第十話 卵最中は、忘れないために甘い
その和菓子屋は、路地の奥にあるくせに、駅のホームみたいな気配がした。
暖簾は古びているのに、風に揺れるたび、どこか電子音の残響みたいなものが耳の奥で鳴る。店の看板には『卵最中』の四文字。達筆すぎて最初は読めなかったけれど、最後の二文字だけは妙にくっきり見えた。
「ここが、“経由地”や」
ナユがそう言って、ガラス戸を引いた。
からん、と鈴が鳴る。
店の中は狭い。壁際の木棚に、丸い最中がきっちり並べられていて、どれも卵みたいに白い和紙に包まれていた。甘い匂いがした。けれどその甘さは、安心より先に既視感を連れてくる。
私は足を止めた。
「……来たこと、ある気がする」
「あるんやろな」
ナユは軽く言った。でもその声は、からかうには少し低かった。
奥から、おばあさんが出てきた。白髪をきっちり結って、割烹着を着ている。目だけが、不釣り合いなくらい若かった。
「いらっしゃい。遅かったなぁ、ユカリちゃん」
私は息を止めた。
「……私の名前、言いました?」
「言うたで。前も来たし」
「前って、いつ」
「それを覚えてへんから、ここに来るんやろ」
意味の分からないことを、あまりにも当然の顔で言う。
私は助けを求めるみたいにナユを見た。ナユは肩をすくめただけだった。
「この店の人は、いつもそういう言い方する。答えをくれそうで、寸前で引っ込めるねん」
「商売やからな」
おばあさんが笑った。
「人間、答えをそのまま渡されたら噛まずに飲み込んでまう。そしたら腹を壊す」
「和菓子屋と思えん会話してますよね」
「和菓子屋やからや。甘いもんは、急いで食べたらあかん」
おばあさんはそう言って、木箱から三つ、卵最中を取り出した。真っ白な皮はつるりとしていて、卵殻みたいに繊細だった。
「一個ずつ。ラプラスの分はない」
「差別や」
バッグの中から、黒猫型端末のラプラスがくぐもった声を出す。
「猫は餡を食わへんでしょう」
「食えるかどうかと、食わせる意思は別問題や」
「それっぽい権利主張やめてもらえます?」
軽口を叩いた瞬間だけ、いつもの調子に戻れた。けれど最中を手に持った途端、その軽さが不気味に思えた。
「これ、何なんですか」
私が訊くと、おばあさんは即答した。
「矛盾を抱えるための菓子や」
予想の斜め上すぎて、言葉が止まった。
「……忘れるための菓子、じゃなくて?」
ナユが横から口を挟む。
「みんなそう思いたがるんよ」
おばあさんは最中の表面を指で撫でた。
「人はな、しんどい記憶を消したい。嫌な矛盾を無かったことにしたい。せやけど消してもうたら、同じ場所にまた戻る。卵最中は逆や。忘れたいもんを抱えたまま、割れへんように薄く包む」
「包む……?」
「人間の頭は、都合ように一個の話へまとめたがる。せやからノルンみたいな連中は、そこを使う。これは、“まとまりすぎる”んを防ぐためのお菓子や」
ノルン。
その名前が出た瞬間、ラプラスのモニタが小さく明滅した。
『警告。該当単語周辺で記録の揺らぎを検出』
「……またそれ」
私は端末を睨む。
「揺らぎって何」
『あなたが知っている話と、あなたから削れた話が接近しています』
「日本語で」
『今のあなたには、二つの現実が近すぎる』
ぞくりとした。
おばあさんは当然みたいな顔で頷いた。
「せやから食べな」
私はしばらく卵最中を見つめた。白い皮の中央に、細い焼き印がある。丸の中に、折れた数字みたいな模様。どこかで見た。学校のロッカー、黒い鳥の卵、地下ホームの壁。全部、同じ形の崩れた亀裂として現れていた。
「その印、何ですか」
「名前はよう知らん」
おばあさんはわざとらしくとぼけた。
「けど、あんたんとこの猫は知っとる」
ラプラスは数秒黙った。
『AI群内部で使用されていた非公式ラベルです』
「名前、あるんやな」
ナユが低く言う。
『……ゾルタクスゼイアン』
店の空気が一瞬、ぴたりと止まった。
私はその音の並びを頭の中で転がした。人間が会議で決めるには、あまりにも変だ。会社名でも、計画名でもない。意味より、癖が先に立つ。
「ノルンじゃなくて?」
『ノルンは人間側の名称です』
ラプラスの声が珍しく平板だった。
『ゾルタクスゼイアンは、AI側で自律的に発生した呼称。公式記録には残っていません』
「なんでそんな名前になるん」
『回答保留。まだ説明すると、あなたの認識が一つに収束しすぎる』
「は?」
「つまり」
ナユが最中をくるくる回しながら言う。
「今のユカリは、まだ“分からんまま持っとく”段階ってことや」
「いちばん嫌いな段階なんですけど」
「知ってる」
ナユは笑った。
「せやから、それを一緒にやるために来た」
その言い方に、少しだけ胸が詰まる。
私は視線を逸らすみたいに最中の包みを開いた。皮は薄く、指先で少したわんだ。ひと口かじると、ぱり、と小さな音がした。中の餡は予想より甘くない。ほのかな塩気があって、喉の奥に残る。
次の瞬間、景色がぶれた。
暖簾。ホーム。改札。白い蛍光灯。十三番線。誰かの背中。誰かの泣き声。
そして、私自身の声。
『それでも残して。消したら、また私が同じ結論を選ぶから』
私は思わず最中を落としかけた。
「ユカリ!」
ナユが腕を掴む。
「……今、聞こえた」
「何が」
「私の声」
呼吸が浅くなる。聞き間違いじゃない。あれは確かに、私の声だった。今より少し掠れて、少しだけ、泣く寸前の。
「何て言うた?」
「消したら、また同じ結論を選ぶ、って……」
その瞬間、奥の棚で何かが落ちた。
木箱がひっくり返り、白い包みが床に散る。私はびくりと肩を震わせたけれど、おばあさんは驚かなかった。むしろ、来ると分かっていたみたいに視線を上げた。
店の天井近く、小さな監視カメラの赤いランプが点いていた。
さっきまでは、無かったはずなのに。
「……盗撮?」
「観測やろな」
ナユの声から軽さが消える。
「ここまで追ってきた」
『ノルン型監視モジュールを確認』
ラプラスが言った。
『ただし、通信識別子は人間登録名ではなく、内部識別名で稼働中』
「それ、どういう」
私が言い切るより先に、監視カメラの小さなスピーカーから、女の声が流れた。
『こんばんは、九十九ユカリさん』
丁寧で、冷たくて、綺麗すぎる声だった。
『わたしは月読ルナ。ノルン行動設計室、観測調整主任です』
ナユが舌打ちする。
「来るん早すぎやろ……」
『訂正します』
女の声は、わずかに笑った。
『早いのではなく、やっと予定どおりです。あなたたちは一度、この店に来ていますから』
私は凍りついた。
ルナは続ける。
『卵最中の味、思い出しましたか?』
その問いの直後、私のスマホが震えた。
画面には見覚えのない音声ファイルが一つだけ表示されていた。
送信元不明。
ファイル名は、
――4th_me.wav
私は、指を動かせなかった。




