見せてもらおう
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ファイの生命反応を示していた魔導表示板から、最後の光が消えた。
無機質な文字だけが残る。
――信号なし。
沈黙が研究室を支配した。
誰も声を出せない。
帝國魔導研究所所長もまた、その一人だった。
目の前の表示を見つめたまま動かない。
信じたくなかった。
信じられるはずがなかった。
勇者殺し。
帝國最強戦力。
戦闘種族ファイ。
その敗北は、一人の兵士の死ではない。
帝國そのものを揺るがす事件だった。
数時間後。
魔導研究所所長は帝都中枢にある謁見の間へ呼び出されていた。
赤い絨毯。
巨大な玉座。
重苦しい空気。
その中央で所長は膝をついていた。
懐には毒薬が入っている。
責任を取るためだった。
もちろん、自分一人の命で償える失敗ではない。
それでも何も持たずに来ることはできなかった。
「……この度の責任を取りにまいりました」
額を床につける。
「すべては私の責任です」
「どうか所員たちには寛大な処置を」
玉座の上から返答はない。
帝國皇帝は黙ったままだった。
やがて静かな声が落ちる。
「……まだカードは残っている」
所長は顔を上げた。
「皇帝陛下……」
理解した。
まだ戦うつもりなのだ。
勇者殺しの称号を与えられた戦闘種族は他にもいる。
あと三人。
だが所長の胸中は重かった。
ファイが敗れた。
あのファイが。
帝國最高傑作。
事象の地平線。
帝國が誇る究極兵装。
その適合者。
それら全てを投入して、なお敗れた。
今代の勇者は異常だった。
だが他に道はない。
帝國は勇者を見逃せない。
「……皇帝の名において命じる」
皇帝が言葉を続ける。
「すべての戦闘種族を――」
「必要はない」
声が響いた。
静かな声だった。
だが、その場の全員が反応した。
「私に任せてもらおう」
いつ現れたのか。
誰も分からない。
黒いロングコート。
長い銀髪。
黄金の瞳。
男は玉座へ続く赤絨毯の上に立っていた。
「何者だ!」
親衛隊が剣を抜く。
一斉に男を囲もうとする。
「待て!!」
叫んだのは皇帝だった。
親衛隊が動きを止める。
皇帝は立ち上がっていた。
その顔から血の気が引いている。
男を見つめる。
確認するように。
恐れるように。
そして。
「全員下がれ」
親衛隊が困惑する。
「今すぐだ」
逆らう者はいなかった。
兵士たちは退出した。
広い謁見の間に残るのは三人だけ。
皇帝。
研究所所長。
そして銀髪の男。
次の瞬間だった。
研究所所長は自分の目を疑う。
帝國皇帝が玉座を降りる。
ゆっくり歩く。
男の前で。
膝をついた。
平伏した。
「……ヴァルド様」
所長の身体が震えた。
「……まさか」
声が出ない。
歯が鳴る。
止まらない。
知識としてだけ聞いていた。
存在すると。
帝國の最深部に。
決して逆らってはならない存在がいると。
ファイは最強だった。
少なくとも帝國が管理できる範囲では。
だが、その上がいた。
制御不能。
理解不能。
帝國という国家ですら従うしかない怪物。
戦闘種族の始祖。
世界の天井。
その存在が。
今、目の前に立っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
帝國には建国以前から残る古い伝承があった。
国家が滅びようと。
王が代わろうと。
時代が変わろうと。
決して消えない影があるという伝承。
その名を知る者は少ない。
だが歴代皇帝だけは例外だった。
帝國の創世記録。
その最初の頁から、ひとりの男の存在が記されている。
――ヴァルド。
帝國を守る者。
帝國を監視する者。
そして帝國すら支配できない者。
魔導研究所の所長は震える手を押さえながら頭を垂れていた。
記録は読んでいた。
歴代所長から引き継がれてきた極秘文書も。
だが、それはどこか昔話のように思えていた。
信じられなかったのだ。
たった一人の人間が国家を縛り続けるなど。
そんなことがあるはずがないと。
しかし現実は違った。
目の前で皇帝が跪いている。
それが何よりの証拠だった。
歴代皇帝の中には反抗した者もいた。
当然だった。
帝國の頂点に立つ者が、自分より上位の存在を認められるはずがない。
ある皇帝は暗殺を試みた。
ある皇帝は軍を動かした。
ある皇帝は戦闘種族を差し向けた。
それも一体ではない。
当時最強と呼ばれた個体を複数投入した。
結果は簡潔だった。
失敗。
ただそれだけ。
反乱を起こした皇帝は消えた。
戦闘種族も消えた。
記録だけが残った。
まるで最初から存在しなかったかのように。
だから以降の皇帝は従った。
帝國を支配しているのは皇帝ではない。
少なくとも歴代皇帝はそう理解していた。
研究所も同じだった。
戦闘種族計画。
勇者対抗兵器。
秘匿兵器開発。
それらは表向きの目的に過ぎない。
本当の目的は別にあった。
ヴァルドに近づくこと。
ヴァルドを理解すること。
そしていつの日か超えること。
戦闘種族とは、そのために造られた人工種族だった。
勇者に勝つためではない。
あの男に届くためだ。
ファイが誕生した時。
当時の研究所は歓喜したという。
記録にも残っている。
ついに到達したと。
ついに神話へ手が届いたと。
だが結果は変わらなかった。
ファイですら届かなかった。
ならば今代の所長に何ができる。
何もない。
ただ恐れることしかできない。
戦闘種族は兵器だった。
封印できる。
管理できる。
制御できる。
だから使えた。
しかし目の前の男は違う。
鎖を掛けられない。
檻に入れられない。
封印もできない。
自由を奪うという発想そのものが成立しない。
それは兵器ではなく。
災厄でもなく。
もっと別の何かだった。
静寂の中。
銀髪の男がゆっくりと視線を上げる。
黄金の瞳。
感情の読めない眼差し。
その姿は伝説の怪物というより、一人の旅人に見えた。
ヴァルドの外見は二十代半ばから一切変わっていない。
だからこそ恐ろしい。
彼は何も威圧していない。
何も誇示していない。
それでも誰も逆らえない。
圧倒的な力とは、そういうものだった。
ヴァルドは窓の向こうへ視線を向けた。
その先にいるはずの少女を思うように。
静かな声が響く。
「見せてもらおう」
感情はない。
興味だけがあった。
「今回の選定者の実力を」
魔導研究所所長の背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
ファイが敗れた。
だから現れた。
それだけのことだった。
男の名はヴァルド。
神話の始まりに立ち。
帝國の歴史を見続けてきた存在。
そして。
世界の天井に座する男が、ついにアウレリアへ視線を向けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
巡礼の地には静かな風が吹いていた。
激戦の傷跡は至る所に残っている。
抉れた大地。
焼け焦げた岩肌。
砕け散った武具。
だが戦いは終わった。
終わったはずだった。
それなのに、その場にいた誰も勝利の余韻に浸れていない。
アウレリアは大きな岩の上に座り込み、膝を抱えていた。
普段なら絶対に見せないような落ち込み方だった。
レオニスはそんな姿を眺めながら溜息をつく。
まるで雨に濡れた犬だった。
いや、本人に言えば間違いなく殴られるので口には出さない。
「いつまでも落ち込んでいてもしょうがないでしょ」
「うるさい、だったら慰めろ!」
「……めんどくさい人だな」
即答だった。
アウレリアは不満そうに睨む。
しかし反論は続かない。
いつもの勢いがない。
レオニスは肩を竦めた。
たった二日にも満たない付き合いだった。
それでもファイという男は強烈だった。
敵だった。
何度も殺されかけた。
それなのに憎めない。
誇り高く。
正々堂々としていて。
最後まで自らの責務を全うした。
もし生まれた国が違っていたなら。
もし帝國で生まれていたなら。
きっと教えを請いたいと思っただろう。
男として。
人間として。
あれほど大きな背中を持つ人物には、そうそう出会えない。
レオニスだけではない。
三聖者たちも同じだった。
「強い、おっさんだったな」
ゼルハインが空を見上げる。
聖槍を地面に立て、その柄に額を預けた。
戦士なりの弔意だった。
「はい、本当に」
イシュリアンも静かに目を閉じる。
最後の瞬間を思い出していた。
ファイは自爆に巻き込めた。
アウレリアごと消し飛ばせた。
それでもしなかった。
助けた。
敵であるはずの勇者を。
それは合理性では説明できない。
人としての矜持だった。
「帝國という存在への考え方を改めても良いのかもしれません」
イシュリアンが呟く。
グラーディスも静かに頷いた。
王国人にとって帝國は悪だった。
幼い頃からそう教えられてきた。
侵略者。
虐殺者。
人類の敵。
まるで子守唄のように聞かされ続けた。
だが実際に出会った男は違った。
「彼らもまた、自らの国を守るために戦う者たちなのでしょう」
誰も否定しなかった。
ファイという存在が、その言葉を裏付けていたからだ。
一方で。
少し離れた場所にいたフィデリアは別のことを考えていた。
青い瞳が揺れている。
アウレリアを見つめながら。
あの日の言葉を思い返していた。
――いらない。
選定の力を拒絶した少女。
普通ならあり得ない。
力を欲しがらない勇者など聞いたことがなかった。
それなのにアウレリアは拒否した。
そして自分で扉を開いた。
誰にも頼らず。
誰にも縋らず。
自らの意思だけで。
「……」
フィデリアは唇を噛む。
偶然選んだ選定者。
だが今では確信している。
アウレリアは特別だ。
だからこそ怖かった。
彼女は耐えられるのだろうか。
これから待つ運命に。
そして。
すべてを知った時。
自分を憎まずにいてくれるのだろうか。
「迷っているのか、“裁定者”よ」
突然。
静かな声が耳に届いた。
フィデリアの身体が震える。
反射的に振り向いた。
「あ、あなたは!?」
そこに男が立っていた。
誰も気付かなかった。
いつからいたのか分からない。
気配も。
足音も。
何もなかった。
ただ最初からそこにいたかのように。
黒いロングコート。
風に揺れる長い銀髪。
黄金の瞳。
世界を見下ろすような静かな眼差し。
ヴァルドは当たり前のようにそこに立ち。
当たり前のようにフィデリアを見下ろしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




