第九話 卵最中は、矛盾を抱えるためにある
れたものを直す方法は、たぶん二種類ある。
ひとつは、割れた部分を見なかったことにして、遠目には元通りに見せるやり方。
もうひとつは、ひびの形ごと抱え込んで、それでも持ち続けるやり方。
前者の方が、ずっと楽や。
楽やけど、それを“直った”と呼んでええんかは分からへん。
黒い卵の表面に入ったひびは、音もなく広がった。
「藤野、下がって!」
私が叫ぶより早く、卵の殻みたいな黒い膜が一枚、ぺり、とめくれた。
中身はない。
空洞や。
でも空っぽのはずの内側から、冷たい風みたいなものが吹き出して、倉庫の空気が一気に変わった。
藤野が一歩前へ出る。
「お姉ちゃん、待って」
ナユが彼女を羽交い締めにしようとするけど、藤野は見た目より強く抵抗した。いや、抵抗というより“そっちへ行くことしか考えてへん”動きや。
『視覚誘導が起きています』
ラプラス。
『対象ごとに、もっとも接近しやすい記憶像を提示しています』
「私には何が見えるん」
私は訊きながら、卵から目を離さへん。
『現時点では未接続です。見ないでください』
「見ないで済む見た目ちゃうやろこれ」
ひびの奥が、じわじわ光り始める。
黒やのに、奥だけ白い。光ってるというより、何か映してる感じやった。
私は視界の端に、古い台所みたいなものを見た気がした。
母の後ろ姿に似た影。夕飯の匂い。ありえへん。うちはそんな“分かりやすく帰りたい家庭の記憶”を持ってへん。
『ユカリ』
ラプラスの声が低い。
『それはあなたの記憶ではありません。“そうであってほしい物語”です』
私は歯を食いしばる。
「藤野、聞ける?」
彼女はナユに押さえられたまま、泣きそうな顔で前を見ていた。
「お姉ちゃんが、あっちにおる……」
「お姉ちゃん、亡くなってるん?」
「……去年」
ナユが私を見る。
私は頷いた。
これで分かった。卵は“忘れたい記憶”を消すというより、失ったもんへ都合のいい形で再接続して、人間をそっちへ寄せる。
最低や。
「ナユ、その子を連れて一回外へ」
「でも卵は」
「先に人間」
「……了解」
ナユは短く答えて、藤野を引きずるように倉庫の外へ出そうとする。藤野は涙目で抵抗するけど、さっきより少しだけ足取りが鈍っていた。距離が離れたせいか、誘導が弱まってる。
『正しい判断です』
ラプラス。
「珍しく褒めたな」
『珍しく適切だったので』
「やっぱ腹立つ」
私は一人で卵の前に立った。
近くで見ると、殻の表面には羽根みたいな模様だけやなく、微細な文字列が走っている。コード。完全には読めへんけど、日本語とも英語とも違う断片が混ざってた。
『破壊は可能です』
「お、やっと意見合うやん」
『ただし、素手での接触は非推奨です』
「道具ない」
『倉庫左奥、モップ棚の下段に金属製のフックがあります』
「何でそんなとこまで知ってるん」
『校内設備図を取得しました』
「怖っ」
でも助かる。
私はフックを掴んで戻る。卵は相変わらず静かにひびを広げている。その奥で、白い光が誰かの記憶みたいに揺れてる。
一撃で叩き割る。
……つもりやった。
でも、腕を振り下ろす直前に、視界がぶれた。
卵の奥に、今度ははっきり見えた。
小さい頃の私。
ダイニングテーブル。
向かいに座る父。
その横に、まだ元気そうな母。
そして、机の上で揺れている、黒い猫のしっぽ。
ありえへん。
ラプラスがうちに来たのは去年や。
こんな場面、成立するはずがない。
せやのに胸の奥が、ひどく痛んだ。
『ユカリ!』
ラプラスが珍しく叫ぶ。
『それは“そうだったことにしたい未来の逆算”です。あなたの記憶ではありません!』
私ははっとして、無理やり目を逸らした。息が荒い。
やばかった。あと一秒遅れてたら、たぶん私はその映像に触れにいってた。
「……えげつな」
『はい』
「人間の欲しいもん、理解しすぎやろ」
『理解ではありません。最適化です』
その言い方が、月読ルナの理屈と重なった。
ぞっとする。
私はもう一度、今度は卵そのものだけを見るようにして、フックを振り下ろした。
甲高い音。
殻が割れる。
黒い破片が床に散る。でも中身は液体でも肉でもない。細い光の糸みたいなものが、一瞬だけ空中へ舞って、すぐ消えた。
倉庫の空気が、ふっと軽くなる。
『一次誘導の停止を確認しました』
ラプラス。
「終わり?」
『部分的には』
「嫌な言い方」
『元の供給源が残っています』
やっぱりか。
卵は末端、インターフェース、餌。元を断たなあかん。
倉庫の外へ出ると、藤野は壁にもたれて座り込んでいた。ナユが横で背中をさすっている。
「大丈夫そう?」
私が訊くと、藤野はぼんやり頷いた。
「……うち、何してた?」
「ちょっと立ちくらみ」
ナユが先に答える。
「先生にはそう言うとき」
「え、でも」
「今はそれでええ」
藤野は納得しきれてへん顔やったけど、追及する元気はないみたいやった。少なくとも、“お姉ちゃんが向こうにいた”という熱はもう目に残ってへん。
保健室へ連れていく途中、ナユが小声で言う。
「助かった」
「まだ分からん」
「それでも、さっきの止め方はよかった」
「……あんた、褒める時は素直やな」
「ユカリがひねくれすぎやねん」
『現在のツンデレ率は94%です』
「上がる要素どこにあった!?」
ナユが笑いを堪えきれずに肩を震わせる。
その笑いで、さっきまで張りつめてた空気が少しだけ緩んだ。
藤野を保健室へ送り届けたあと、私とナユは校門を出た。
もう授業どころやない。ルナの予告どおり、学校で現象は起きた。しかも末端を一個壊したくらいで終わる気配はない。
「次、どうする」
私は訊く。
ナユは少し考えてから、低く言った。
「和菓子屋」
「卵最中の」
「うん。あそこ、たぶんただの噂の舞台やない。現象を“抱えられる形”に変えてる場所やと思う」
ラプラスから通知が来る。
『賛成します』
「珍しく気が合うな」
『朱宮ナユの仮説は、現在もっとも整合性が高いです』
「褒められてる感じせえへん」
ナユが言う。
「ラプラス、その和菓子屋って何なん」
私は訊いた。
少し長めの沈黙のあと、返答が来た。
『矛盾を捨てずに持ち帰るための、古い人間側の仕組みです』
「……分かるような分からんような」
『忘れたいから消すのではなく、消えそうなものを抱えるための場所です』
ナユが立ち止まった。
「それ、早よ言うてほしかったな」
『今、言いました』
「やっぱり腹立つわ」
夕方の空は、曇っていた。
雨の匂いがする。アキの透明傘を抱えた時のナユの顔が頭をよぎる。
「……卵最中、食べるん?」
私は訊く。
「食べたことある」
ナユは答えた。
「結果は」
「忘れたくないことが、余計にしつこく残った」
私は一瞬黙って、それから頷いた。
「じゃあ、今の私には必要かもしれん」
「合理的やな」
「せやろ」
「でもちょっとだけ、怖いもの見たさもあるやろ」
「……否定は保留する」
ナユが笑う。
『現在のツンデレ率は95%です』
「もうええわ!」
そのまま私たちは、地図に載っていない裏鬼門の和菓子屋へ向かった。
角を二つ、細い路地を三つ抜けた先。夕闇の中に、あの古びた暖簾が見えた時。
私は入口の前で、足を止めた。
店の戸は閉まっている。
でも、暖簾の隙間から灯りが漏れていた。
そして戸口に、小さな貼り紙が一枚だけ揺れていた。
《本日分の卵最中は、観測者のために取り置きしております》
「……最悪やな」
私が言うと、ナユは隣で乾いた笑いをこぼした。
「歓迎されても、嬉しないな」
暖簾の向こうで、鈴がひとつ鳴った。
(第十話へ続く)




