純粋な敗北感
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
時間が止まった。
世界が凍った。
少なくとも、その場にいた者たちはそう錯覚した。
グラーディスも。
イシュリアンも。
レオニスも。
そしてフィデリアでさえも。
勇者が最大の敵かもしれない男へ土下座している。
そんな光景を誰が想像できただろうか。
沈黙の中で、最初に口を開いたのは当事者ヴァルドだった。
「何と言った?」
声色は変わらない。
怒気もない。
威圧もない。
ただ確認するような口調だった。
レオニスは逆に感心してしまった。
この状況で平静を保てる精神力と胆力は、もはや尊敬に値する。
アウレリアは額を地面につけたまま答える。
「あたしに修行というか、稽古をつけて欲しい」
一度言葉を切る。
そして言い直した。
「いえ……稽古をつけてください」
先ほどまでの軽さはない。
そこには明確な覚悟があった。
周囲の視線など意に介していない。
恥も外聞も捨てている。
アウレリアを知る者ほど理解できた。
彼女は本気だ。
本気だからこそ頭を下げている。
だから余計に理解できない。
レオニスは思う。
普通はやらない。
というより、やれない。
相手は自分を殺しかけた男なのだ。
それでもアウレリアは迷わなかった。
ヴァルドはしばらく彼女を見下ろしていた。
やがて静かに言う。
「お前は十分強い。なぜ力を求める」
その場にいた全員が息を呑んだ。
十分強い。
その評価の重みを理解できない者はいない。
ヴァルドが認めた。
あのヴァルドが。
戦場の神と呼んでもおかしくない男が。
勇者アウレリアを強者だと断言した。
本来なら誇るべき言葉だった。
だがアウレリアは顔を上げない。
むしろ苦しそうに唇を噛んだ。
「……駄目なんだ」
声が震える。
珍しいことだった。
彼女が迷いを見せることは少ない。
「駄目だったんだよ」
誰に言うでもなく呟く。
あの日の記憶が蘇る。
圧倒的な力。
覆せない差。
どう足掻いても届かなかった背中。
「……あの時、思ったんだ」
アウレリアは拳を握る。
土が指の間からこぼれ落ちる。
「いざって時」
そして顔を上げた。
真っ直ぐにヴァルドを見る。
恐怖も。
怯えも。
そこにはなかった。
「あんたでも止められるくらいの力を身につけないといけない」
誰も声を出せなかった。
無茶苦茶だった。
常識で考えれば成立しない願いだ。
お前を倒したい。
だからお前が力を貸せ。
そう言っているのと変わらない。
グラーディスの表情が強張る。
イシュリアンも聖杖を握る手に力を込めた。
レオニスは胃が痛くなった。
言ってはいけないことを言った。
そう思った。
だがヴァルドは怒らない。
否定もしない。
静かに腰の剣へ手を添えた。
鞘に収まったままの長剣。
それだけの動作なのに空気が変わる。
重くなる。
息苦しくなる。
生き物としての本能が警鐘を鳴らしていた。
それでもアウレリアは目を逸らさない。
ヴァルドもまた視線を外さない。
長い沈黙が続いた。
やがて。
「続けろ」
低い声が響いた。
拒絶ではない。
だが許可でもない。
試すような声だった。
アウレリアとヴァルド。
二人の間に見えない刃が走る。
その場にいた誰もが理解した。
今交わされているのは会話ではない。
力を持つ者同士の問い掛けだった。
そして、その緊張はさらに深まっていく。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あんたは、まだ剣を止めてくれる」
アウレリアは顔を上げない。
額を地面につけたまま、言葉だけを絞り出した。
「だけど、そんな奴ばっかりじゃないと思っている」
「そんな時、あたしは力がないばっかりに、止められないことが嫌なんだ」
「そして、今のあたしには、そんな力がないことが嫌なんだ」
最後の言葉は小さかった。
しかし、その場にいる全員にははっきりと聞こえた。
強さを誇る勇者が、自らの無力を認めている。
それは誰よりも重い告白だった。
レオニスは静かに息を吐いた。
ようやく理解したのだ。
アウレリアは負けたことが悔しいのではない。
守れなかった可能性が悔しいのだ。
体面でもない。
名誉でもない。
その先にいる誰かを守れなかった未来が許せない。
だから頭を下げている。
勇者としてではなく、一人の少女として。
しかし、ヴァルドの返答は予想とは違った。
「お前が自分のために力を求める考え方は、正しい」
その言葉にアウレリアの肩が僅かに動く。
肯定された。
誰もがそう思った。
だが次の言葉が続いた。
「……だが、誰かの為に使うとしたら、正しくはない」
空気が張り詰める。
ヴァルドの黄金の瞳は微動だにしない。
「自分の力を使う時、自分の意思を手放し、誰かのためという大義名分に預けるな」
誰も意味を理解できなかった。
フィデリアも。
グラーディスも。
レオニスも。
そしてアウレリアも。
だからこそ叫んだ。
「どういうことよ!」
顔を上げたアウレリアの声には苛立ちが混じっていた。
ヴァルドは答える。
まるで昔の出来事を思い返すように。
「例えば、私と戦った槍使いの男だ」
その瞬間、全員の脳裏に同じ人物が浮かんだ。
ゼルハイン。
仲間を逃がすためにヴァルドへ挑んだ男。
「……」
誰も言葉を発せない。
ヴァルドだけが続ける。
「あの男は、お前たちに悔いを託すために私へ挑んだのでは決してない」
静かな声だった。
だが、その一言には揺るぎない確信があった。
「誰かに強制されたからでも、使命でもない」
「自分で決断し、自分で選び、自分の魂で私に吠えた」
「だから私は敬意を持った」
そこでヴァルドは剣を抜いた。
鞘から滑り出た銀の刀身が陽光を反射する。
一瞬で周囲の空気が変わった。
誰も動けない。
ただ見守るしかない。
その剣先はアウレリアへ向けられていた。
「もしお前が」
ヴァルドの声が低くなる。
「自分の力不足を理由に、あの男の決断を理解せず背負おうとするなら」
「自分が代わりに果たしてやるなどと考えるなら」
「それはあの男の魂を侮辱する行為だ」
静寂が落ちた。
誰も反論できなかった。
ゼルハインは誰かのために命を使ったのではない。
自らの意思で戦い。
自らの意思で敗れた。
それが戦士としての矜持だった。
「あの男の決断と魂を汚すと言うのであれば」
ヴァルドの瞳が真っ直ぐアウレリアを射抜く。
「私はお前を斬らねばならん」
アウレリアは言葉を失った。
反論できない。
悔しいほどに理解してしまったからだ。
そして、しばらくの沈黙の後。
ぽつりと呟く。
「……なんだよ、それ」
その声には怒りもなかった。
皮肉もなかった。
ただ純粋な敗北感だけがあった。
「まるで、あんたの方がゼルをわかってるみたいじゃないか」
レオニスは息を呑んだ。
その言葉こそが敗北宣言だった。
勇者アウレリアはまた負けた。
剣ではない。
力でもない。
生き方で。
覚悟で。
器で。
ヴァルドという存在に負けた。
だが。
アウレリアは目を逸らさなかった。
負けを認めたまま立ち上がる。
そして真っ直ぐにヴァルドを見上げた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「改めてお願いします」
深く頭を下げる。
今度は逃げるためではない。
認めるためでもない。
学ぶためだ。
「あたしに稽古をつけてください」
ヴァルドはしばらく沈黙した。
やがて剣を鞘へ戻す。
金属音が静かに響いた。
そして、小さく頷いた。
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