その可能性は十分ありえるでしょう
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「王国に戻ってから、色々と調べました」
静かな声だった。
机の上には書物が積み上がり、開かれた資料には細かな書き込みが見える。
それらは決して一日や二日で集められる量ではなかった。
「そんな時期からですか?」
レオニスは思わず聞き返した。
巡礼から戻ってまだそれほど時間は経っていない。
だが、この部屋の様子を見る限り、イシュリアンは帰還後すぐに調査へ取り掛かったのだろう。
「あんなことがあったのです、当然でしょう」
「……そうですね」
否定はできなかった。
巡礼の地で起きた出来事は、それほどまでに常識を揺るがすものだった。
アウレリアとファイが互いの信念を賭けてぶつかり合った戦い。
圧倒的な実力を持つヴァルドとの邂逅。
そして――聖槍士ゼルハインという男の生き様。
あの旅で見たものは、今なお鮮明に記憶へ焼き付いている。
忘れようとしても忘れられない。
だからこそ、イシュリアンが調査を始めたことにも納得できた。
「ゼルの言っていた魔王国という地は王国の西に存在します」
イシュリアンは資料を一枚取り出しながら続ける。
「では、魔王も存在するのですか?」
レオニスは率直に尋ねた。
魔王。
幼い頃から聞かされてきた物語の悪役。
勇者が討つべき絶対悪。
人類最大の敵。
魔王国という名がある以上、そこに魔王がいると考えるのは自然だった。
しかし。
「不明です」
返ってきた答えはあまりにも簡潔だった。
「え!?魔王国ですよね?」
思わず声が上がる。
イシュリアンは冷静なまま頷いた。
「記録上だけの私が出した結論は、今の魔王国は『以前は魔王が支配していた国』です」
まるで研究結果を報告するような口調だった。
感情はない。
あるのは事実の整理だけだ。
「では、昔は魔王は存在したということでしょうか?」
「こちらの記録では、『勇者』は『魔王国』に赴き、『魔王』を討ったと残っています」
そこで僅かに言葉が止まる。
ほんの一瞬だった。
だがレオニスは気付いた。
イシュリアンが何かを引っ掛けている。
資料を読むだけなら迷う必要はない。
それでも彼女は言葉を選んだ。
(イシュリアン様は何か気になることでもあるのか?)
レオニスは考える。
勇者。
魔王。
魔王国。
どれも昔から当たり前に語られてきた言葉だ。
誰も疑問を抱かない。
だからこそ、一度立ち止まると妙な違和感が生まれる。
レオニスは記録の内容を頭の中で反芻した。
そして。
「あの、イシュリアン様。僕の疑問なのですが……」
「何でしょう」
レオニスはすぐには口にしなかった。
一度整理する。
考えをまとめる。
文官として身につけた癖だった。
そして慎重に問いを形にする。
「どうして『勇者』は『魔王国』に『赴いた』のでしょうか?」
静かな部屋の中で、その言葉だけが妙に重く響いた。
イシュリアンは目を瞬かせた。
感情を表に出さない彼女には珍しい反応だった。
レオニスの確認は、イシュリアンの持った疑問と繋がるからだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
イシュリアンはわずかに目を細めた。
その紫の瞳には驚きが浮かんでいる。
もっとも、それはレオニスの推測を否定するためのものではなかった。
むしろ逆だった。
わずかな情報だけで、自分と同じ場所まで思考を進めたことへの驚きである。
しかし、それを表に出すことはない。
いつものように淡々と口を開く。
「実は、私から見ると、それほど違和感はありません」
「え?」
レオニスは首を傾げた。
イシュリアンは一拍置く。
「巡礼の地です」
「あ!」
思わず間の抜けた声が漏れた。
その瞬間、頭の中で散らばっていた情報が一本の線になる。
確かに巡礼の地の存在を前提にするならば、勇者が魔王国へ赴くこと自体は不自然ではない。
巡礼の地は魔王国にも存在する。
だが。
「ですが、それは知っていればの話です」
「?」
「私たちは巡礼の地に旅立つ際、『開闢以来の快挙』と言われて送り出されました」
静かな声だった。
だが、その言葉には重みがある。
レオニスもその言葉を覚えている。
王国史上初。
誰も成し遂げられなかった偉業。
そう説明されていた。
イシュリアンは続ける。
「これが言い間違いでもなければ、王国は魔王国の巡礼の地を知りません」
「……」
「そして、私が閲覧できる範囲で、『魔王国の巡礼の地』に関する記録は存在しませんでした」
部屋の空気が少しだけ重くなる。
それはゼルハインの言葉を聞いた者だけが気付ける矛盾だった。
王国の記録と現実が食い違っている。
「イシュリアン様!」
レオニスは思わず周囲を見回した。
こんな話を軽々しく口にしていいのか。
そんな不安が先に立つ。
するとイシュリアンは落ち着いた声で言った。
「大丈夫です。この部屋の盗聴や監視に対する機密対策は完了しています」
「は、はい」
レオニスは胸を撫で下ろした。
正直なところ、説明の内容は半分も理解できていない。
だが本人がそう言うのだから大丈夫なのだろう。
たぶん。
「まぁ、それを除けば、今回の出征理由についてはレオニスの考えが有力でしょう」
「……では、やはり」
「はい。私もそう思います」
その瞬間。
レオニスの背筋を冷たいものが走った。
自分が口にした推測。
できれば外れていてほしいと願っていた結論。
「……王国から魔王国への勇者を使った侵攻行為」
イシュリアンは静かに頷いた。
「その可能性は十分ありえるでしょう」
お伽話ではない。
正義と悪の単純な戦いでもない。
もしそうだとしたら。
勇者とは何なのか。
魔王とは何なのか。
今まで信じてきた歴史は何だったのか。
「魔王国って、どんなところなんでしょうか」
レオニスはぽつりと呟いた。
イシュリアンは頷く。
「それに関しては情報を共有しておきます」
そう言うと、近くの机から大きなガラス瓶を取り出した。
中には毒々しい紫色の液体が揺れている。
見ているだけで身体に悪そうだった。
「なんでしょうか、これ?」
「飲めば、これに溶かされた記憶が――」
「あの、もう少し常人が受け入れやすい方法でお願いします」
即答だった。
食い気味だった。
イシュリアンは少しだけ不満そうな顔をする。
「効率は良いのですが」
「怖いんです」
「そうですか」
どこか残念そうである。
レオニスは心の底から安堵した。
少なくとも、自分はまだその液体を飲まずに済んだらしい。
そして改めて思う。
(魔法使いの行動力……こわ……)
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