立派な戦士だな
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
凪いだ海だった。
空と海の境界さえ曖昧になるほど静かで、どこまでも青が続いている。
潮騒だけが穏やかに響く世界。
アウレリアは、その景色をただ見つめていた。
言葉を失うほど美しい光景だった。
「よう、アウレリア。何、呆けてるんだよ」
聞き慣れた声が隣からした。
いつの間に現れたのか。
ゼルハインが気軽な様子で立っていた。
「あまりに綺麗な景色だから見入ってた」
「ほう、お前さんにも、そんな台詞が出るんだな」
「当たり前でしょ」
アウレリアは少し頬を膨らませる。
「あたしは、こんな景色が見たくて旅を始めたんだ」
その言葉に、ゼルハインは少しだけ目を細めた。
「そうか」
そして水平線を眺める。
「この景色は、俺も悪くないと思うぜ」
二人の間に静かな時間が流れる。
戦いもない。
使命もない。
ただ海を眺めるだけの時間。
それは旅人だけが知る贅沢だった。
やがてゼルハインが頭をかいた。
珍しく言いづらそうな顔だった。
「悪いが、俺は先にいかなくちゃならねぇ」
アウレリアが振り向く。
ゼルハインは笑っていた。
いつものように。
だが、その笑みの奥には確かな決意があった。
「俺は俺自身で決めた」
「行ってみたくなった」
「確かめてみたくなった」
何を。
どこへ。
その言葉は語られない。
それでもアウレリアには伝わった。
ゼルハインは自分で選んだのだ。
誰かに決められた道ではなく。
自分自身の道を。
「だが、お前は違うぜ」
ゼルハインは真っ直ぐに告げる。
「選ぼうが、選ぶまいが、お前の自由だ。アウレリア」
その言葉にアウレリアは首を傾げた。
難しい話をされると調子が狂う。
だから誤魔化すように笑った。
「何言ってるのよ、ゼル。そんな台詞で、あたしを口説いてるの?」
一瞬の沈黙。
そして。
ゼルハインは豪快に笑った。
「更に俺のために女を磨いて来てくれ。そしたら、叶えてやるよ」
「あっ――」
予想外の返しだった。
アウレリアの顔がみるみる赤くなる。
ゼルハインは楽しそうだった。
最後まで。
本当に最後まで。
その男らしかった。
やがてゼルハインは海へ足を踏み出す。
波が足元を濡らす。
それでも迷わない。
水平線の向こうへ向かうように歩き始める。
「じゃ、行ってくるぜ」
アウレリアは呼び止められなかった。
足も動かない。
ただ、その背中を見送る。
遠ざかる背中には悲壮感がなかった。
死地へ向かう者の影もない。
あるのは旅立つ者の期待だけだった。
未来へ向かう者だけが持つ輝き。
その姿は徐々に光へ溶けていった。
――――――
巡礼の地。
ヴァルドは静かに立っていた。
黄金の瞳が前を見据える。
「お前は、同意を選んだか」
誰に聞かせるでもない言葉。
ゼルハインの姿が粒子となって消えていく。
「そして仲間を私から逃がすため、あれ程の力を出した」
黒き聖剣が静かに鞘へ収まる。
金属音が小さく響いた。
「さらに、魂で私に吠えたか」
地面へ落ちた聖槍が淡く輝く。
その光もまた消えていく。
ヴァルドはしばらく沈黙した。
そして短く告げる。
「立派な戦士だな」
その一言には偽りがなかった。
強者が強者へ送る賛辞。
戦士が戦士へ送る敬意。
「今はお前に免じてもう少し時間をやろう」
静かな声だった。
「それがお前への褒美だ」
風が吹く。
次の瞬間。
ヴァルドの姿は消えていた。
最初から誰もいなかったかのように。
ただ静寂だけが残る。
勇者たちは届かなかった。
戦士の頂。
世界の天井。
ヴァルドという男へ。
だが、その背中を追う資格だけは。
確かに残されたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
静寂が支配していた。
巡礼の地に吹く風だけが、かすかに草を揺らしている。
誰も言葉を発しない。
全員の視線は一人へ向けられていた。
横たわるアウレリアへ。
呼吸は安定している。
顔色も悪くない。
命に別状はないことは明らかだった。
フィデリアが聖剣の力を用いて治療を施した。
傷は塞がっている。
失われた血も補われている。
それでも。
アウレリアは目を覚まさなかった。
まるで遠い場所へ旅立っているように。
静かに眠り続けていた。
その時だった。
聖剣が震えた。
次の瞬間。
眩い光が巡礼の地を包み込む。
「っ――!」
グラディが思わず目を細める。
空気が震えた。
大地の奥底から何かが目覚めるような感覚。
神秘そのものが呼吸を始めたようだった。
そして異変は聖剣だけでは終わらない。
リアンの持つ聖杖。
グラディの持つ聖盾。
二つの聖具も同時に光を放ち始めた。
淡い輝きではない。
存在そのものを書き換えるような光。
杖の表面に新たな紋様が浮かぶ。
盾の縁には見たこともない装飾が現れる。
質量感が変わる。
放たれる神気が変わる。
まるで武具そのものが、一段上の存在へ到達したかのようだった。
「……これは」
グラディは息を呑む。
握った盾の感触が違う。
以前までとは比較にならない。
同じ盾でありながら、まるで別物だった。
リアンも震える瞳で杖を見つめる。
「どういうこと……」
困惑だけが広がる。
誰も答えを持たない。
――そのはずだった。
どさり。
不意に鈍い音が響いた。
振り返る。
レオニスが地面へ倒れていた。
「レオニス!?」
リアンが駆け寄ろうとして足を止める。
その前に立つ人物がいた。
「聞かせることのできない者には、眠っていてもらいました」
フィデリアだった。
聖剣を手にしたまま。
静かに。
まるで何かを決意したように立っていた。
「一つ目の巡礼が終わりました」
その声は不思議なほど落ち着いていた。
「同意者が選定者を認めるという形で」
リアンとグラディは言葉を失う。
フィデリアは続けた。
「人の望む“勇者の儀”は、次の段階に進みます」
その声音は重かった。
長い年月。
誰にも語れなかった秘密を。
ようやく吐き出しているようだった。
「そして――これは、人にとって過ぎた力でもあります」
空気が変わる。
張り詰める。
本能が警鐘を鳴らしていた。
聞いてはいけない真実を聞こうとしている。
そんな感覚だった。
フィデリアは二人を見る。
逃げることなく。
真っ直ぐに。
「貴方達は選定者の守護者です」
そこで言葉が途切れる。
短い沈黙。
だが、その沈黙の意味を理解できた者はいない。
そして。
フィデリアは告げた。
「同時に、抑止力です」
リアンの喉が鳴った。
理解してしまった。
守るだけではない。
支えるだけでもない。
選定者が道を踏み外した時。
力に呑まれた時。
暴走した時。
剣を向ける役目もまた。
自分たちなのだと。
「これは選定者には伝えられません」
フィデリアの声が震える。
初めてだった。
いつも穏やかな彼女が、こんな声を出すのは。
「裏切ることのできない、魂の誓いです」
ぽたり。
雫が落ちた。
フィデリアの瞳から零れた涙だった。
一滴。
また一滴。
止めることができない。
リアンもグラディも何も言えなかった。
今になって理解した。
フィデリアが何に苦しんでいたのか。
なぜ一人で背負っていたのか。
勇者の儀は続く。
だが。
もう以前と同じ旅ではない。
アウレリアの隣に立つということは。
いつか剣を向ける可能性を受け入れるということ。
守るために。
討つ覚悟を持つということ。
その重みだけが静かに胸へ沈んでいく。
遥か遠く。
空と大地の境界の先。
次なる巡礼の地。
魔王国への道だけが、静かに続いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
次回からフィデリア編の次章になります




