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勇者は神になれない  作者: ふたり旅団
魔王国編
130/131

牙王の憂鬱

◇ ◇ ◇ ◇ ◇



ロウガは大きく息を吐いた。


旅路の途中で、何度足を止めただろう。


「どうしても行かないと駄目なんだろうなぁ」


頭を掻きながら、苦笑する。


「ディアボロスめ。よりによってレイラの相手をしろなんて、俺に押しつけやがって」


文句こそ口にする。


だが、もし覇王が別の部下を向かわせようとすれば、自分が止めていたことも理解していた。


だからこそ、この命令には皮肉な感謝すらあった。


「約束を忘れてたわけじゃないんだけどなぁ……」


肩をすくめる。


「いや、しかし……」


言い訳ならいくらでも浮かぶ。


商隊のこと。


各地の問題。


覇王への協力。


どれも嘘ではない。


だが、レイラには通じない。


あの性格なら、理由など一蹴して拳骨の一つでも落としてくるだろう。


(レイラ……)


その名を思い浮かべた瞬間だった。


穏やかだった琥珀色の瞳が鋭く細められる。


遠方。


木々の隙間から、二つの影が必死に逃げていた。


追う者たちは十数名。


しかも、獲物を仕留める気配ではなく、遊ぶように矢を放っている。


「……っ!」


ロウガは舌打ちすると、地を蹴った。


風を裂くような速度で駆け抜ける。


逃げるのは獣人の母親と、その幼い子供だった。


息は乱れ、足はもつれかけている。


それでも母親は子供だけは守ろうと腕を伸ばし続けていた。


そこへ放たれる一本の矢。


次の瞬間。


金属音が響き、矢は真っ二つになって地へ落ちた。


「やめろ!何をしている!」


ロウガが二人の前へ立ちはだかる。


背中で親子を守るように。


追手の先頭にいた犬頭の獣人が鼻を鳴らした。


「なんだ、お前は」


「俺たち"覇王様"の軍勢に逆らう気か!」


(……覇王様、だと?)


ロウガの眉がぴくりと動く。


「"覇王"がそんな命令を出したというのか」


「くだらん嘘を吐くな」


静かな怒気が滲む。


「"様"を付けぬか!無礼者!」


怒鳴る獣人たちを前にしても、ロウガは一歩も退かなかった。


むしろ考えていた。


(……何が起きている)


三年間。


ロウガは覇王ディアボロスの近くにいた。


もちろん全面的に信頼しているわけではない。


あの男は本心を見せない。


だからロウガ自身も独自に間者を使い、情報を集め続けてきた。


そのことはディアボロスも承知している。


それでも自由を認めていた。


器の大きさだけは、本物だった。


規律には厳しい。


公平である。


少なくとも、弱者を嬲って楽しむような命令を出す男ではない。


だからこそ、この光景は違和感しかなかった。


「……くだらん」


ロウガは低く呟く。


「小芝居は止めるんだな」


そう言って、背後で子供を抱き締める母親へ視線を向けた。


「子供を、こんな茶番に巻き込むな」


母親の肩が僅かに震える。


追手たちも笑みを消した。


迫真の演技だった。


だが決定的に欠けていたものがある。


殺意。


本当に殺す者の目ではなかった。


だからこそ、ロウガは理解した。


これは罠だと。


それでも飛び込んだ。


真実を確かめるために。


「おじさん……」


幼い声が聞こえた。


ロウガは苦笑する。


「俺はそんな歳じゃねぇ。お兄さんって呼べ」


子供は小さく笑った。


「……ありがとう、お兄さん」


その無邪気な笑顔のまま。


小さな手が懐から短いナイフを抜く。


躊躇はなかった。


刃は一直線にロウガの脇腹へ突き立てられる。


「ごめん、お兄さん」


震える声。


「でも、お兄さんは覇王の味方だから」


刃が深く沈む。


「僕の大好きな妹を助けてくれた、"冥王様"のために」


ロウガの目が大きく見開かれた。


痛みではない。


理解が追いつかなかった。


幼い子供が、自らの意思で刃を握っている。


その事実だけが、ロウガの思考を止めていた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



ロウガは、自らを刺した獣人の子供を見つめた。


その小さな肩は震えている。


だが、それは罪を犯したことへの後悔ではない。


恐怖と緊張。


自分に課せられた役目を終えた反動だった。


目の前にいるのは、本物の子供だ。


誰かが化けているわけでもない。


操られている様子もない。


そこには、自らの意思で刃を握った者の覚悟だけがあった。


(……完全に虚を突かれたことは認めざるをえないな……)


腹部に焼けるような痛みが走る。


戦闘中に油断したつもりはない。


まして子供だからと侮ったつもりもなかった。


それでも、この一撃だけは完全に意識の外から突き刺さった。


ロウガは素早く後方へ跳び、距離を取る。


迷いなく腹部のナイフを引き抜いた。


傷口から黒ずんだ血が流れ落ちる。


(……ご丁寧に、毒まで仕込んでいやがるか)


舌打ちすると、腕に力を込める。


体内を巡り始めた毒を押し出すように血を流し、自ら解毒を試みた。


応急処置にすぎない。


だが、時間は稼げる。


(ディアボロス……)


脳裏に覇王の顔が浮かぶ。


(冥王は、想像していたより遥かに厄介な相手かもしれん)


この短い攻防だけで理解できたことがある。


この子供は、自分を刺したことを悔いていない。


感じているのは達成感。


冥王の役に立てたという純粋な喜びだった。


その事実が、毒よりも重くロウガの胸へとのしかかる。


「この程度で、俺の首を取れると思うなよ」


低く言い放つ。


毒という不利は背負った。


それでも、この場にいる敵だけなら十分に制圧できる。


ロウガはそう判断した。


だが、その見立ては次の瞬間、覆される。


「彼の言う通りだ」


穏やかな声が響いた。


「皆、下がりたまえ」


その一言だけで、追手たちは一斉に道を開く。


まるで最初から、その命令を待っていたかのように。


ロウガの視線が細まる。


「……何者だ、お前は」


いつ現れた。


気配がなかった。


少なくとも、先ほどまで視界に収めていた集団の中には存在しなかった。


ゆっくりと前へ歩み出たその姿は、細身の道化師を思わせた。


長い黒衣が風に揺れ、不自然なほど笑みを浮かべた黒い仮面が、こちらを見つめている。


長いマントは影のように翻り、その立ち姿には奇妙な軽さがあった。


「はじめましてかな、牙王ロウガ」


男とも女とも判別できない、二重に重なったような声が響く。


「ボクはノクス」


仮面の笑みは変わらない。


「死王ノクスという。短い付き合いになると思うけれど、お見知りおきを」


ロウガは一切視線を逸らさなかった。


(……何だ、こいつは)


死王。


そんな王号は聞いたことがない。


種族も読めない。


気配すら掴めない。


得体の知れない違和感だけが、目の前の存在を包んでいた。


「……僕、失敗したの?」


震える声が聞こえる。


ナイフを握っていた子供だった。


その顔には先ほどまでの達成感はなく、怯えだけが浮かんでいた。


ノクスはゆっくりと子供へ向き直る。


「安心しなさい」


まるで優しい教師が諭すような口調だった。


「冥王様は、この程度のことで咎めたりはしない」


「必ず許してくださるよ」


その言葉を聞いた瞬間、子供の表情が安堵へ変わる。


胸の前で両手を組み、まるで神へ祈るように目を閉じた。


その姿には、一片の疑いもない。


母親も、おそらく演技でもなんでもない、子供と同様の祈りを捧げた。


ロウガは思わず眉をひそめる。


胸に湧いたのは嫌悪か、それとも戦慄か。


自分でも判別できなかった。


ただ一つだけ確かなことがある。


目の前にいる仮面の道化師は、剣の強さだけで測れる相手ではなかった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「我らが冥王様のために!」


「すべては冥王様のために!」


狂信にも似た声が、一斉に響き渡る。


ロウガはその声を聞きながら、背筋を冷たいものが這い上がるのを感じていた。


――冥王は、いったい何をした。


そこにあるのは忠誠ではない。


畏怖でもない。


救われた者だけが抱く、絶対的な信仰だった。


魔王国には、これまで存在しなかった思想である。


力ある者が頂点に立ち、弱き者を守る。


それが魔王国の秩序だった。


勢力争いであっても、多くは首魁同士による一騎打ちで決着をつける。


勝者は敗者を従わせる。


兵を無駄死にさせず、民を巻き込まない。


それこそが、魔王国で長く守られてきた暗黙の掟だった。


だからこそ、弱者は強者を信じることができた。


しかし。


目の前にいる者たちは違う。


ロウガは一目で見抜いていた。


害獣を追い払える程度の腕前。


自警団に毛が生えた程度。


戦士として鍛え抜かれた者たちではない。


そんな者たちが、魔王国屈指の実力者へ躊躇なく牙を剥いている。


勝てると信じているのではない。


冥王のために命を捨てることを、誇りだと思っている。


その価値観そのものが異質だった。


「……だが、ノクスとか言ったな。お前が相手か」


琥珀色の瞳が、黒衣の道化を射抜く。


細身の身体。


笑みを貼りつけた黒い仮面。


芝居役者のような軽い立ち姿。


それなのに、隙という隙が見当たらない。


気配は薄い。


殺気もほとんど感じない。


にもかかわらず、危険だけが肌を刺してくる。


強い。


そう断言する材料すらない。


それでも本能だけが警鐘を鳴らしていた。


「ボクも強さには、それなりに自負があるんだけどね」


ノクスは肩をすくめる。


「だからこそ、敵を侮らないことにしているんだ」


ぱちん。


軽い指鳴らしが響いた。


その瞬間だった。


空気だけが重く沈む。


ノクスの足元に伸びる影が、水面のように揺らぐ。


黒い闇が盛り上がり、ゆっくりと人型を形作っていく。


姿を現したのは、二メートル近い巨躯。


全身を艶を抑えた漆黒の甲冑が覆っている。


人の身体を模しているはずなのに、生物らしい温もりは微塵もない。


鋭い稜線を持つ装甲。


肩から流れる巨大な黒いマント。


手には、人一人を容易く断ち切れそうな巨大なハルバード。


兜の奥では、二つの光だけが静かに揺れていた。


まるで死そのものが、人の姿を借りて歩いているかのようだった。


甲冑の隙間から漏れるのは、言葉ではない。


低く、湿った呼吸音だけ。


「紹介しよう」


「今日の主役……と言いたいところだけど、ボクじゃないよ」


ノクスは芝居の幕を上げる役者のように一礼する。


「もう一人の死王、レヴェナントだよ」


「彼は喋れないからね。代わりにボクが紹介しておこう」


ロウガは二人を見比べた。


毒は確実に身体を蝕み始めている。


この状況で二対一。


しかも相手の底は見えない。


「……しゃあない」


小さく息を吐く。


「ここは一つ、やってみるか」


そう呟いた直後だった。


ロウガは躊躇なく踵を返した。


一直線に駆け出す。


選んだのは迎撃ではない。


逃走だった。


毒が全身に回る前に、この場を離脱する。


勝機の薄い戦いを拒む。


それが最善だと、一瞬で結論を下した。


「これは驚いた」


ノクスは楽しげに笑う。


「魔王国でも有数の魔王、牙王ロウガが戦わず逃げを選ぶとはね」


しかし、その笑みはすぐに深くなった。


「いや、実に正しい判断だ」


「だからこそ――逃がさない」


黒いマントが翻る。


ノクスの姿が音もなく動いた。


同時に、レヴェナントが巨大なハルバードを静かに構える。


次の瞬間。


重厚な甲冑からは想像もつかない速度で、大地を蹴った。


牙王を狩るための追撃が、静かに始まった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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