イシュリアン・メルカディア
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……で、これはお使いという奴なのかな」
王城の廊下を歩きながら、レオニスは小さくため息をついた。
つい先ほどまで第三王子の執務室にいたはずなのに、気が付けば新しい役職と仕事を抱えさせられている。
原因は言うまでもなくグラーディスだった。
『リアンに協力を取り付けて、教会側が持っている魔王国の情報を手に入れてくれ』
そう言われた時、レオニスは当然反論した。
『いや、それは出来ないと、さっきグラーディス様が仰ったところでは?』
すると返ってきた答えは実に簡潔だった。
『レオニスがやる分には問題ないさ。君は専任首席文官だからね』
『先程、予定と仰っていましたが』
『それもそうだ。では、予定を無くそう』
その直後だった。
グラーディスは机の引き出しから書類を取り出し、慣れた手付きで署名を行った。
さらに王族の権威を示す御璽を押印する。
数分後には正式な任命書が完成していた。
あまりにも手際が良すぎた。
『これで問題はない。正式な文書だ』
満足そうに微笑む第三王子。
その姿を見ながら、レオニスは妙な恐怖を覚えていた。
『王族権限の中で、私の裁量で行えることだからね。容易いことだよ』
(王族の行動力……こわ……)
巡礼の旅では見えなかった一面だった。
善意で行動している。
だが決断が異様に速い。
そして周囲が止める前に実行する。
王族とはこういう生き物なのだろうか。
レオニスにはよく分からなかった。
『これで書庫の閲覧権限も相当なものになる』
その時だけはグラーディスの目が鋭くなった。
『王国が隠している魔王国の情報収集は必須だ』
巡礼を終えてから変わったのだろう。
あの言葉には確かな危機感があった。
『……御意』
そうしてレオニスは正式に専任首席文官となったのである。
本人の意思とは無関係に。
そして現在。
王城内の回廊を歩きながら、目的地へ向かっていた。
教会区画。
そこにいるはずの人物に会うため、面談予約の手続きをしようとする。
イシュリアン・メルカディア。
聖導師。
王国最強と噂される魔導師。
王国が任命した三聖者の一人。
だが、改めて考えると奇妙なことに気付く。
「……しかし、大丈夫かな」
思わず独り言が漏れた。
巡礼では何度も行動を共にしたこともあった。
大げさに言えば、命も預け合った。
それなのに。
(彼女のこと、よく考えると全然知らないな)
グラーディスについては多少知っている。
第三王子であること。
王族としての立場。
性格。
考え方。
旅の途中で少しずつ見えてきた。
だがイシュリアンは違う。
教会の秘匿戦力。
その程度の認識しかなかった。
勇者選抜トーナメントで初めて公の場へ現れた少女。
アウレリアに敗れたが、天才魔導師であることは疑いない。
そしてフィデリアから聖杖を授かった人物。
知識として知っていることはそれくらいだ。
(アウレリアの仲間だったはずなのに……)
思い返してみても、彼女自身について語る場面はほとんどなかった。
何を好み。
何を嫌い。
どんな人生を歩んできたのか。
何一つ知らない。
むしろ謎ばかりである。
(と、まあ、このくらいかな……)
そこで思考を区切った瞬間だった。
「……君は、相当失礼なことを考えていませんか」
すぐ近くから声がした。
感情の起伏が薄い、聞き慣れた声。
「わぁっ!?」
レオニスは思わず飛び上がった。
慌てて振り返る。
そこには一人の少女が立っていた。
長いローブ。
深く被られたフード。
淡い紫色の髪がわずかに覗いている。
いつからそこにいたのか分からない。
気配がまるでなかった。
紫色の瞳だけが静かにこちらを見ている。
イシュリアン・メルカディア。
その本人だった。
「驚きすぎです」
淡々とした声だった。
しかしレオニスには、どことなく呆れられているようにも聞こえた。
そして彼は思う。
イシュリアンについて分かったことが一つある。
気配を消して、背後から近づくことに驚かされる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レオニスは、予想していた以上に簡単にイシュリアンと会えたことに戸惑っていた。
教会の中枢に属する人物。
王国最強の魔導師。
聖導師。
そうした肩書きを持つ存在ならば、面会の申請だけでも何日も待たされるものだと思っていた。
だが現実は違った。
廊下で声を掛けられたと思ったら、本人だったのである。
拍子抜けするほどあっさりしていた。
もっとも。
気配を完全に消して背後に立つのはやめてほしいと、レオニスは心の底から思っていた。
ひとまず、その感想は飲み込む。
今は仕事が先だ。
「えっと、実は……」
「わかっています。グラディですね」
「はい、ご察しのとおりで」
説明する手間すら与えられなかった。
イシュリアンは淡々と頷く。
「では、ついてきてください」
「え?」
「時間の無駄です」
そう言って歩き出す。
迷いのない足取りだった。
(この人も対応が早い)
レオニスは小走りで後を追った。
向かう先は王城ではない。
教会区だった。
一般には教会区と呼ばれているが、その認識は厳密には正しくない。
王国に仕える文官であるレオニスは知っている。
あそこは単なる宗教施設の集まりではない。
法国。
王国と並び立つ、もう一つの国家だ。
この国の実態は王国と法国による二重王政で成り立っている。
対外的には一つの国家。
しかし内部では違う。
国王と教皇は対等。
どちらかがどちらかに従属しているわけではない。
王家に仕える者であれば誰もが知る不文律だった。
民衆には序列があるように見せている。
だが、それは政治上の演出に過ぎない。
だからこそ、王族であるグラーディスであっても法国には自由に干渉できない。
逆も同じだ。
レオニスが王国側でどれだけ権限を与えられようと、法国では何の意味も持たない。
(今まであまり意識していなかったけど……)
教会区へ足を踏み入れる。
途端に空気が変わった。
(やっぱり街並みそのものが違う)
整備された石畳。
均一な建築様式。
清潔に保たれた街路。
王都の住民区画も決して悪くはない。
だが比較すると、こちらの方が数年先を歩いているように見える。
そして何より。
魔法が身近だった。
大通りに並ぶ街灯。
その多くが魔法照明である。
王都側では油や蝋燭が主流だ。
夜になれば明るさには限界がある。
しかしこちらは違う。
昼間ですら魔力の残滓が感じられるほど、生活の中に魔法が溶け込んでいた。
この差がそのまま人材にも表れている。
王国の魔法使いの多くは法国側の出身者だ。
神官と呼ばれる彼らは、政治や行政においても重要な役割を担う。
勇者の儀の進行役を務めていた者たちも神官だった。
つまり。
王国は剣の国。
法国は魔法の国。
そんな言い方もできる。
「あの、メルカディア様」
「何でしょう」
「どこへ向かっているのですか?」
歩きながら尋ねる。
するとイシュリアンは振り返りもせず答えた。
「私の私室です」
「……はい?」
レオニスは数秒遅れて反応した。
私室。
つまり個人の部屋である。
それを男性であるレオニスに平然と告げた。
イシュリアンは気にした様子もない。
「あと、私のことはリアンと呼んでください」
「え?」
「その方が話しやすいでしょうし」
あまりにも自然だった。
まるで当然の提案をしているような口調である。
レオニスは固まった。
(メルカディア様、貴方もですか!?)
つい一刻前。
グラーディスからも同じようなことを言われたばかりだった。
今度はイシュリアンである。
しかも接点はこちらの方がさらに少ない。
巡礼を共にしたとはいえ、個人的な会話などほとんど記憶にない。
そんな相手から突然愛称呼びを許されても困る。
「あの、せめてイシュリアン様でお願いします」
「そうですか」
特に残念そうでもなく了承された。
それが逆にありがたかった。
レオニスは小さく胸を撫で下ろす。
だが同時に思う。
巡礼が終わってからというもの。
周囲の人間との距離感がおかしくなっている気がした。
王子は突然側近に任命してくる。
聖導師は愛称で呼べと言ってくる。
そして自分は今、教会区の奥へと案内されている。
あまりにも変化が急激だった。
レオニスは静かにため息を吐いた。
この先、自分の平穏な文官生活が戻ってくる気がまったくしなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「どうぞ」
「はい、では……失礼します」
イシュリアンに促され、レオニスは部屋の扉をくぐった。
その瞬間。
彼の足が止まる。
異性の私室に入ることへの緊張。
それも確かにあった。
イシュリアン・メルカディアは、その無表情さに隠れがちだが、整った容姿を持つ女性だ。
淡い紫の長髪。
白い肌。
静かな紫の瞳。
王都でも目を引く美貌であることは間違いない。
だからこそ多少は意識していた。
だが。
部屋を見た瞬間、その緊張は別の感情に吹き飛んだ。
(……いや、そうだよな)
思わず納得する。
なぜか安心すらした。
「なにをしているのですか。早く入りなさい」
「あ、はい」
催促され、慌てて中へ入る。
改めて見渡す。
そして確信した。
本だ。
本だった。
本しかない。
壁際には本棚。
だが本棚に収まりきらない本が積み上げられている。
机の上にも本。
椅子の上にも本。
床にも本。
さらに本の隙間には薬品らしき瓶や、見たこともない魔物素材が置かれていた。
何かの骨。
乾燥した植物。
魔石らしき鉱物。
それらが雑然と、しかし一定の法則を持って並べられている。
おそらく本人にしか分からない法則だ。
肝心の寝台がどこにあるのかすら見えない。
床の一部だけが細く空いている。
まるで獣道だった。
「あ、そこは崩さないように気をつけてください」
イシュリアンは当然のように言う。
本人は迷いなく進んでいく。
慣れたものだった。
レオニスは慎重に後を追う。
(……これからの会話、なんとなく予想できるんだけど)
巡礼の旅で得た印象が脳裏をよぎる。
研究者気質。
合理主義。
興味のあることには没頭する。
そして生活能力に若干の不安がある。
そんな偏見が頭をもたげた。
だから確認してみる。
「あの、片づけないんですか?」
「いつもは片づけますが、今は調査の最中です」
即答だった。
しかも少し不満そうである。
まるで状況が許せば片づけるのに、と言いたげだった。
(……そこは期待を裏切るんですか)
レオニスは内心で驚く。
勝手に想像していたのだ。
イシュリアンは掃除が苦手である。
あるいは、
『これこそ機能美です』
などと真顔で言い切るのではないかと。
しかし違った。
むしろ本人は散らかっている状態を好んでいないらしい。
それが妙に安心できた。
「助かります。本当に……」
「何がですか?」
「いえ、なんでもありません」
危うく本音が漏れそうになる。
イシュリアンはじっとこちらを見る。
その視線だけで妙な圧があった。
「また失礼なことを考えていたのでしょう」
「……はい。失礼しました」
レオニスは素直に認めた。
どうせ誤魔化しても見抜かれる気がした。
イシュリアンは小さく息を吐く。
呆れたのかもしれない。
だがそれ以上は追及しなかった。
「グラディに言われて、色々調べていただけです」
「グラーディス様に?」
その言葉にレオニスは反応する。
先ほどまで自分が会っていた第三王子の名前だ。
「レオニスは、それを聞きに来たのでしょう?」
イシュリアンは本の山の一角から数冊を取り出した。
机の空いている場所に置く。
それだけで話題が変わったことが分かった。
先ほどまでの雑談めいた空気が消える。
聖導師としての顔。
調査者としての顔。
そんな雰囲気が現れる。
「魔王国について」
静かな声だった。
だがその一言には重みがあった。
巡礼の終着点で知った新たな名。
王国上層部が突如口にした次なる目的地。
そしてゼルハインが最後に遺した言葉にも繋がる場所。
魔王国。
それは彼らがこれから向かうかもしれない未知の土地だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




