天は更に高みがある
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
巡礼の地に、緊張が満ちていた。
レオニスが十分な距離まで離れたことを確認すると、ヴァルドは静かに視線を戻した。
その態度は戦場のものではない。
まるで庭先で弟子たちを見る教師のようだった。
だからこそ、不気味だった。
アウレリアは聖剣を握り直す。
隣にはフィデリア。
背後には三聖者。
誰一人として油断はしていない。
それでも胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
だが本能が警鐘を鳴らしていた。
目の前の男は危険だと。
「さて、十全に戦える状態になったようだな」
ヴァルドの黄金の瞳が一人ずつを映す。
観察するように。
品定めするように。
そして。
「では始めよう」
その一言と共に、男が歩き出した。
走っていない。
飛んでもいない。
ただ歩いただけだ。
だが。
「来ます!」
イシュリアンが叫んだ。
同時に魔法陣が展開される。
加速。
強化。
防御。
感覚拡張。
ファイとの戦いで磨き上げた支援魔法が一気に重ねられた。
「任せろ!」
グラーディスが前へ出る。
巨大な聖盾を構える。
今の彼は違う。
ファイとの死闘を経て、自分が果たすべき役割を理解していた。
盾とは耐えるためだけにあるのではない。
仲間に勝機を作るために存在する。
「まず足を止める!」
グラーディスが地面を踏み砕いた。
全身の筋肉が膨れ上がる。
強化魔法によって限界まで押し上げられた肉体。
神から授かった盾。
その全てを賭ける。
「おおおおおっ!」
雄叫びと共に突進した。
巡礼の地が揺れる。
並の敵なら吹き飛ばされる。
巨獣の体当たりにも等しい一撃だった。
だが。
ヴァルドは避けなかった。
ただ足を止めた。
次の瞬間。
轟音が響く。
グラーディスの突撃が正面から止められていた。
片手だった。
ヴァルドは片手を盾に添えただけだった。
それだけで。
ただの力の勝負で超筋力を持つグラーディスの全力が止まっていた。
「なっ……」
グラーディスの顔から血の気が引く。
押せない。
びくともしない。
まるで大地そのものを押している感覚だった。
「良い判断だ」
ヴァルドは静かに言う。
「盾役が前に出る。後衛が支援する。選定者が機を窺う」
まるで教本を読むような口調だった。
「正しい連携だ」
褒められている。
だが誰一人として嬉しくなかった。
その言葉の裏にあるものが見えてしまったからだ。
正しい。
だが通用するとは言っていない。
「ゼルハイン!」
グラーディスが叫ぶ。
「分かっている!」
聖槍が光を放つ。
グラーディスが作った一瞬。
その隙を逃さない。
ファイ相手にも届いた一撃。
全力の刺突が放たれる。
しかし。
ヴァルドは視線だけを向けた。
それだけだった。
その瞬間。
ゼルハインの背筋に凍り付くような悪寒が走る。
まるで。
自分が攻撃しているのではない。
巨大な獣の前に立ってしまった小動物になったような感覚。
その違和感に気付いた時には遅かった。
誰もまだ知らない。
ファイが残した言葉。
――天は更に高みがある。
その意味を。
目の前の男こそが、その高みそのものだということを。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヴァルドは静かに腰へ手を伸ばした。
抜き放たれたのは長剣ではない。
黒曜石にも似た質感を持つ魔導銃だった。
「まずは、君達からだ」
まるで順番を確認するような口調。
敵意すら感じられない。
だが次の瞬間。
引き金が引かれた。
轟音。
いや、それは音ではない。
空そのものが裂けたような雷鳴だった。
黄金の魔法陣が銃口の前に展開される。
そして放たれた光が、一直線にイシュリアンへ襲いかかった。
「っ――!」
イシュリアンは即座に対抗魔法を展開する。
防壁。
多重障壁。
属性相殺。
ファイとの戦いで得た経験から導き出した最善手。
今できる全てだった。
しかし。
雷光はそれらを紙のように貫いた。
一枚。
二枚。
三枚。
障壁が砕け散る。
次の瞬間、衝撃がイシュリアンの全身を呑み込んだ。
「ぁああああっ!」
悲鳴が巡礼の地へ響く。
身体が吹き飛ばされる。
それでも倒れない。
膝を折らない。
聖杖を地面へ突き立て、必死に立ち続ける。
息は荒い。
全身は痺れている。
それでも意識を失わない。
ヴァルドはそれを見て小さく頷いた。
「なるほど」
感心したような声だった。
「聖杖に選ばれるわけだ」
称賛。
だがその評価すら恐ろしい。
まるで試験官が答案を見るような口調だった。
ヴァルドは魔導銃を納める。
代わりに腰の剣へ手を添えた。
二本帯刀しているうちの一本。
細身の長剣。
静かに抜刀される。
同時に、片手で押さえられていたグラーディスが前へ踏み込んだ。
「舐めるな!」
全身全霊の押し込み。
聖盾を構えた騎士の突撃。
だが。
ヴァルドは片腕を軽く振っただけだった。
それだけで。
巨大な体躯のグラーディスが後方へ押し返される。
地面を削りながら数歩後退した。
「私の一撃に耐えられれば、認めよう」
静かな宣告。
そして剣が振り下ろされた。
速さは見えた。
技術も理解できた。
だが。
防げる気がしなかった。
グラーディスは叫びながら聖盾を掲げる。
「うおおおおおっ!」
激突。
金属音すら発生しない。
代わりに鈍い破砕音が響いた。
ヴァルドの剣が聖盾へ深々と突き刺さっていた。
神の秘術。
勇者を支え続けた聖盾。
その中心部に亀裂が走る。
フィデリアの顔から血の気が引いた。
「そんな……」
理解できない。
理解してはいけない光景だった。
神が人へ託した武具。
それが人の剣によって傷つけられている。
「完全に断ち切るつもりだったが」
ヴァルドは淡々と言った。
「聖盾も主を守るため意地をみせたか」
まるで結果を分析する研究者だった。
グラーディスも絶句する。
だが退かない。
震える足で立ち続ける。
騎士だからだ。
壁だからだ。
仲間を守ると決めたからだ。
「バケモンが!」
ゼルハインが飛び込んだ。
聖槍による最速の刺突。
しかし。
ヴァルドの手が伸びる。
それだけだった。
気付けば聖槍の穂先が握られていた。
「なっ……!?」
ゼルハインの目が見開かれる。
力ではない。
技でもない。
常識が通用していない。
「鋭いな」
ヴァルドは穏やかだった。
「さすがは聖槍といったところか」
その間も表情は変わらない。
息も乱れない。
戦っている人間の姿ではなかった。
まるで散歩の途中で会話でもしているようだった。
誰も傷つけることを楽しんでいない。
誰も見下していない。
だからこそ恐ろしい。
その圧倒的な差を当然として受け入れている。
ヴァルドは聖槍ごとゼルハインを片手で持ち上げると、そのまま力任せに近くの大岩に叩きつける。
そして最後に視線を向ける。
白銀の勇者へ。
「次は、選定者を試そうか」
宣言。
ただそれだけ。
しかし空気が変わる。
アウレリアは聖剣を握り締めた。
見ているレオニスの背筋を冷たい汗が止まらない。
ファイとは違う。
あれは超えるべき強敵だった。
だが。
目の前の男は違う。
高い山ではない。
果ての見えない空だった。
直感が告げる。
この男こそ。
世界の頂点。
戦士という存在が辿り着ける、唯一の到達点。
――こいつが、世界のトップ1だ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
巡礼の地に、奇妙な静寂が満ちていた。
誰も声を発しない。
誰も動けない。
ただ二人だけが、ゆっくりと歩み寄っていく。
聖剣を構えたアウレリア。
そして、黒衣の男ヴァルド。
先ほどまで圧倒的な強さを見せつけていたはずのヴァルドだったが、その表情には驕りも威圧もなかった。
ただ静かだった。
湖面のように。
底知れぬ深淵のように。
ヴァルドは腰に差した二本の剣のうち一本へ手を添える。
その瞬間だった。
空気が変わる。
レオニスは思わず息を呑んだ。
何が起きたのか説明できない。
だが、本能だけが叫んでいた。
――危険だ。
ヴァルドの声が響く。
低い。
今まで聞いたどの声よりも低かった。
「選定者よ、名はなんと言う」
あのアウレリアは無意識に喉を鳴らしていた。
まるで巨大な獣に名を問われた小動物のように。
それでも視線だけは逸らさない。
「……アウレリア」
「……そうか」
それだけだった。
だが、その短い返答だけで大地が重くなった気がした。
アウレリアは前へ出る。
一歩。
また一歩。
足が鉛のように重い。
まるで世界そのものが進むことを拒んでいるようだった。
対するヴァルドは自然だった。
散歩でもしているかのように。
呼吸も乱れていない。
心拍すら聞こえない気がした。
アウレリアの聖剣が輝く。
光は拡散しない。
刀身へと収束していく。
極限まで圧縮された光。
フィデリアは言葉を失った。
三聖者も動かない。
誰もが理解していた。
アウレリアが選択した最大火力。
これが今代勇者の全力だと。
大地が微かに鳴動する。
空気が震える。
風が止む。
そして雲が消えた。
蒼穹だけが頭上に広がる。
レオニスの鼓動が激しくなる。
耳鳴りのように脈打つ。
何も聞こえない。
何も考えられない。
ただ、見届けなければならない。
そんな予感だけがあった。
アウレリアが踏み込む。
爆発的な加速。
地面が砕ける。
「行くぞ!」
咆哮と共に聖剣が振り抜かれる。
ファイを打ち破った一撃。
アウレリアの全身全霊、全存在を乗せた斬撃。
「聖剣極刑!」
閃光が走った。
世界が白く染まる。
次の瞬間。
甲高い金属音が巡礼の地全体へ響き渡った。
耳障りな音だった。
世界が軋んだような金属音。
勝利の音ではない。
何かが根本から否定されたような音だった。
レオニスは見た。
アウレリアの顔を。
戦慄。
驚愕。
理解不能。
何をされたのか理解できなかった。
その全てが混ざった表情。
たった一合。
それだけだった。
宙を舞ったのはヴァルドではない。
アウレリアの聖剣だった。
回転しながら空へ飛び上がり、遥か後方へ落下する。
轟音と共に大地へ突き刺さった。
誰も言葉を失った。
フィデリアはその場に膝をつく。
顔色が青ざめていた。
「まさか……あれは……」
震える声。
信じたくない。
だが見間違えるはずがない。
ヴァルドの手には一本の剣があった。
夜そのものを削り出したような黒い刀身。
光を反射しない異質な刃。
それは紛れもなく。
「……聖剣」
フィデリアの呟きが零れる。
聖剣は裁定者のみが授けるもの。
神の選定を受けた者だけが持つ資格。
それが世界の理だった。
だが。
ヴァルドの握る黒き剣は。
その理そのものを嘲笑うように存在していた。
フィデリアが、存在しないはずの聖剣を見ている。
誰が見ても分かる。
あれは偽物ではない。
本物だ。
神の奇跡と同質の輝きを宿した剣。
黒き聖剣。
それが静かにヴァルドの手の中で佇んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




