神話の始まり
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
フィデリアは目の前の男から視線を離せなかった。
銀色の髪。
黄金の瞳。
穏やかですらある佇まい。
にもかかわらず、胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
いや、正確には分かることを禁じられていた。
ふと、男の言葉が脳裏によみがえる。
――迷っているのか、“裁定者”よ。
その呼び方を知る者は限られている。
少なくとも、この世界において気軽に口にできる言葉ではない。
「誰ですか、貴方は!」
フィデリアは思わず声を上げた。
男はわずかに視線を向ける。
その動作は自然だった。
まるで風が流れるように。
「……私はヴァルド」
静かな返答だった。
聞き返したくなるほど短い。
「……ヴァルド……?」
その名前を聞いた瞬間だった。
何かが引っかかった。
記憶の奥底。
知っている。
間違いなく知っている。
だが思い出せない。
いや、思い出せないのではない。
思い出してはいけないのだ。
禁則事項。
裁定者に課された制約が反応している。
頭痛にも似た違和感が走る。
「……」
フィデリアは眉をひそめた。
知識がある。
だが届かない。
霧の向こうに隠されているようだった。
そんなフィデリアを見て、ヴァルドは変わらぬ表情で言う。
「私は名乗ったのだ。名乗りたまえ。それが人間の礼儀だ」
責める声ではない。
怒りもない。
ただ事実を述べているだけだった。
「……フィデリア」
「そうか」
短い応答。
だが、その瞬間。
ヴァルドの視線はフィデリアから離れていた。
巡礼の地にいる者たちを見る。
アウレリア。
レオニス。
三聖者。
戦いを潜り抜けた者たち。
「“選定者”と“同意者”をすべて揃えたか。“裁定者”フィデリア」
フィデリアの身体が硬直する。
その言葉は知り過ぎていた。
知られているはずがないほどに。
「……なぜ、そこまで」
思わず漏れた声は震えていた。
ヴァルドは答えない。
ただ見ている。
その黄金の瞳で。
そしてフィデリアは気付く。
その視線の中に敵意がないことを。
侮蔑もない。
怒りもない。
あるのは奇妙な感情だった。
哀れみ。
あるいは憂い。
まるで先に待つ道を知っている者が、後から歩く者を見るような眼差し。
その時だった。
「フィデリア!」
聞き慣れた声が響く。
アウレリアたちが駆け寄ってくる。
フィデリアは思わず振り返った。
そして次の瞬間。
全員の動きが止まる。
ヴァルドと目が合ったからだ。
特に反応が大きかったのはアウレリアだった。
「!?」
ほとんど反射だった。
後方へ大きく跳ぶ。
地面を蹴る音が響く。
同時に聖剣が抜き放たれる。
白銀の刃が陽光を反射した。
「アウレリア?」
レオニスが目を見開く。
理解できなかった。
アウレリアは滅多なことでは武器を抜かない。
まして相手が何もしていない状況なら尚更だ。
しかし今の彼女は違った。
表情が険しい。
額に汗が滲んでいる。
強いて言うなら。
それは恐怖だった。
本能が警鐘を鳴らしている。
理屈より先に身体が動いた。
距離を取れと。
剣を構えろと。
生き延びろと。
「私の間合いが分かるのか」
ヴァルドの声は静かだった。
感心したようにも聞こえる。
「では、試してやろう」
その声は不思議なほど穏やかだった。
怯える子供を安心させるような響きすらある。
だからこそ恐ろしい。
その場にいた者たちは理解する。
ファイが最期に残した言葉。
――だが、天は更に高みがある。
その意味を。
ファイが見上げていた場所。
世界の果て。
その頂に立つ男が、今、目の前にいるのだと。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヴァルドはアウレリアたちを一瞥すると、まるで当然のことを告げるように言った。
「フィデリア、彼女らを回復させたまえ」
「な!?」
アウレリアだけではない。
その場にいた全員が目を見開いた。
敵地のど真ん中。
正体不明の男。
しかもファイを知る帝國側の人物。
そんな相手から出る言葉ではなかった。
「ファイが戦い、認め、生き残られた。その彼女らを見てみたい」
静かな声だった。
命令とも違う。
願望とも違う。
ただ事実を述べているだけのような響き。
ヴァルドはゆっくりとフィデリアへ視線を向けた。
「わ、私にはそんな力は……」
「巡礼の地の力を使えばいい」
あまりにも自然に告げられた言葉。
フィデリアは息を呑んだ。
巡礼の地。
その本質を知る者など限られている。
ましてや今の自分たち以外に。
だがヴァルドは説明を求めることもなく、その背中を軽く押した。
「な!?」
温かい手だった。
乱暴さはない。
強制する気配もない。
ただ前へ進ませるだけの力。
フィデリアは思わず振り返る。
しかしヴァルドは既に興味を失ったように歩き出していた。
距離を取る。
まるで自分が邪魔になるとでも言うように。
(……この人は、いったい)
理解できない。
敵意がない。
だが安心もできない。
その存在そのものが理解の外側にあった。
フィデリアが戻ると、アウレリアたちは未だ武器を構えたままだった。
「フィ、フィデリア!あいつ知り合いなのか!?」
普段ならまず飛び出していくアウレリアが、珍しく警戒を隠せていない。
それほどまでにヴァルドという男は異様だった。
「ファイさんを知っている様子でしたから、帝國の軍人でしょうか?」
イシュリアンが不安そうに言う。
「軍服を着てないけどね」
レオニスだけは比較的冷静だった。
しかしその視線もヴァルドから離れない。
(軍属じゃない)
(だけど普通でもない)
(何だろうな、この感じ)
どこか既視感があった。
まだ勇者になる前。
好き勝手に動き回っていた頃のアウレリアに似ている。
常識の外側にいるのに、自分の中では筋が通っている。
そんな印象だった。
「わかりません。私にもわからないのです」
フィデリアは正直に答える。
そして意識を巡礼の地へ向けた。
恐る恐る力を流す。
すると。
「「「「これは!?」」」」
全員の声が重なった。
四つの聖遺物が淡く輝く。
聖剣。
聖盾。
聖槍。
聖杖。
そこから流れ出した光が持ち主たちを包み込んだ。
裂けた傷が閉じていく。
重かった身体が軽くなる。
枯渇しかけた魔力が満たされる。
蓄積した疲労までもが洗い流されていく。
まるで大地そのものが祝福を与えているようだった。
誰も言葉を失った。
こんな力があることを、誰も知らなかったからだ。
その時だった。
「そこの君」
不意に呼ばれたレオニスが飛び上がる。
「は、はい!」
情けないほど上ずった声。
視線の先にはヴァルド。
先ほどまで離れていたはずなのに、いつの間にか近くに立っていた。
誰も接近に気付けなかった。
「まだ時間はあるからな」
ヴァルドは穏やかに続けた。
「ファイが亡くなった場所に案内してくれないか」
敵意はない。
威圧もない。
ただ静かな願い。
それなのに断れる気がしない。
レオニスは無意識に頷いていた。
この日。
レオニスは理解する。
ファイという英雄を忘れられないように。
目の前の男との出会いもまた、生涯忘れることはないのだと。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ファイが散った場所には、既に爆発の痕跡しか残っていなかった。
大地は抉れ。
草木は焼け焦げ。
戦いの激しさだけが静かに残されている。
ヴァルドはその場所の前で立ち止まった。
何も言わない。
ただ静かに目を閉じる。
長い銀髪が風に揺れた。
祈りなのか。
弔意なのか。
それとも別の何かなのか。
レオニスには分からなかった。
ただ、その沈黙だけは軽いものではなかった。
しばらくしてヴァルドが目を開く。
「そう言えば、君の名前を聞いていなかったな」
「ぼ、僕はレオニスです」
「そうか。私はヴァルドだ」
改めて名乗られる。
その名前に重みは感じない。
だが、妙な圧迫感があった。
ファイと同じ帝國側の人間。
それなのに全く違う。
ファイは巨大な山だった。
見上げれば圧倒される。
だが登ろうと思える。
いつか頂へ辿り着きたいと思わせる高さだった。
しかし。
(この人は違う)
レオニスは無意識に空を見上げた。
雲ひとつない青空。
どこまで続いているのか分からない。
どれほど高いのかも分からない。
手を伸ばすことすら馬鹿らしく思える。
ヴァルドから感じるものは、それに近かった。
「レオニス」
「は、はい」
「君はファイの最期を見たのかね」
「はい」
ヴァルドの金色の瞳が向けられる。
鋭いはずなのに威圧感はない。
ただ真っ直ぐだった。
「よければ、君から見たファイの感想を聞きたい」
「な、何故ですか?」
思わず聞き返してしまう。
ヴァルドは少しだけ首を傾げた。
「死者を知るためだ。それでは不足かね?」
「あ……はい。そうですね」
レオニスは苦笑した。
確かにおかしな質問だった。
聞きたいから聞く。
それだけなのだろう。
だから語った。
最初は帝國軍人として出会ったこと。
圧倒的な強さを見せつけられたこと。
何度倒されそうになっても責務を捨てなかったこと。
そして最後まで誇り高い軍人だったこと。
話しているうちに、自分でも驚くほど言葉が溢れてきた。
ヴァルドは一度も口を挟まない。
黙って聞いていた。
ただ静かに。
まるで故人の記録を刻み込むように。
やがて話が終わる。
少しの沈黙。
そしてレオニスは勇気を振り絞った。
「僕からも聞いていいですか!」
「何かね」
「あなたは、王国の敵なんですか!」
問いは真っ直ぐだった。
ヴァルドは迷わない。
「違うな」
即答だった。
そこに偽りは感じられない。
少なくともレオニスにはそう思えた。
だが次の言葉が続く。
「だが、敵と味方だけで君が質問したのなら」
ヴァルドは遠くを見る。
その先にはアウレリアたちの姿があった。
「彼女らは私を敵とみるだろうな」
否定しない。
言い訳もしない。
ただ事実として受け入れている。
その姿にレオニスは戸惑った。
敵ではない。
だが敵になる。
矛盾しているようで、どこか納得できてしまう。
ヴァルドという男はそういう存在だった。
雲ひとつない空のような男。
遠すぎて。
高すぎて。
何を考えているのか分からない。
「戦うのを止めるとかは出来ないんですか!」
気付けば声が出ていた。
ファイは死んだ。
もう誰も死んでほしくなかった。
ヴァルドは少しだけ目を伏せる。
「それが出来れば、苦労はないのだがな」
初めてだった。
感情らしきものが見えたのは。
ほんの一瞬。
それだけだった。
レオニスには事情は分からない。
背負っているものも分からない。
だが理解できたことが一つだけある。
ファイが責務を背負っていたように。
この男もまた何かを背負っている。
そしてその重さは、おそらく誰にも代われない。
そんな予感だけが胸に残った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




