。
だからこそ、不気味だった。
(……頃合いだな)
ロウガは不意に足を止めた。
土煙が舞い上がる。
ノクスも歩みを緩め、レヴェナントも無言のまま左右へ散開する。
三角を描くように、ロウガを挟み込んだ。
「諦めたという目ではないようだね」
ノクスが楽しげに首を傾げる。
「……当たり前だ」
ロウガは口元だけを吊り上げた。
その笑みには焦りも恐怖もない。
「少し本気になるには、周りに迷惑がかからねぇ場所まで来る必要があっただけだ」
その一言に、ノクスは肩を揺らして笑う。
「強がりはよしたまえ」
「ボク特製の毒は、君の身体を確実に蝕んでいる。もうじき立っていることさえ難しくなるよ」
仮面の奥から向けられる視線は、勝利を確信した処刑人そのものだった。
しかし。
ロウガは一歩も退かない。
「……策士気取りも、そこまでにしておくんだな」
その瞬間。
空気が変わった。
静かだった風が唸りを上げる。
ロウガの全身から、圧倒的な闘気が噴き上がった。
銀髪が風に逆立ち、大地の砂礫が独りでに震え始める。
ノクスの笑みが消えた。
レヴェナントも無言のまま巨大なハルバードを構え直す。
両者とも理解した。
ここからが、本当の牙王なのだと。
ロウガは琥珀色の瞳で二人を見据え、低く言い放つ。
「……ならば試してみるか」
「牙王の力を」
そして、さらに一歩踏み出す。
「貴様らから――冥王のことを、すべて吐かせてやる」
静寂が戦場を包む。
次の瞬間、その均衡は破られる。
魔王同士による死闘の幕が、ついに切って落とされた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ロウガは、防御の構えを取らなかった。
武器すら抜かない。
ただ静かに立ち、吹き抜ける風だけが銀の髪と衣を揺らしている。
黒い甲冑をまとったレヴェナントは、一切の躊躇なく間合いへ踏み込んだ。
重い一歩。
次の瞬間には、巨大なハルバードがロウガの頭上へ振り下ろされる。
その刹那だった。
「……獣人変化……部分解放……」
低く響く声と共に、地面へ落ちた影が膨れ上がる。
獣だった。
巨大な狼のような影が牙を剥き、ロウガの右腕だけが本来の姿を解放する。
筋肉は膨張し、銀灰色の体毛が生え、鋼鉄すら引き裂く鉤爪が現れた。
その右腕が、振り下ろされたハルバードを軽々と受け止める。
甲高い衝突音。
そして、一拍遅れて暴風が炸裂した。
衝撃波だけでレヴェナントの巨体が弾き飛ばされる。
轟音と共に地面を転がり、黒い甲冑が土煙の中へ消えた。
間髪入れない。
ドンッ、と地面が砕ける。
ロウガは大地を蹴り、その勢いのまま風そのものを足場にした。
空を駆ける。
人狼族の王たる力。
風を従える牙王だけが到達できる領域。
「……潰れろ……」
上空から振り下ろされた拳が空気を圧縮する。
暴風は巨大な槌となってレヴェナントへ叩きつけられた。
轟ッ――!
黒い甲冑が軋み、地面を何十メートルも削りながら大地へ押し潰される。
鋼鉄のような鎧の表面へ幾筋もの亀裂が走り、余波だけで周囲の地面が大きく陥没した。
一撃で巨大なクレーターが生まれる。
土煙が舞い上がる中、ロウガはゆっくりと振り返った。
琥珀色の瞳が、仮面の道化を射抜く。
「……次は、お前だ」
その瞬間だった。
風が止む。
森を揺らしていた葉擦れも消えた。
静寂。
世界から音だけが切り取られたような一瞬。
ロウガの手刀が振り抜かれる。
目では追えない速度。
空気そのものが刃となり、一直線に走った。
ノクスの右腕が肩口から音もなく切断される。
黒い腕が地面へ転がった。
「……牙王ロウガくん」
「……弱体化していて、ここまでやるとはね」
仮面の奥から感嘆とも取れる声が漏れる。
怒りも焦りもない。
まるで舞台を楽しむ役者のようだった。
「油断はしていなかったが、さすが魔王を冠する存在だ」
「しかし、ボクは芸達者でね」
ノクスは何事もないように落ちた腕を拾い上げる。
そのまま肩の断面へ押し当てた。
血は流れない。
肉も見えない。
ただ、不気味なほど自然に腕が繋がっていく。
指が動く。
手首が回る。
何事もなかったかのように右腕は元へ戻っていた。
「この程度、どうということはない」
ロウガは表情を崩さない。
だが、その瞳だけが鋭さを増した。
(……これは長引くかもしれんな……)
猛毒による弱体化。
正体不明の再生能力。
そして、感情も生気も感じさせない黒き死神。
目の前の敵は、これまで相対してきたどの強敵とも異なる。
互いに切り札の一端を見せたに過ぎない。
それでもロウガは、この戦いが容易には終わらないことだけは確信していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……立て、レヴェナント……」
ノクスが軽く指を弾く。
その音だけで、大地に半ば埋もれていた黒き巨体がゆっくりと身を起こした。
漆黒の甲冑は至る所がひび割れ、肩当てはひしゃげている。
先ほどロウガが叩き込んだ一撃の凄まじさを物語る傷だった。
だが、レヴェナント自身には苦しむ様子も、動きが鈍る気配もない。
まるで、その損傷に意味などないと言わんばかりだった。
次の瞬間。
ノクスの足元から伸びた影が、生き物のように蠢く。
影が液体のように流れ黒い帯となって地面を走り、レヴェナントの全身を飲み込んだ。
「……レヴェナント」
静かな呼びかけと共に、影は再びノクスの足元へ戻る。
そして、その影の中から黒い甲冑がゆっくりと姿を現した。
「……なんだと……」
ロウガは思わず唸る。
そこに立っていたレヴェナントには、先ほどまで刻まれていた亀裂が一つもなかった。
砕けた装甲は完全に修復されている。
まるで最初から傷など負っていなかったかのように。
(……こいつは脅威だ……)
レヴェナントは傷を再生する。
ノクスは腕を斬られても平然としていた。
二人とも、常識の埒外にいる。
(この謎を解かない限り、短期決戦は無理か)
決定打にならない攻撃を繰り返すほど愚かな戦いはない。
毒に蝕まれた身体では、なおさらだった。
ロウガの狼耳が小さく動く。
風に乗る音。
空気の流れ。
敵の呼吸。
その全てを拾い上げながら、静かに戦況を組み立てていく。
(……策がないわけではないが、まだ避けたい)
思考を巡らせる時間すら敵は与えない。
「行きたまえ!」
ノクスの軽い号令が響く。
レヴェナントは迷いなく地を蹴った。
一直線。
踏み込みだけで地面が沈む。
巨大なハルバードを携えた黒い死神が再び迫る。
(やはり、こいつが来るか)
ノクス自身は前へ出ない。
それはレヴェナントが盾だからか。
あるいは、別の理由があるのか。
断定はできない。
虚実を織り交ぜる相手だ。
一つの結論に飛びつく方が危険だった。
(ならば、一枚ずつ剝いでいく)
ロウガは重心を落とす。
巨大な右腕だけに頼るつもりはない。
腰を捻り、一閃。
鋭い蹴りが空気を裂いた。
さらに追撃。
二段。
三段。
連続する回し蹴りが暴風を伴い、レヴェナントの巨体を吹き飛ばす。
しかし、その着地点には黒い影が待ち受けていた。
光を吸い込むようにノクスの影が広がり、レヴェナントを飲み込む。
そして次の瞬間には、無傷の黒き処刑人が再び姿を現し、何事もなかったかのようにロウガへ突進してきた。
(ノクスを何とかしない限り、逃げることすらままならんか)
ロウガは静かに息を吐く。
その琥珀色の瞳には迷いはない。
勝つために必要ならば、次の切り札を使う。
その覚悟だけが、静かに固まっていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




