勇者の伝承
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それは、まだ人と光が世界の主であった時代の、古き記録――。
世界は長き平穏に包まれていた。
人々は大地を耕し、国々は栄え、神々の加護は遍く世界を照らしていたという。
だが、ある時。
奈落の深淵より“邪悪の化身”が降臨した。
それは災厄そのものだった。
秩序は破壊され、大地は絶望に染まり、無数の魔の軍勢が世界を蹂躙する。
人々は闇に怯えた。
国は滅び。
光は失われていった。
そんな時、一人の若者が立ち上がる。
若者はただ一振りの剣を手に、魔物の跋扈する未知なる荒野へと歩み出した。
異国の尊き姫は彼に偉大なる力を授ける。
若者は勇者となった。
若き勇者は各地に散らばる聖遺物を求めて旅を続ける。
数々の試練を越え。
数々の仲間と出会い。
数々の別れを経験しながら。
やがて“邪悪の化身”との決戦へ辿り着いた。
悪魔の誘惑は勇者の魂を揺さぶった。
だが、その信念は折れなかった。
信仰の剣は最後まで揺らがなかった。
そして。
世界の命運を賭けた最後の戦いが始まる。
神話に刻まれるべき死闘の果て。
“邪悪の化身”の王は斃れた。
世界は救われた。
救世の英雄は人々の歓喜を背に受けながらも立ち止まらない。
未だ救われぬ地がある。
そう言い残し、新たな旅路へ歩み去った。
世界に再び陽光が満ちる。
平穏が還る。
――それが、王国に伝わる最古の勇者伝承である。
「と、これが王国に一番古い勇者の伝承の話です」
イシュリアンが説明を終えた。
この話題になった理由は単純だった。
ヴァルドが、魔王国の成り立ちを語る上で必要な話だと言ったからである。
王国に伝わる民話。
吟遊詩人の歌。
教会の教本。
その多くは、この伝承を土台としていた。
要約すれば。
世界を滅ぼそうとする魔王が現れた。
若者は姫から力と聖剣を授かり勇者となった。
各地の宝を集め、試練を越え、ついに魔王を討伐した。
そして勇者は旅立った。
世界に平和が訪れた。
王国の民なら誰もが耳にしたことのある英雄譚。
それが王国の歴史認識だった。
「お前たちが“邪悪の化身”と呼ばれる存在と、原初の勇者が最終決戦を行った場所が、ここだ」
ヴァルドは教科書を朗読するかのような口調で言った。
まるで当然の事実を述べるように。
「この“魔の森”に魔物が現れるのは、奴の残した呪いのようなものが理由だと思えばいい」
一瞬。
誰も反応できなかった。
あまりにも自然に語られたためだ。
だが理解が追いついた瞬間、その言葉の重みが襲いかかる。
レオニスは思わず息を呑んだ。
(今、とんでもないことを言われたんじゃ……)
だが口を挟まなかった。
ヴァルドの話はまだ終わっていなかったからだ。
「そして一人の、魔王と呼ばれる存在が誕生した」
静かな声が続く。
「この地の呪いが無くなるまで何人も来させぬために支配した」
一同は黙って耳を傾ける。
「“樹王”と呼ばれるようになったそれは、“邪悪の化身”が汚した大地を隔てるため、そこを魔王国と名付け管理し始めた」
その言葉と共に。
ヴァルドの視線は、“樹王”と呼ばれる大樹へ向けられた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レオニスは考えていた。
ヴァルドの語った歴史。
勇者伝承。
そして樹王の存在。
それらを繋ぎ合わせると、一つの結論が浮かび上がる。
つまり。
“邪悪の化身”と“魔王”は同じものではない。
少なくともヴァルドはそう語った。
それどころか。
樹王は呪われた土地を隔離するために魔王国を築いたという。
それはむしろ。
人の世界を守っているのではないか。
(え!?)
その瞬間だった。
ヴァルドの視線が向けられる。
何も言わない。
だが、黄金の瞳は静かにこちらを見ていた。
レオニスは息を呑む。
根拠はない。
だが、理解した。
その考えは違う。
そう告げられた気がした。
否定だった。
まるで心を読まれたような感覚。
ヴァルドは何も説明しない。
ただ静かに口を開いた。
「これが魔王が建国した国だという意味だ」
そこで言葉を区切る。
そして。
「私が本当のことを言っているかは保証することはできない」
淡々と告げた。
まるで史実ではなく、一つの仮説を語っただけだと言わんばかりに。
それ以上は語らない。
説明は終わった。
(何か、はぐらかされた気がする)
レオニスはそう感じた。
ヴァルドの話が嘘だとは思わない。
むしろ真実だろう。
だが。
真実の全てではない。
何かが隠されている。
何か決定的な部分が。
(……それは、何だ……)
考えようとした。
だが、その瞬間。
強烈な睡魔が襲ってきた。
思考が霞む。
視界が揺れる。
慌てて周囲を見る。
アウレリアが眠っていた。
グラーディスも。
イシュリアンも。
いつの間にか深い眠りへ落ちている。
抗えない。
瞼が重い。
そしてレオニスの意識もまた、闇の中へ沈んでいった。
◇
「何を問いたいのだ、“裁定者”」
静かな声が響く。
ヴァルドは驚いた様子を見せなかった。
まるで最初から分かっていたかのように。
勇者たちが眠らされたことも。
その原因がフィデリアであることも。
問い質そうとはしなかった。
焚火の火が揺れる。
向かい合う二人。
夜の森は静寂に包まれていた。
「……“樹王”とは……」
フィデリアが問う。
それは誰も辿り着かなかった疑問。
彼女だけが見たもの。
彼女だけが辿り着いた解。
その答えを求める問いだった。
ヴァルドはしばし沈黙した。
そして。
「……ほぼ、正解に近い、とだけ言っておく」
そう答える。
肯定もしない。
否定もしない。
だが訂正もしなかった。
それだけで十分だった。
フィデリアは再び樹王を見る。
巨大な大樹。
誰の目にも世界を支える守護者のように映る存在。
だが。
彼女の目に映るものは違う。
フィデリアには最初からそう見えていなかった。
世界の平和を守る存在ではない。
もっと重いもの。
もっと痛ましいもの。
「……しかし、それは誰も責められない罪の形の具現……」
その言葉は夜の森へ静かに溶けた。
フィデリアは胸の前で手を組む。
そして。
“樹王”へ祈りを捧げた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝。
目を覚ましたアウレリアたちが最初に行ったことは、フィデリアへの謝罪だった。
一日ならまだしも、二日連続で守護対象を放置したのである。
特にグラーディスとイシュリアンの落ち込みは深刻だった。
聖騎士と聖導師。
立場を考えれば、言い訳など出来るはずもない。
「申し訳ありません」
「弁解の余地もありません……」
深々と頭を下げる二人に、フィデリアは困ったように微笑むしかなかった。
レオニスも同罪だったため、素直に頭を下げる。
その後、全員がヴァルドへ礼を述べた。
三日近く。
彼は休むことなく歩哨を続けていたのだから。
「かまわん」
返ってきた言葉は、いつも通り短いものだった。
まるで特別なことをしたという認識すらない。
(……この人、本当に人間なんだよな?)
レオニスは思わずそんな疑問を抱く。
魔の森を案内し。
アウレリアたちの稽古を行い。
夜は歩哨を務める。
それを何日も続けているというのに、疲労の色がまるで見えない。
森は相変わらず危険だった。
だが、一行は確実に前へ進んでいた。
日が傾けば稽古が始まる。
ヴァルドのイメージ投影による実戦訓練だ。
結果は昨日よりも伸びた。
イシュリアンは三分。
グラーディスは五分。
アウレリアは十分。
限界を超えながらも、一歩だけ前へ進んでいる。
その執念だけは本物だった。
「……ありがとう、ご、ざいました……」
息も絶え絶えになりながら、三人は感謝だけを口にする。
ヴァルドは静かに剣を納めた。
その姿は初日から何一つ変わらない。
息も乱れず。
汗も流さず。
揺らぎもしない。
追いつく姿すら想像できない。
それでもアウレリアたちは諦めなかった。
だからこそ、レオニスは少しだけ尊敬していた。
そして翌日。
ついに魔の森を抜ける。
視界が開けた。
空が広い。
風が吹く。
草原が揺れる。
どこまでも続く緑の景色。
「久しぶりだな、魔王国」
アウレリアが懐かしそうに呟いた。
だが初めて訪れた三人は言葉を失う。
「本当に、ここが魔王国なのか?」
レオニスだけではない。
グラーディスもイシュリアンも同じ感想だった。
もっと禍々しい場所を想像していた。
魔物が溢れ。
瘴気が満ち。
死が支配する土地。
そんなものを思い描いていたのだ。
だが現実は違う。
草原があり。
風があり。
生命がある。
王国辺境の景色と何ら変わらない。
違うのは一つだけ。
遥か彼方に見える巨大な大樹。
樹王。
あの存在だけが、この地が魔王国であることを証明していた。
レオニスは自分で描いた地図を見直す。
間違いない。
確かに到着している。
その時だった。
「これで依頼は終了だ」
静かな声が響く。
全員の視線がヴァルドへ向く。
そうだった。
彼は最初から依頼として彼らを案内していた。
そして依頼には報酬が必要だ。
誰もが思い出す。
未だ一度も語られていない条件。
帝國最強の男が望む成功報酬。
(金貨で済む気がしない)
レオニスは不安になる。
それが何なのか。
誰も知らない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




