冥王の胎動
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
グラーディスは穏やかな表情でレイラへ向き直った。
「一応、交渉は合意していただけた、ということでよろしいか。“麗王”」
レイラは静かに頷く。
「はい」
「それと、私のことはレイラとお呼びください」
わずかに表情を和らげながら続ける。
「"麗王"という呼称は、私の好むものではありませんので」
それは誇りを否定する言葉ではない。
二つ名より、一人の人狼として接してほしいという意思表示だった。
「承知した、レイラ殿」
グラーディスも自然に呼び方を改める。
そのやり取りを見届けたレオニスは、ようやく胸を撫で下ろした。
最大の難関だった交渉が終わったのだ。
「大丈夫だ、レオニス」
グラーディスは頼もしく微笑む。
「ロウガ殿は必ず捕獲する」
「お願いします、グラーディス様」
思わず頭を下げる。
今やロウガを捕まえることは、一行の目的だけではない。
自分の命運まで懸かっている。
その時だった。
つん、と背中を軽く突かれる。
「イシュリアン様?」
振り返ると、イシュリアンが少しだけ頬を膨らませ、不満そうな視線を向けていた。
「あの……何か?」
「私には、お願いしないのですか?」
予想外の問いに、レオニスは目を瞬かせる。
「あ、はい!」
「もちろん頼りにしています。お願いします、イシュリアン様」
その言葉を聞いた途端、イシュリアンの表情がふっと緩んだ。
満足そうに、小さく微笑む。
「レイラ様」
「我々も持てる力を結集し、お役に立ちましょう」
「はい。共に参りましょう」
レイラも静かに応じる。
「承知しました」
イシュリアンは自らのローブの裾を指先で摘み、優雅に一礼した。
王国でも指折りの魔術師らしい、洗練された所作だった。
そして、そのまま自然な動きでレオニスへ近づく。
「……私のことも、もっと頼りなさい」
耳元で囁かれた声は、驚くほど柔らかい。
思わず肩が震えるほど近い距離だった。
「は、はい」
短く返事をするのが精一杯だった。
理知的で、常に冷静沈着。
感情より理性を優先するイシュリアンにしては、あまりにも珍しい距離感だった。
その一言には、信頼してほしいという素直な願いが滲んでいた。
「当然、あたしにもあるのよね?」
今度は反対側から声が飛ぶ。
アウレリアだった。
腕を組み、どこか得意げに笑っている。
「言うまでもないよ、アウレリア」
レオニスが苦笑交じりに答えると、アウレリアは満足そうに、にっと笑った。
「なら、よし!」
その笑顔は、どんな魔物より頼もしい。
その時、小さな咳払いが聞こえた。
「コホン」
全員の視線が自然と集まる。
そこには何も言わず佇むフィデリアの姿があった。
レオニスは慌てて姿勢を正す。
「もちろん、フィデリア様もお願いします」
フィデリアは静かに頷く。
それだけだった。
だが、その頷きには十分な信頼が込められていた。
こうして、人狼族の族長レイラを新たな仲間に迎え、一行は新たな形となる。
勇者アウレリア。
姫巫女フィデリア。
王子グラーディス。
賢者イシュリアン。
文官レオニス。
そして、人狼族の族長レイラ。
種族も立場も異なる六人は、それぞれ異なる目的を胸に抱えながら、一つの道を歩み始めた。
それが後に、魔王国の運命を大きく揺るがす、新生勇者一行の始まりとなる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……意外だな」
小さく漏らしたグラーディスの声に、隣を歩いていたイシュリアンが首を巡らせた。
「何がですか?」
その視線を受けながら、グラーディスは穏やかに笑う。
「リアンがレオニスに、あのような接し方をするなんてね」
「……そうですね」
イシュリアンは否定も肯定もせず、少しだけ前方へ目を向けた。
そこではレオニスがアウレリアと何やら話し、少し後ろではレイラが無言で歩いている。
いつもの隊列だった。
「まさか、レオニスのことが好きとかかい?」
冗談半分で投げた言葉だった。
だが、イシュリアンは笑わない。
むしろ真剣な顔で考え込んでしまう。
「なんで、そんなことを確認するのですか?」
「そう、見えますか?」
「……私には、そう見えるよ」
率直に答えると、イシュリアンは顎へ指を添えた。
本当に研究でも始めるような仕草だった。
「好意……ですか」
「その定義が、まだ私には曖昧です」
「ですが、レオニスが困っていると助けたいとは思います」
「無理をしているように見えると、少し気になります」
「……それは、そういう感情なのでしょうか」
どこまでも真面目だった。
恋心すら魔法理論の一つのように分析している。
その様子に、グラーディスは思わず苦笑する。
勇者選別の前に出会った頃のイシュリアンは、今とはまるで別人だった。
魔法だけを価値あるものと信じていた少女。
知識と研究だけが人生のすべて。
魔法を扱えない者など、眼中にも置いていなかった。
他者との距離は遠く、感情より理論を優先する。
まさに教会が秘蔵してきた天才だった。
それが今では、本人も自覚しないまま、一人の青年を案じるようになっている。
人は変わるものだ。
知識ではなく、旅が。
理屈ではなく、人との出会いが。
少しずつ心を書き換えていく。
「先のことなど、わからないものだな」
「?」
意味が分からないというように、イシュリアンは首を傾げる。
グラーディスは小さく笑って首を振った。
「そうだな。出来れば、このまま進んでもらえるとありがたい」
「……何の話ですか?」
「独り言だよ」
それ以上は語らない。
イシュリアンも深追いはせず、静かに前へ向き直った。
グラーディスはその背中を眺めながら、心の中だけで言葉を続ける。
(私の未来の宰相と、未来の宮廷魔術師が結ばれる未来か……)
もしそうなれば、王国にとっても喜ばしい。
互いに支え合える優秀な人材になるだろう。
だが、その願いには大きな壁があった。
グラーディスの視線は、自然とフィデリアへ向く。
静かに歩く姫巫女。
その存在は、勇者という宿命そのものだった。
(彼女が、否……勇者の儀が、それを許してくれるのだろうか)
勇者に選ばれた者の運命。
その先に待つものを、グラーディスは誰よりも知っている。
だからこそ、胸の奥に小さな不安が芽生える。
それでも。
(私は最後まで抗ってみせる)
誰かの未来が、神から決められているなど認めたくはない。
人の意思は、運命すら変えられる。
そう信じたいからだ。
その決意を胸に、グラーディスは再び前を見た。
視線の先では、アウレリアが楽しそうにレイラへ話しかけている。
何があっても前へ進もうとする少女の背中を見つめながら、静かに歩みを続けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
かつて幾多の強者が命を懸けて戦った闘技場。
今は朽ち果て、石造りの観客席にはひびが走り、風だけが静かに吹き抜けていた。
その闘技場の中央に、一人の異様な存在が立っていた。
黒を基調とした、道化師と聖職者の衣装を掛け合わせたような装束。
細身の身体を包む長いコートは風に揺れ、その裾はまるで生きた影のように地面を這う。
肩幅は狭く、異様に長い手足が不気味な均整を形作っていた。
黒い手袋に覆われた指先は細く、そこに武器がなくとも、何かを仕込んでいると直感させる危うさがある。
長いマントはその姿を曖昧にし、一歩動くたびに輪郭を溶かしていく。
そして何より目を引くのは、その顔だった。
漆黒の仮面。
口元だけが大きく笑う、不自然な笑顔。
楽しげな表情だけが固定され、喜びも怒りも悲しみも一切読み取れない。
その奥から聞こえる声は、男とも女とも判別できない二重の響きを帯び、不気味な余韻を残していた。
それが"死王"ノクス。
勝敗ではなく、標的の死だけを追い求める処刑人だった。
ノクスはゆっくりと首を巡らせ、かつて観客席だった場所を見上げる。
そこには数百人にも及ぶ亜人や獣人たちが集っていた。
皆、魔王国では敗者となった者たち。
力で屈服させられ。
力で居場所を失い。
力ある者の命令に従うしかなかった者たちである。
その瞳には、暗い絶望ではなく、一つの希望だけが宿っていた。
ノクスは両腕を大きく広げ、芝居がかった仕草で叫ぶ。
「我らは"冥王様"のために!」
その一言に、観客席が一斉に揺れた。
「我らは"冥王様"のために!」
地鳴りのような声が、朽ちた闘技場へ反響する。
ノクスは満足そうに頷く。
「この魔王国の不浄を、"冥王様"の救済で洗い流す!」
「新しい時代は"冥王様"が創造してくださる!」
「覇王のやり方では駄目だ。力による支配では、魔王国は決して変わらない!」
「"冥王様"こそが、我らの救世主なのだ!」
歓声がさらに大きくなる。
そこに集う者たちは、誰一人として操られてはいない。
魔法で心を縛られているわけでもない。
彼らは自らの意思で、冥王という存在を信仰していた。
敗北した自分たちへ手を差し伸べた者。
見捨てられた者たちへ居場所を与えた者。
それが冥王だった。
だからこそ、その名は救済そのものだった。
「その障害となる"覇王"を討つべし!」
一人が拳を掲げる。
「そうだ! "覇王"は"冥王様"の害悪でしかない!」
「我らが、"冥王様"の進む道を照らすのだ!」
熱狂は連鎖し、闘技場全体を飲み込んでいく。
ノクスは静かに片手を上げた。
その仕草だけで、荒れ狂う歓声がぴたりと止む。
誰もが次の言葉を待っていた。
笑顔の仮面は変わらない。
それでも、その場を支配しているのは間違いなくノクスだった。
「皆の声。"冥王様"にも、きっと届いているよ」
柔らかな口調。
優しく語りかけるような声音。
だが、その奥には氷のような冷たさが潜んでいる。
「"冥王様"の慈悲と愛が、この間違った世界を正してくださる」
「立てよ。我ら、冥王の民よ!」
「今こそ、この魔王国を変革する時となろう!」
轟音のような歓声が夜空へ突き抜けた。
敗者たちは、もはや敗者ではない。
救済を信じる民として立ち上がった。
こうして、魔王国三強の一角――"冥王"は、"覇王"を討つため、その長き沈黙を破り動き始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




