幕間 王子の目指す未来
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝靄の残る野営地で、グラーディスは手際よく天幕を畳んでいた。
長い黒髪を後ろで束ねた姿は王子というより歴戦の将に近い。
隣ではレオニスも荷物をまとめている。
「あと何日かで、覇王の本隊に追いつけるな」
「はい、グラーディス様」
短いやり取りだった。
だが二人にとっては慣れた日常だった。
巡礼が始まってからというもの、王都では考えられないほど長い時間を共に過ごしている。
「いつも、ありがとうございます」
レオニスが頭を下げる。
グラーディスは軽く肩を竦めた。
「構わない。これでも王族としては慣れている方だ」
本来であれば、王族が自ら野営地の設営や撤収を行うことはない。
使用人や従者の仕事だ。
だがグラーディスは違った。
王国軍の前線に立つ王族として育てられてきたため、野戦訓練も野営訓練も自ら志願して学んでいる。
その姿勢は兵士たちの信頼を集めていた。
特権を持ちながら、それに胡坐をかかない。
それだけで人は付いてくる。
「思ったより、戦闘が皆無であることも助かります」
荷袋を背負いながらレオニスが言う。
「治安という意味では、王国の辺境と変わらない。当初の想像より相当良い方だ」
グラーディスも同意した。
魔王国と聞けば、血と暴力に支配された地獄を想像する。
だが現実は違った。
もちろん野盗はいる。
無法者もいる。
だがそれは王国でも同じだ。
むしろ巡礼の一行に襲いかかった者たちの方が不運だった。
勇者。
三聖者。
そんな面々に勝てる野盗など存在しない。
結果として彼らは村人を助けることになり、感謝と共に新たな情報を得ながら進んでいた。
「だが、力がすべての国とはよく言ったものだ。王国の下級兵士では太刀打ちできないだろうな」
グラーディスは率直な感想を漏らす。
獣人は強靭な肉体を持つ。
亜人は独自の技術や魔法を操る。
もちろん全員が強者ではない。
それは人間社会も同じだった。
だが決定的に違う部分がある。
魔王国では力を持つ者の存在感が極端に大きい。
強者が庇護を与え、
弱者が従う。
その関係が王国より遥かに露骨だった。
ある意味では分かりやすい社会である。
「これなら、レオニスの言うように和平というのは良策に思えるな」
その言葉にレオニスは少し驚いた。
以前のグラーディスなら簡単には言わなかったはずだ。
だが今は違う。
実際に見た。
実際に聞いた。
そして知った。
魔王国の人々は怪物ではない。
戦乱の中を生きる人々だった。
「無意味に戦争を行う相手ではありませんから」
「うむ」
グラーディスは静かに頷く。
王国は帝國と争っている。
そのうえ魔王国とも全面対立する。
そんな未来に価値を見出せなかった。
だからこそ思う。
もし変えられるなら。
誰かが変えなければならない。
風が吹いた。
黒髪が揺れる。
しばし沈黙した後、グラーディスは不意に口を開いた。
「レオニス」
「なんでしょうか、グラーディス様」
穏やかな声だった。
だがその眼差しは真剣だった。
「アウレリアの勇者の儀が終われば、私は、“王”になろうと思う」
一瞬。
レオニスは意味を理解できなかった。
「はい、それはいいことだと――」
反射的に答えかける。
そして次の瞬間、言葉が止まった。
「……えっ!?」
思わず声が裏返る。
王になる。
それは継承権第三位の王子が口にするにはあまりにも重い言葉だった。
冗談ではない。
グラーディスの表情がそれを物語っている。
金色の瞳には迷いがなかった。
ただ静かに。
確固たる決意だけが宿っていた。
レオニスは息を呑む。
目の前にいるのは勇者に憧れる王子ではない。
国の未来を見据え始めた、一人の王の顔だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レオニスは思わず固まった。
――王。
その一言が頭の中で何度も反響する。
王とはもちろん、王国の国王のことだ。
冗談で口にするような言葉ではない。
だが同時に、不可能だとも思わなかった。
難しい理由は明白だった。
グラーディスは第三王子である。
母は国王の正妃ではあるものの、実家は決して王国屈指の大貴族ではない。
第一王子、第二王子と比べれば、後ろ盾の力は見劣りする。
王位継承争いでは決して有利な立場とは言えなかった。
しかし、不可能ではない理由もある。
今のグラーディスには"勇者"という肩書きがある。
王国における勇者の影響力は絶大だ。
人々は勇者を英雄として敬い、その名を支持する。
民意を味方につけた者を、有力貴族も無視できない。
彼らは権勢の流れを読むことに長けている。
勝つ者へ味方する。
それもまた貴族の処世術だった。
しかも王国は世襲ではなく、王家の血を引く者の中から国王が選ばれる。
第一、第二王子の後ろ盾は強大だ。
だが今のグラーディスなら、それに並ぶだけの求心力を得つつある。
レオニスは静かに息を吐いた。
――確かに。
――今の王国を変えられるとしたら、この人かもしれない。
そう思った矢先だった。
「レオニス」
「なんでしょうか、グラーディス様」
穏やかな声音で、グラーディスは続ける。
「その時は君は"宰相"として、王国を変えるために力を貸して欲しい」
ぶふっ。
レオニスは盛大に吹き出した。
「さ、宰相!?じょ、冗談ですよね!?」
宰相。
それは国王を補佐し、国家の行政と政治を統括する最高位の官職。
王国の未来を左右する重責である。
十七歳の文官見習い同然の少年が、想像することすら畏れ多い地位だった。
しかしグラーディスは至って真面目だった。
「もちろん、すぐにとは言わない。政治も外交も、これから学んでもらう」
「……いえ、その前に、冗談ではないという部分を否定していただきたいのですが」
引きつった笑みしか浮かばない。
専任首席文官という今の役目ですら、自分には荷が重いと思っている。
それなのに宰相など。
夢ですら見たことがない。
いや、一国の王子から宰相になれと頼まれるなど、幻覚と言われた方がまだ納得できる。
本当に現実なのか。
確かめるように、自分の指へ爪を立てる。
「……痛い」
どうやら夢ではないらしい。
安堵すべきなのか絶望すべきなのか。
その判断すらつかずにいるレオニスへ、グラーディスはさらりと続けた。
「そして私は、"アウレリア"を王妃に迎えるつもりだ」
その一言は。
先ほどの「王になる」という宣言すら霞むほどの衝撃だった。
レオニスの思考は、文字どおり真っ白になった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「そして、リアンには宮廷導師に迎えて王国を変革する。これが私の理想だ」
「ゼルがいてくれれば、もっと心強いが……それは望めないからな」
グラーディスは未来図を穏やかな口調で語り続ける。
だが、その言葉は、もはやレオニスの耳にはほとんど届いていなかった。
(ア、アウレリアを王妃に……?本当に、そう言ったのか?)
頭の中では、その一言だけが何度も反響している。
聞き間違いではないかとも思った。
だが、何度思い返しても、結論は変わらない。
グラーディスは確かにそう口にした。
よりにもよって、あのアウレリアを。
誰にも縛られず、思ったことは迷わず行動に移す少女。
王侯貴族であろうと、大国の権威であろうと、間違っていると思えば真正面から噛みつく。
そんな彼女が、王妃として王冠を戴く姿など――。
(……自分の全財産をすべて賭けて勝負してもいい、アウレリアは受けない)
レオニスは内心で断言した。
グラーディスの狙いは理解できる。
勇者アウレリアを王妃に迎えれば、その名声は王権を盤石なものにできる。
王国の民も、有力貴族たちも無視できない象徴となるだろう。
だが、それは理屈の話だ。
富も。
権力も。
名誉も。
そうしたものに惹かれて動くような人間なら、そもそもアウレリアではない。
だからこそ、恐る恐る口を開く。
「あの、グラーディス様。申し上げにくいのですが……アウレリアが承諾するとは、とても――」
「思えない、だろう?」
言葉を継ぐより早く、グラーディスが小さく笑った。
肩を震わせるほどではない。
それでも、どこか愉快そうだった。
「分かっているさ。アウレリアは、そんな理由で動く人ではない」
その表情には、自嘲すら滲んでいる。
「しかし、レオニス。勘違いはしないでくれ」
穏やかな声音が、少しだけ真剣さを帯びた。
「私は彼女を政治に巻き込むつもりはない」
「王妃という座で縛れるとも思っていない」
そう言って、グラーディスは少し離れた場所へ視線を向けた。
荷物を整理しながら仲間たちと笑い合うアウレリアの姿がある。
その姿を見る金色の瞳は、王子のものではなかった。
一人の青年が、想い人を見つめる眼差しだった。
「アウレリアを王妃に迎えたいという願いは、打算ではない」
「地位のためでも、王権のためでもない」
静かに言葉を重ねる。
「私の気持ちに混じるものは何もない」
そして、迷いなく告げた。
「私は彼女を、純粋に愛しているのだよ」
その言葉に偽りは一切感じられなかった。
レオニスは思わず息を呑む。
王族としてではなく、一人の男として紡がれた告白だったからだ。
「……は、はぁ」
返事にならない返事しか出てこない。
一国の王子が。
将来、王を目指すと宣言した人物が。
よりによって、アウレリアへ本気で恋をしている。
その事実だけでも十分に衝撃だった。
しかし、レオニスの胸には、それとは別の小さな違和感が残っていた。
胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。
理由は分からない。
グラーディスの恋を応援したいはずなのに、どこか素直に頷けない自分がいる。
その感情の正体を、まだレオニス自身は知らなかった。
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