"魔の森"の道中
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヴァルドの水先案内のもと、一行は"魔の森"の深部へと進んでいた。
森は広い。
いや、広いという表現ですら足りない。
見渡す限り木々が続き、空を覆う枝葉が陽光を遮っている。
昼であるにもかかわらず、森の奥は薄暗かった。
足場も決して良くない。
それでもヴァルドが選ぶ道は比較的歩きやすく、フィデリアやレオニスでも問題なく進める程度には整えられていた。
その事実に、レオニスは内心で驚いていた。
ヴァルドは本当に案内をしている。
それも手を抜かずに。
道中では何度か魔物とも遭遇した。
だが、その度に勇者一行が迎撃する。
小鬼が群れをなして襲いかかれば、アウレリアの聖剣が閃く。
巨鬼が咆哮を上げれば、グラーディスの聖盾が受け止める。
二角獣が森を駆け抜ければ、イシュリアンの魔法が正確に射抜いた。
戦況は終始安定していた。
むしろ危険なのは魔物そのものより、その数だった。
戦闘が終わった後。
倒れた小鬼の亡骸を見ながら、レオニスが口を開く。
「しかし、何でなんですか?」
ヴァルドを含めた一同の視線が向く。
「"魔の森"には、なぜ、こんなに魔物がいるんでしょうか?」
素朴な疑問だった。
だが誰も明確な答えを持っていない疑問でもある。
小鬼。
巨鬼。
二角獣。
知性を持たない怪物たち。
王国でも。
帝國でも。
これほどの数が生息する地域など存在しない。
イシュリアンが近づいてきた魔物を光弾で撃ち抜きながら答えた。
「さて、私達も研究していますが、明らかではありません」
魔法の光が消える。
魔物はその場に崩れ落ちた。
「まったく不可解だ」
グラーディスも同意する。
聖盾を構えたまま周囲を警戒していた。
するとアウレリアが思い出したように口を開いた。
「ロウガはね。"樹王"が生み出してるって噂を聞いたことがあるって」
その言葉にイシュリアンが反応する。
「本当なのですか?」
「正確には知らないわよ。でも魔王国じゃ有力説みたい」
「有力説?」
「ここは魔王国でも"樹王"の勢力圏らしいから」
そう言いながらアウレリアは最後に残った小鬼を斬り伏せた。
イシュリアンも同時に魔法を放つ。
戦闘は終わった。
静寂が戻る。
「"樹王"……アウレリアが言っていた魔王の一人?」
レオニスの問いに、アウレリアは前方を指差した。
「あれ」
一同が視線を向ける。
そして言葉を失った。
遥か彼方。
森の向こう側。
空へ届かんばかりの巨大な影がそびえていた。
それは樹木だった。
少なくとも見た目は。
だが常識的な大樹ではない。
巨大な幹。
幾重にも広がる枝。
山のように隆起した根。
その姿は一本の木というより、一つの城塞だった。
自然物とは思えない。
生物とも思えない。
圧倒的な存在感だけが遠方から伝わってくる。
「……あれが、"樹王"なのかい」
レオニスは呆然と呟いた。
グラーディスも。
イシュリアンも。
言葉を失っている。
彼らが初めて見る魔王。
そのスケールは、人間の理解を軽々と超えていた。
だが。
フィデリアだけは別のものを見ていた。
青緑の瞳が僅かに揺れる。
皆には巨大な樹木に見えている。
しかし、彼女にはそう見えなかった。
あれは木ではない。
あまりにも濃密で。
あまりにも膨大で。
あまりにも異質な何か。
まるで世界そのものを圧縮したかのような、途方もない力の結晶。
そうとしか認識できなかった。
理解できない。
だが本能が告げている。
あれは人が触れていい領域の存在ではない、と。
そして、その正体を知る者がいた。
ヴァルドである。
黄金の瞳は遥か先の巨木を昔から見慣れた風景を見るような眼差しを向けるだけだ。
ヴァルドだけは樹王を見ても何の感慨も抱いていない。
知っている。
あれが何なのかを。
だが語らない。
語る義務も。
語る理由も。
彼には存在しなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヴァルドは約束通り、道中でアウレリアに稽古をつけていた。
しかし、それはグラーディスやイシュリアンが想像したような剣戟ではない。
二人が向かい合う。
それだけだった。
互いに武器を手にしている。
アウレリアは聖剣を握り。
ヴァルドは腰の剣の柄に指を添える。
そして、静かに目を閉じる。
傍目には何も起きていない。
風が吹く。
森がざわめく。
ただそれだけだ。
だがレオニスだけは知っていた。
これはアウレリアが以前から行っていた訓練。
イメージの中で戦う鍛錬だ。
脳内で敵を作り上げ、限界まで戦い続ける。
常人には理解できない領域の訓練法。
ただし今回は決定的な違いがあった。
相手が本人なのだ。
アウレリアが想像したヴァルドではない。
ヴァルド自身が、アウレリアへ戦いのイメージを投影している。
理屈は分からない。
だが見ているだけで異常さだけは理解できた。
五分も経たなかった。
突然、アウレリアの身体が大きく揺れる。
「くっ……!」
膝が地面へ落ちた。
聖剣を杖代わりに支えなければ倒れていただろう。
呼吸は乱れている。
肩が激しく上下する。
額から流れ落ちる汗は顎を伝い、ぽたりと土へ落ちた。
まるで何時間も全力で戦い続けた後のようだった。
対してヴァルドは微動だにしない。
呼吸一つ乱れていない。
ただ立っている。
それだけだ。
「……信じられません」
イシュリアンが呆然と呟いた。
「……まったくだ」
グラーディスも同意する。
そこでレオニスは違和感に気づいた。
二人の額にも汗が浮かんでいる。
アウレリアほどではない。
それでも明らかに異常な量だった。
ただ見ていただけのはずなのに。
「二人とも……」
レオニスが声を漏らす。
イシュリアンは苦笑した。
「見ているだけで圧迫感が伝わってくるんです」
「まるで巨大な嵐を遠くから眺めているような感覚だった」
グラーディスも深く息を吐いた。
「イメージだけのやりとりで、何日分の修行をしているんだ」
戦士としての本能が理解してしまう。
あの場で行われていたものの危険性を。
そして、その差を。
「……なんて差でしょうか」
イシュリアンの声には驚愕が混じっていた。
「……認識していたつもりだった」
グラーディスは拳を握る。
「だが、それでも足りなかったな」
二人とも王国最高峰の実力者だ。
だからこそ理解してしまう。
自分たちが見ている世界と。
ヴァルドが立っている世界が。
根本から違うことを。
やがてヴァルドは柄から手を離した。
静かに目を開く。
「今日はここまでだ」
その声音は普段と変わらない。
「明日はもう少し段階を上げる」
アウレリアは返事すらできなかった。
荒い呼吸を繰り返しながら地面を睨む。
悔しさを噛み締めるように。
そしてグラーディスとイシュリアンまでも、その場へ腰を下ろした。
見学していただけの二人ですら疲労を覚えている。
レオニスは震える息を吐いた。
「こんなに差があるなんて……」
現実として突きつけられた。
王国最強と呼ばれる勇者。
その勇者ですら。
ヴァルドには剣を抜かせることすらできない。
力の差ではない。
技術だけでもない。
積み重ねた歳月。
経験。
覚悟。
精神。
生き方。
その全てが隔絶している。
アウレリアが目指そうとしている頂。
そこは山ではなかった。
空そのものだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ここで予想外の問題が発生した。
ヴァルドの稽古が、想像以上に過酷だったのである。
結果。
アウレリアは寝落ちした。
グラーディスも寝落ちした。
イシュリアンも寝落ちした。
三人とも焚き火を囲んで座ったまま意識を失っている。
見事な全滅だった。
「……いや、これは駄目だろ」
レオニスは額を押さえた。
王国最高戦力。
勇者、聖騎士、聖導師。
その全員が行動不能。
しかも原因は自主的な特訓である。
笑えない。
まったく笑えない。
隣ではフィデリアも静かに三人を見つめていた。
表情は崩していない。
フィデリアですら返答に困ったように視線を逸らした。
気のせいということにしておきたかった。
ここは"魔の森"のど真ん中だ。
普通なら夜営中に絶対起きてはいけない状況である。
結果として起きている人間は二人だけになった。
レオニス。
そしてフィデリア。
戦力として数えられるのは――。
ヴァルドただ一人。
改めて考えると恐ろしい状況だった。
「あの、ヴァルド様」
「君達を魔王国へ送り届けるのも依頼の一つだ」
呼びかける前に返答が飛んできた。
まるで心を読まれたようだった。
ヴァルドは焚き火の向こうで静かに座っている。
警戒している様子もない。
焦る様子もない。
ただ自然体だった。
(本当は敵なのに……)
レオニスは思う。
(この完璧な紳士ぶりこそ、アウレリア達に学んでもらいたい……)
勇者一行は善人だ。
だが善人であることと大人であることは違う。
その点、ヴァルドは妙に完成されていた。
強さだけではない。
立ち居振る舞いも含めてだ。
そこでレオニスは以前から気になっていたことを尋ねる。
「あの、依頼扱いにしていただいているのですが」
「…なんだ」
「ヴァルド様はどのような報酬をお望みで?」
そう。
最大の問題である。
ヴァルドはまだ何も要求していない。
普通なら依頼には対価が必要だ。
「成功報酬で構わないと言ったはずだが」
「いえ、それはそうなのですが」
レオニスは苦笑した。
「その時になって用意できませんでした、では失礼でしょう」
金銭か。
名誉か。
あるいは貴重な宝物か。
だがどれも違う気がした。
ヴァルドはそういうものに執着する人物には見えない。
するとヴァルドは立ち上がった。
どこから取り出したのか、野営用の茶器一式を手際よく並べ始める。
湯を沸かし。
茶葉を蒸らし。
まるで熟練の給仕のような動きで紅茶を淹れていく。
しばらくして香り高い湯気が立ち上った。
「どうぞ」
差し出された茶器を受け取りながら、レオニスは内心で呻いた。
(完璧超人か、この人は……)
戦えば最強。
護衛も完璧。
礼儀正しい。
おまけに茶まで上手い。
本当に敵なのか疑わしくなってくる。
むしろ王国に仕えるより、この人個人に忠誠を誓った方が幸せなのではないかと、一瞬だけ考えてしまった。
その時だった。
ヴァルドの視線がフィデリアへ向く。
レオニスの背筋が僅かに伸びた。
(まさか……)
嫌な予感がよぎる。
(フィデリア様が欲しいとか言わないよな……)
流石にそれは困る。
非常に困る。
だがレオニスは理解していた。
ヴァルドはフィデリアに対して何か特別な感情を抱いている。
敵意ではない。
かといって好意とも違う。
懐かしむような。
確かめるような。
そんな奇妙な眼差しだった。
フィデリアも気付いているらしい。
静かな表情の奥に、わずかな緊張が見えた。
しかし。
ヴァルドは何も言わなかった。
「森を抜けるのに、あと三日はかかる」
代わりにそう告げる。
「君達も休みたまえ。歩哨は私が行う」
それだけだった。
焚き火が静かに揺れる。
レオニスは湯気の立つ茶を見つめた。
結局、ヴァルドは自分の望みを語らない。
胸の内も語らない。
何を考え。
何を求め。
何のために動いているのか。
それすら分からない。
だが、まだ三日ある。
それまでに。
この謎だらけの男の心の内を、一つくらいは知りたいものだとレオニスは思った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




