それが勇者っていうなら――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
誰も、言葉を失っていた。
巡礼の地を吹き抜ける風だけが音を立てる。
アウレリアの聖剣は地面に突き刺さったまま。
その持ち主は空手だった。
ファイを打ち破った勇者。
誰よりも前へ進み続けた少女。
そのアウレリアが、たった一合で剣を失った。
しかも相手は傷一つ負っていない。
現実が理解できなかった。
ゼルハインは歯を食いしばる。
グラーディスは破損した聖盾を握り締める。
イシュリアンは震える手で聖杖を支えた。
神に授けられた武具。
神に選ばれた勇者。
その常識が目の前で崩壊していた。
さらに恐ろしいのは別の事実だった。
ヴァルドの握る黒い剣。
あれもまた聖剣だった。
フィデリアには分かる。
見間違えるはずがない。
神の加護。
聖なる波動。
全てが宿っている。
にもかかわらず、自分はあの剣を与えた記憶がない。
存在するはずがない。
だが存在している。
それが何よりも恐ろしかった。
沈黙の中、ヴァルドが静かに口を開く。
「……才能だけで、よくここまでたどり着いた」
その声音に嘲笑はない。
純粋な評価だった。
事実を述べるだけの口調。
だからこそ重い。
アウレリアは悔しそうに唇を噛む。
褒められている。
だが勝者からの賞賛だった。
そして圧倒的格上からの評価だった。
「……試しは終わりだ」
ヴァルドはそう告げた。
その言葉にフィデリアの肩が震える。
黒い聖剣が持ち上げられた。
ゆっくりと。
迷いなく。
その切っ先が向けられたのはアウレリアではない。
フィデリアだった。
「……この儀式は認められない……」
静かな宣告。
感情はない。
怒りも憎しみもない。
ただ結論だけが存在していた。
フィデリアは凍り付く。
身体が動かない。
本能が理解していた。
避けられない。
間に合わない。
ヴァルドが剣を振り下ろした。
黒い軌跡が空を裂く。
次の瞬間。
鮮血が舞った。
赤い飛沫が空中に散る。
「ああっ!!」
レオニスの叫びが響いた。
誰も予想していなかった。
誰よりも先に動いた者がいた。
フィデリアの前へ飛び込んだ影。
黒い刃はその身体を深々と斬り裂いていた。
アウレリアだった。
胸から腹にかけて大きく裂けた傷口。
鎧が真紅に染まる。
大量の血が地面へ滴り落ちる。
それでも倒れない。
膝を折らない。
少女は両足で立っていた。
フィデリアを背中に庇いながら。
「アウレリア!!」
フィデリアが悲鳴を上げる。
レオニスが駆け出そうとする。
しかしアウレリアは片手を上げて制した。
血を吐く。
唇から赤い筋が流れる。
それでも瞳だけは死んでいなかった。
真っ直ぐヴァルドを睨み返す。
「……何すんだ」
震える声。
だが怒りは消えていない。
「……あたしの大切な友達だぞ!」
叫びだった。
理屈ではない。
信念でもない。
ただ心から出た言葉だった。
胸を裂かれながら。
命を削られながら。
それでも最初に出てきたのは友を守る言葉だった。
血が流れる。
足元に赤い水溜まりが広がる。
それでもアウレリアは退かない。
聖剣を失った。
力の差も見せつけられた。
勝てないことも理解している。
それでも。
「……聖剣なんぞ、無くても」
肩で息をする。
身体が揺れる。
「……あたしはフィデリアを傷つけさせない!」
両腕を広げる。
まるで壁のように。
傷だらけの身体で。
友を守るためだけに立ち塞がる。
その姿に。
初めてだった。
ヴァルドの動きが止まる。
黒い聖剣を握ったまま。
世界の天井と呼ばれる男は。
ただ静かにアウレリアを見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヴァルドは静かにアウレリアを見つめていた。
胸から腹にかけて裂かれた傷口から血が流れ続けている。
それでも少女は退かない。
その姿を見ても、黄金の瞳は揺れなかった。
「……無駄なことだ」
低い声が響く。
「聖剣の力を解放すれば、人の壁など薄紙に等しい」
黒き聖剣の切っ先が持ち上がる。
そのままアウレリアの喉元へ。
冷たい刃先が肌に触れた。
「文字通りの無意味な行為だ」
「無意味じゃない」
即答だった。
傷の痛みなど感じていないかのように。
アウレリアは真っ直ぐヴァルドを睨み返した。
「誰でもない」
「あたしの意思で決めた事を」
「何も知らない、あんたに評価して欲しくない」
フィデリアが息を呑む。
レオニスも言葉を失う。
喉元に剣。
突き付けられる死。
それでも少女は視線を逸らさなかった。
誇りだけは譲らない。
それがアウレリアだった。
力を失っても。
勝てなくても。
守ると決めたものだけは捨てない。
「それで満足なら、もう問うまい」
ヴァルドは淡々と告げた。
まるで結論を下すように。
だが。
「無駄じゃねぇ!無意味でもねぇ!」
怒声が戦場を貫いた。
次の瞬間。
赤い閃光が飛び込む。
「ゼルハイン!」
グラーディスが叫ぶ。
聖槍を携えた男が笑っていた。
死地へ向かう者とは思えないほど豪快に。
「フィデリアを連れて逃げろ」
「こいつは正真正銘の負け戦だ」
その背中は大きかった。
仲間たちを守るため。
勝てないと理解した上で前へ出る。
武人としての覚悟だった。
ゼルハインは聖槍を構える。
全身の魔力を注ぎ込む。
「殿は武人の誉れってやつでね」
ヴァルドは何も答えない。
ただ一歩。
前へ出た。
それだけだった。
直後。
鮮血が舞う。
宙を回転する一本の腕。
それが何なのか理解するまで、誰も数秒を要した。
「――ぁ」
イシュリアンの喉から掠れた声が漏れる。
ゼルハインの左腕だった。
あまりにも一方的。
あまりにも圧倒的。
次元が違う。
その瞬間だった。
巡礼の地が震えた。
地面の亀裂から光が溢れ出す。
金色の奔流。
大地そのものが呼吸を始めたかのような膨大な魔力。
「なっ……!?」
レオニスが目を見開く。
光は渦となり、ゼルハインを包み込んだ。
傷口へ。
失われた腕へ。
狂ったような勢いで流れ込んでいく。
常識ではあり得ない現象。
だが。
ヴァルドだけは驚かなかった。
「フィデリア……」
静かな声。
黄金の瞳が一人の少女を見据える。
その意味を理解していた。
何が起きたのかを。
「“巡礼の儀”を起動したのか……」
フィデリアは立ち尽くしていた。
涙を流しながら。
震える肩。
苦しげな呼吸。
それでも止められなかった。
止まらなかった。
「裁定者の“本能”が出しゃばったか」
そこで初めて。
ヴァルドの表情がわずかに歪む。
小さな舌打ち。
それは怒りではない。
失望でもない。
哀れみだった。
「それは、お前が最も望まない結果を生むのだぞ」
重い言葉だった。
未来を知る者のような。
警告にも似た声音。
しかし。
フィデリアは涙を流しながら。
静かに。
薄く。
笑っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ここは、どこだ……」
ゼルハインが目を開けると、そこは白だけの世界だった。
空もない。
大地もない。
果てすら見えない。
ただ白い。
何も存在しない空間が広がっていた。
「ここは、お前の巡礼地だ、ゼルハイン」
聞き覚えのある声だった。
ゼルハインは振り返る。
「俺?」
そこに立っていたのは、自分だった。
顔も。
背格好も。
声も。
鏡写しのように同じ存在。
「んなことは、どうでもいい。早く俺を戻せ」
ゼルハインは苛立ったように言う。
今はこんな場所にいる場合ではない。
仲間がいる。
アウレリアがいる。
あの化け物みたいな男もいる。
「終わらせなければ、進めもしない」
もう一人のゼルハインは感情のない声で答えた。
「これは、巡礼の儀」
「これが正しく行われれば、選定者は新たな可能性を得る」
ゼルハインは頭をかいた。
難しい話は苦手だ。
だが結論だけは知りたい。
「アウレリアの奴が、また強くなるってことでいいのか?」
「その解釈で正しい」
もう一人の自分が頷く。
「正しくって言ったな」
「ああ」
「間違った場合、どうなるんだ?」
一瞬だけ沈黙が落ちた。
白い世界がさらに静かになった気がした。
「知る必要があるのか」
「いや、ねぇな」
ゼルハインは肩を竦める。
知らなければならないことと。
知らなくていいことがある。
今は前者ではない。
やるべきことだけ分かれば十分だった。
「試練は驚くほど単純だ」
もう一人のゼルハインが続ける。
「ゼルハイン、お前は“同意者”だ」
「“同意者”?」
「そうだ」
白い瞳が真っ直ぐ見つめてくる。
「お前は“選定者”に同意する者か?」
「“選定者”はアウレリアのことか?」
「そうだ」
そこから先。
言葉が続く。
だがその内容は誰にも聞こえない。
白い世界だけが知る会話。
王国の誰も知らない真実。
勇者の儀。
聖剣。
選定者。
同意者。
裁定者。
その意味。
その役割。
その果て。
語られるたびに、ゼルハインの表情が変わっていく。
驚愕。
困惑。
理解。
そして――納得。
長い沈黙が訪れた。
白い世界には風の音すらない。
ただ静寂だけが広がる。
やがてゼルハインは天を仰いだ。
「笑い話だ」
呟く。
どこか自嘲にも似た笑みだった。
「それが勇者っていうなら――」
赤い瞳が細められる。
「俺は最初から勇者になんてなれなかったんだ」
その言葉には悔しさはなかった。
むしろ晴れやかだった。
腑に落ちたのだ。
なぜ自分ではないのか。
なぜアウレリアだったのか。
なぜフィデリアが苦しんでいたのか。
すべてが一本の線で繋がった。
(なっていたら、俺は“選定者”なんかになれなかったろう)
苦笑する。
自分らしい結論だった。
今の選定者とは、自ら名乗るものではない。
自ら選ぶものでもない。
誰かに選ばれる者。
だからこそ特別だった。
だからこそ残酷だった。
そして。
その先に待つものも。
ようやく理解した。
(アウレリアの奴なら、届くかもしれねぇ)
期待があった。
信頼があった。
あの馬鹿みたいに真っ直ぐな少女なら。
誰よりも人間臭い勇者なら。
辿り着けるかもしれない。
だが同時に思う。
(が、アウレリアは選択できないかもしれねぇ……)
フィデリアが抱えていた苦悩。
その意味も理解してしまった。
だからこそ。
ゼルハインは黙り込む。
数秒。
数十秒。
長い沈黙。
そして――。
「ははっ」
笑った。
「ははははは!」
豪快に。
腹の底から。
白い世界に笑い声が響き渡る。
答えは決まった。
迷う必要もない。
ゼルハイン・ヴァスリクという男らしい結論だった。
未冠の武神。
王国の若狼。
その男は今、“同意者”としての答えを出そうとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




