牙王の憂鬱
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ロウガは大きく息を吐いた。
旅路の途中で、何度足を止めただろう。
「どうしても行かないと駄目なんだろうなぁ」
頭を掻きながら、苦笑する。
「ディアボロスめ。よりによってレイラの相手をしろなんて、俺に押しつけやがって」
文句こそ口にする。
だが、もし覇王が別の部下を向かわせようとすれば、自分が止めていたことも理解していた。
だからこそ、この命令には皮肉な感謝すらあった。
「約束を忘れてたわけじゃないんだけどなぁ……」
肩をすくめる。
「いや、しかし……」
言い訳ならいくらでも浮かぶ。
商隊のこと。
各地の問題。
覇王への協力。
どれも嘘ではない。
だが、レイラには通じない。
あの性格なら、理由など一蹴して拳骨の一つでも落としてくるだろう。
(レイラ……)
その名を思い浮かべた瞬間だった。
穏やかだった琥珀色の瞳が鋭く細められる。
遠方。
木々の隙間から、二つの影が必死に逃げていた。
追う者たちは十数名。
しかも、獲物を仕留める気配ではなく、遊ぶように矢を放っている。
「……っ!」
ロウガは舌打ちすると、地を蹴った。
風を裂くような速度で駆け抜ける。
逃げるのは獣人の母親と、その幼い子供だった。
息は乱れ、足はもつれかけている。
それでも母親は子供だけは守ろうと腕を伸ばし続けていた。
そこへ放たれる一本の矢。
次の瞬間。
金属音が響き、矢は真っ二つになって地へ落ちた。
「やめろ!何をしている!」
ロウガが二人の前へ立ちはだかる。
背中で親子を守るように。
追手の先頭にいた犬頭の獣人が鼻を鳴らした。
「なんだ、お前は」
「俺たち"覇王様"の軍勢に逆らう気か!」
(……覇王様、だと?)
ロウガの眉がぴくりと動く。
「"覇王"がそんな命令を出したというのか」
「くだらん嘘を吐くな」
静かな怒気が滲む。
「"様"を付けぬか!無礼者!」
怒鳴る獣人たちを前にしても、ロウガは一歩も退かなかった。
むしろ考えていた。
(……何が起きている)
三年間。
ロウガは覇王ディアボロスの近くにいた。
もちろん全面的に信頼しているわけではない。
あの男は本心を見せない。
だからロウガ自身も独自に間者を使い、情報を集め続けてきた。
そのことはディアボロスも承知している。
それでも自由を認めていた。
器の大きさだけは、本物だった。
規律には厳しい。
公平である。
少なくとも、弱者を嬲って楽しむような命令を出す男ではない。
だからこそ、この光景は違和感しかなかった。
「……くだらん」
ロウガは低く呟く。
「小芝居は止めるんだな」
そう言って、背後で子供を抱き締める母親へ視線を向けた。
「子供を、こんな茶番に巻き込むな」
母親の肩が僅かに震える。
追手たちも笑みを消した。
迫真の演技だった。
だが決定的に欠けていたものがある。
殺意。
本当に殺す者の目ではなかった。
だからこそ、ロウガは理解した。
これは罠だと。
それでも飛び込んだ。
真実を確かめるために。
「おじさん……」
幼い声が聞こえた。
ロウガは苦笑する。
「俺はそんな歳じゃねぇ。お兄さんって呼べ」
子供は小さく笑った。
「……ありがとう、お兄さん」
その無邪気な笑顔のまま。
小さな手が懐から短いナイフを抜く。
躊躇はなかった。
刃は一直線にロウガの脇腹へ突き立てられる。
「ごめん、お兄さん」
震える声。
「でも、お兄さんは覇王の味方だから」
刃が深く沈む。
「僕の大好きな妹を助けてくれた、"冥王様"のために」
ロウガの目が大きく見開かれた。
痛みではない。
理解が追いつかなかった。
幼い子供が、自らの意思で刃を握っている。
その事実だけが、ロウガの思考を止めていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ロウガは、自らを刺した獣人の子供を見つめた。
その小さな肩は震えている。
だが、それは罪を犯したことへの後悔ではない。
恐怖と緊張。
自分に課せられた役目を終えた反動だった。
目の前にいるのは、本物の子供だ。
誰かが化けているわけでもない。
操られている様子もない。
そこには、自らの意思で刃を握った者の覚悟だけがあった。
(……完全に虚を突かれたことは認めざるをえないな……)
腹部に焼けるような痛みが走る。
戦闘中に油断したつもりはない。
まして子供だからと侮ったつもりもなかった。
それでも、この一撃だけは完全に意識の外から突き刺さった。
ロウガは素早く後方へ跳び、距離を取る。
迷いなく腹部のナイフを引き抜いた。
傷口から黒ずんだ血が流れ落ちる。
(……ご丁寧に、毒まで仕込んでいやがるか)
舌打ちすると、腕に力を込める。
体内を巡り始めた毒を押し出すように血を流し、自ら解毒を試みた。
応急処置にすぎない。
だが、時間は稼げる。
(ディアボロス……)
脳裏に覇王の顔が浮かぶ。
(冥王は、想像していたより遥かに厄介な相手かもしれん)
この短い攻防だけで理解できたことがある。
この子供は、自分を刺したことを悔いていない。
感じているのは達成感。
冥王の役に立てたという純粋な喜びだった。
その事実が、毒よりも重くロウガの胸へとのしかかる。
「この程度で、俺の首を取れると思うなよ」
低く言い放つ。
毒という不利は背負った。
それでも、この場にいる敵だけなら十分に制圧できる。
ロウガはそう判断した。
だが、その見立ては次の瞬間、覆される。
「彼の言う通りだ」
穏やかな声が響いた。
「皆、下がりたまえ」
その一言だけで、追手たちは一斉に道を開く。
まるで最初から、その命令を待っていたかのように。
ロウガの視線が細まる。
「……何者だ、お前は」
いつ現れた。
気配がなかった。
少なくとも、先ほどまで視界に収めていた集団の中には存在しなかった。
ゆっくりと前へ歩み出たその姿は、細身の道化師を思わせた。
長い黒衣が風に揺れ、不自然なほど笑みを浮かべた黒い仮面が、こちらを見つめている。
長いマントは影のように翻り、その立ち姿には奇妙な軽さがあった。
「はじめましてかな、牙王ロウガ」
男とも女とも判別できない、二重に重なったような声が響く。
「ボクはノクス」
仮面の笑みは変わらない。
「死王ノクスという。短い付き合いになると思うけれど、お見知りおきを」
ロウガは一切視線を逸らさなかった。
(……何だ、こいつは)
死王。
そんな王号は聞いたことがない。
種族も読めない。
気配すら掴めない。
得体の知れない違和感だけが、目の前の存在を包んでいた。
「……僕、失敗したの?」
震える声が聞こえる。
ナイフを握っていた子供だった。
その顔には先ほどまでの達成感はなく、怯えだけが浮かんでいた。
ノクスはゆっくりと子供へ向き直る。
「安心しなさい」
まるで優しい教師が諭すような口調だった。
「冥王様は、この程度のことで咎めたりはしない」
「必ず許してくださるよ」
その言葉を聞いた瞬間、子供の表情が安堵へ変わる。
胸の前で両手を組み、まるで神へ祈るように目を閉じた。
その姿には、一片の疑いもない。
母親も、おそらく演技でもなんでもない、子供と同様の祈りを捧げた。
ロウガは思わず眉をひそめる。
胸に湧いたのは嫌悪か、それとも戦慄か。
自分でも判別できなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
目の前にいる仮面の道化師は、剣の強さだけで測れる相手ではなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「我らが冥王様のために!」
「すべては冥王様のために!」
狂信にも似た声が、一斉に響き渡る。
ロウガはその声を聞きながら、背筋を冷たいものが這い上がるのを感じていた。
――冥王は、いったい何をした。
そこにあるのは忠誠ではない。
畏怖でもない。
救われた者だけが抱く、絶対的な信仰だった。
魔王国には、これまで存在しなかった思想である。
力ある者が頂点に立ち、弱き者を守る。
それが魔王国の秩序だった。
勢力争いであっても、多くは首魁同士による一騎打ちで決着をつける。
勝者は敗者を従わせる。
兵を無駄死にさせず、民を巻き込まない。
それこそが、魔王国で長く守られてきた暗黙の掟だった。
だからこそ、弱者は強者を信じることができた。
しかし。
目の前にいる者たちは違う。
ロウガは一目で見抜いていた。
害獣を追い払える程度の腕前。
自警団に毛が生えた程度。
戦士として鍛え抜かれた者たちではない。
そんな者たちが、魔王国屈指の実力者へ躊躇なく牙を剥いている。
勝てると信じているのではない。
冥王のために命を捨てることを、誇りだと思っている。
その価値観そのものが異質だった。
「……だが、ノクスとか言ったな。お前が相手か」
琥珀色の瞳が、黒衣の道化を射抜く。
細身の身体。
笑みを貼りつけた黒い仮面。
芝居役者のような軽い立ち姿。
それなのに、隙という隙が見当たらない。
気配は薄い。
殺気もほとんど感じない。
にもかかわらず、危険だけが肌を刺してくる。
強い。
そう断言する材料すらない。
それでも本能だけが警鐘を鳴らしていた。
「ボクも強さには、それなりに自負があるんだけどね」
ノクスは肩をすくめる。
「だからこそ、敵を侮らないことにしているんだ」
ぱちん。
軽い指鳴らしが響いた。
その瞬間だった。
空気だけが重く沈む。
ノクスの足元に伸びる影が、水面のように揺らぐ。
黒い闇が盛り上がり、ゆっくりと人型を形作っていく。
姿を現したのは、二メートル近い巨躯。
全身を艶を抑えた漆黒の甲冑が覆っている。
人の身体を模しているはずなのに、生物らしい温もりは微塵もない。
鋭い稜線を持つ装甲。
肩から流れる巨大な黒いマント。
手には、人一人を容易く断ち切れそうな巨大なハルバード。
兜の奥では、二つの光だけが静かに揺れていた。
まるで死そのものが、人の姿を借りて歩いているかのようだった。
甲冑の隙間から漏れるのは、言葉ではない。
低く、湿った呼吸音だけ。
「紹介しよう」
「今日の主役……と言いたいところだけど、ボクじゃないよ」
ノクスは芝居の幕を上げる役者のように一礼する。
「もう一人の死王、レヴェナントだよ」
「彼は喋れないからね。代わりにボクが紹介しておこう」
ロウガは二人を見比べた。
毒は確実に身体を蝕み始めている。
この状況で二対一。
しかも相手の底は見えない。
「……しゃあない」
小さく息を吐く。
「ここは一つ、やってみるか」
そう呟いた直後だった。
ロウガは躊躇なく踵を返した。
一直線に駆け出す。
選んだのは迎撃ではない。
逃走だった。
毒が全身に回る前に、この場を離脱する。
勝機の薄い戦いを拒む。
それが最善だと、一瞬で結論を下した。
「これは驚いた」
ノクスは楽しげに笑う。
「魔王国でも有数の魔王、牙王ロウガが戦わず逃げを選ぶとはね」
しかし、その笑みはすぐに深くなった。
「いや、実に正しい判断だ」
「だからこそ――逃がさない」
黒いマントが翻る。
ノクスの姿が音もなく動いた。
同時に、レヴェナントが巨大なハルバードを静かに構える。
次の瞬間。
重厚な甲冑からは想像もつかない速度で、大地を蹴った。
牙王を狩るための追撃が、静かに始まった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




