あなたが悪いです
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あなたの言ったのは――"牙王ロウガ"ですか!」
声が響いた瞬間だった。
"麗王"の姿が掻き消える。
次の瞬間には、アウレリアの目の前まで踏み込んでいた。
あまりの速さに、レオニスは残像すら見えなかった。
「そ、そうだけど……」
さすがのアウレリアも、わずかに身を引く。
目元は黒いバイザーに隠されている。
それでも、そこから放たれる圧力だけは誰にでも理解できた。
獲物を逃さぬ獣の視線。
それほどまでの気迫が、目の前の女から溢れている。
「……あなた」
低く押し殺した声。
そして、次の一言は鋭く放たれた。
「ロウガの何!」
「え? 何って?」
「関係を聞いてるの!」
「関係って? 何?」
「まさか愛人!? こ、恋人!?」
「えっと、そんなんじゃなくて……友達?」
「男女の友情なんて成立しないわ!」
食い気味に否定された。
アウレリアは困ったように首をかしげる。
「いや、友人よ、友人」
「本当に!」
「ほ、ほんと」
勢いに押されるように頷くアウレリア。
普段なら誰にも気圧されない彼女が、珍しく後手に回っていた。
その光景に、グラーディスもイシュリアンも口を挟めずにいる。
レオニスだけが、ただ状況を理解できずにいた。
(……なんだ、このやり取りは?)
何が争点なのか。
"麗王"が何を知りたいのか。
さっぱり分からない。
ただ一つだけ確かなのは、命を懸けた戦いとは違う意味で、修羅場になっていることだった。
(どうやら、この"麗王"はロウガの関係者みたいだけど……)
ここまで反応する理由は、それしか思い浮かばない。
ならば、一番単純な確認をしてしまえばいい。
レオニスは意を決して口を開いた。
「あの……あなたは、ロウガさんの"奥様"ですか?」
空気が止まった。
森を吹き抜ける風まで、音を失ったように感じられる。
"麗王"は、その場でぴたりと動きを止める。
まるで油の切れた機械のように。
ぎ、ぎ、と音が聞こえてきそうなほどぎこちなく、ゆっくりとレオニスへ顔を向けた。
その唇が、小さく震える。
「ち、違うわよ! どうして、あんな奴と!」
思わず漏れた声は、先ほどまでの冷静さを欠いていた。
言い淀みながら必死に否定する。
その一方で、雪のように白い頬には、ほんのりと朱が差していた。
レオニスは思わず納得する。
(あ……なんとなく理解してしまった)
(この"麗王"、ロウガと何かあるんだ)
しかも、それは剣では決着のつかない類のものだ。
男女の間にしか生まれない、複雑で面倒な距離感。
当人同士だけが意地を張り続けているような関係。
そんな空気が、否応なく伝わってくる。
レオニスは小さく胸を撫で下ろした。
少なくとも、この女獣人と無用な戦いになる可能性は、今この瞬間、大きく遠のいた気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その後。
アウレリアが必死に「本当に友達だから」と説明を続け、ロウガとの関係についての誤解がどうにか解けた頃には、"麗王"もようやく冷静さを取り戻していた。
小さく息を整えた彼女は、改めて一行へ向き直る。
「私は、レイラ」
「人狼族の族長代理をしております」
先ほどまでとは打って変わり、その所作は落ち着き払っていた。
「私は、グラーディスと申します」
グラーディスが一歩前へ出て、王族らしい優雅な礼を返す。
それに続き、フィデリア、イシュリアン、アウレリア、そしてレオニスも順番に名乗りを済ませた。
全員の自己紹介を聞き終えたレイラは、静かに一行を見回す。
黒いバイザー越しの視線は見えない。
だが、相手を観察するような空気だけは伝わってきた。
「"ヒト族"だけの一行とは、珍しいですね」
「"ヒト族"?」
その単語に反応したのはイシュリアンだった。
「レイラ様。それは一体、何なのですか?」
「"ヒト族"は"ヒト族"ですので、それが何かと言われても……」
レイラは不思議そうに首を傾げる。
「あなた方の方が、詳しいのではないのですか?」
どうやら質問の意味そのものが理解できないらしい。
少し考えた後、説明を続けた。
「"ヒト族"は、稀に"樹王"の支配域から現れる一族の一つですね」
その言葉に、レオニスは腑に落ちた。
王国から"魔の森"を越えてくる人間は極めて少ない。
魔王国の住人から見れば、それは森の向こうから現れる希少な種族なのだ。
だから"ヒト族"。
そう呼ばれているのだろう。
「彼らが"ヒト族"と名乗ったのですか?」
レオニスが尋ねる。
「いいえ」
レイラは首を横へ振った。
「"ヒト族"は、この国にかつて存在した一族です」
「あなた方は、その者たちと外見がよく似ていたため、そう呼んでいます」
過去に存在した一族。
その一言に、一同の胸へ小さな疑問が残る。
しかし今は、それを掘り下げる空気ではなかった。
「教えていただき、ありがとうござ――」
「そんなことより、ロウガです!」
レオニスの礼は、勢いよく遮られた。
先ほどまで取り戻していた冷静さが、一瞬で吹き飛ぶ。
「ロウガの居場所を知っているのですか!」
「ロウガなら覇王のところにいるらしいよ」
アウレリアは何の躊躇もなく答える。
「あの、お馬鹿……!」
レイラは額へ手を当てた。
「覇王のもとにいるなんて!」
肩が小刻みに震えている。
怒りなのか、呆れなのか、その両方なのか。
「私がどれだけ苦労していると、ロウガは理解しているのですか!」
思わず漏れた本音に、レオニスは思わず苦笑した。
バイザーで表情は見えない。
それでも、その剣幕だけで十分すぎるほど伝わってくる。
「アウレリアは、本当にレイラさんのこと知らなかったの?」
「一緒に旅をしてたけど、思い出せないのよね」
アウレリアは困ったように首を振る。
「あたしが会ってた頃は、そんな話、一度もしなかったし」
その様子に嘘は見当たらない。
レイラも、それを察したのか、小さく息を吐いた。
「ねぇ、レイラ」
「ロウガと、どんな関係なの?」
好奇心を隠そうともしない問いだった。
一瞬だけ沈黙が落ちる。
レイラはゆっくりと口を開いた。
それは、ロウガがアウレリアにすら語ることのなかった、もう一つの側面を語る始まりだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
人狼族――それは魔王国において最も古い歴史を持つ亜人種の一つだった。
そして、その頂点に立つ者へ与えられる称号こそが、"牙王"。
だが、その名は単なる族長の肩書ではない。
人狼族は、太古の昔に魔王国内を初めて統一した王族の血筋でもある。
"牙王"とは、一族の長であると同時に、古き王の血統を受け継ぐ証。
長い歴史の中で幾度も覇権は移り変わり、今では人狼族の勢力は最盛期の十分の一にも満たない。
それでも、その名が持つ重みだけは失われていない。
魔王国内でも屈指の名門。
それが、人狼族だった。
「そんな話、あたしも、はじめて聞いたわ」
アウレリアが素直に驚きの声を漏らす。
本当に知らなかったらしい。
レオニスはその話を聞き、これまで抱いていた疑問が少しずつ繋がっていくのを感じた。
アウレリアから聞いた話では、ロウガは商隊を率い、魔王国内を各地へ旅していたという。
普通なら、そんな旅は簡単には成り立たない。
各地の領主や部族と渡り合い、安全を確保し、商売を続けるだけでも並大抵ではない。
だが、"牙王"という由緒ある王族の血筋であれば話は別だった。
(その名があれば、多くの部族が道を開く)
(各地でロウガさんが歓迎された理由も、本人の人柄だけではなかったのだろう)
もちろん、彼自身の実績や人格もあったはずだ。
しかし、その背後には"牙王"という歴史ある称号が支えていたのだと理解できた。
「言わないでしょうね。ロウガなら」
レイラは呆れたように肩をすくめる。
それでいて、その声音には責める色よりも、どこか誇らしさが滲んでいた。
自分のことではない。
ロウガという男の在り方を知っているからこその口調だった。
だが、その空気は次の瞬間、一変する。
「……最初はね」
「魔王国内を見て回るって言って、側近を何人か連れて旅立ったのよ」
「帰ってきたら正式に族長になる。その約束だった」
静かな声。
だが、その奥底には押し殺した怒りが渦巻いている。
森を吹き抜ける風まで冷たくなったような錯覚を覚えるほどだった。
「……でも、あいつは調子に乗ったの」
「商人に身をやつして諸国を巡って……世直しなんて始めたのよ」
ギリッ。
奥歯を噛み締める音が、妙にはっきりと響いた。
「ああ、それなら見たわ」
アウレリアは思い出したように手を打つ。
「"魔王国の旅商人の跡継ぎで、社会勉強のために旅をしてます"なんて言ってたわね」
「悪い奴がいると放っておけなくてさ。事件が起きるたびに首を突っ込んでた」
「『恐れ多くも〜』とか、それっぽい口上も言ってた気がするけど、そこはちゃんと聞いてなかった」
「悪事を暴いて、一件落着したら、また次の町へ向かうって感じだったわね」
「放っておけない性格だったし、見返りなんて一度も求めなかったな」
当時を懐かしむように、何度も頷く。
レオニスも思わず苦笑した。
(……ロウガという人物像に合致するな)
王族でありながら身分を隠し、商人として旅を続ける。
しかも、その旅先で困っている者を放っておけない。
だからこそ、惜しみなく金を使い、人を助け続けていたのだろう。
それは商売ではなく、彼なりの責務だったのかもしれない。
「三年よ!」
レイラが声を張り上げる。
「三年だけって期限を決めて送り出したの!」
「それなのに約束を破って、そのまま帰ってこない!」
「だから私は、正式に許可をいただいて連れ戻しに来たのよ!」
握り締めた拳が震える。
「今度こそ、絶対に許さないんだから!」
その宣言は、獲物を追う狼そのものだった。
レオニスは静かに胸の内で結論を出す。
(……ロウガさん)
(お会いしたことはありませんが、この件に関しては、あなたが悪いです)
思わず心の中だけで、深く同情――いや、非難することになった。
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