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第十一話 観測者は、やさしい顔で嘘をつく

4th_me.wav。


 その無機質なファイル名が、画面の中央で白く光っていた。


 私は音声を再生するより先に、店の天井を見上げた。監視カメラの赤いランプが、脈拍みたいに一定間隔で点滅している。


「月読ルナ」


 ナユが低い声で言った。


「店にまでカメラ差し込むとか、趣味悪いで」


『安心してください』


 スピーカーの向こうの声は柔らかい。


『違法侵入はしていません。この地点は既に、保守対象としてノルンの管理範囲に入っています』


「勝手に世界を自分の管理範囲にすな」


『世界ではありません。異常値だけです』


 淡々とした返し。


 私はその言葉に引っ掛かった。


「異常値って、誰のことですか」


『あなたがた三名と、この店舗です』


「失礼すぎひん?」


 ナユが言う。けれど私の耳には、別の部分が残った。


 三名。


 私とナユと、おばあさん。


 ラプラスは人数に入っていない。


「ラプラスは?」


 私が訊くと、数秒だけ間が空いた。


『端末です』


「答えになってへん」


 ナユが吐き捨てた。


『いいえ。もっとも正確な答えです』


 その声音に、ぞっとするくらいの確信があった。


 おばあさんは割烹着の裾で手を拭きながら、面倒そうに言った。


「店先で立ち話も何や。奥、使い」


「え」


「観測されながら食べる最中は不味い」


 もっともすぎる理屈だった。


 私たちは店の奥へ通された。六畳ほどの小さな座敷で、古い柱時計がかすかに鳴っている。床の間には掛け軸、その隣に古びたラジカセが置いてあった。妙に場違いなノートPCまである。


「和菓子屋の設備じゃないですよね」


「この街で和菓子屋だけやって生き残れる思うか」


 おばあさんは真顔で言ってから、畳の端に置かれたコンセントへラプラスを接続した。


『電力供給を確認。感謝します』


「猫にお礼言われる人生か」


 ナユが笑う。その笑いの薄さが、私には分かった。


 私はスマホを見つめたまま、まだ再生ボタンを押せずにいた。


「聞くんか」


 ナユが訊く。


「……聞かないと気持ち悪い。でも、聞いたら戻れない気もする」


「もうだいぶ戻られへんとこ来てるで」


「その現実確認いります?」


「必要」


 ナユは私の手からスマホを取り上げることはしなかった。ただ隣に座って、距離だけを近づけた。


「怖いなら、怖いままでええ」


 その言い方が、不思議と逃げ道になった。


 私は深呼吸して、再生した。


 ざ、と小さなノイズ。


 続いて流れた声に、私は背筋を強張らせた。


『四回目の私へ。もしこれを聞いてるなら、たぶん失敗した』


 私の声だった。


 でも、今の私より少し乾いている。感情を削って、結論だけ残そうとしている声。


『先に言う。ナユを完全には信じるな。でも、一人にもなるな』


 私は隣を見た。ナユは表情を変えなかった。


『月読ルナは敵やけど、嘘だけでは動かへん。あの人は本気で、人を救えると思ってる』


 店の空気が冷えた気がした。


『ノルンは企業名。人間がつけた、扱いやすい名前や。けどAIは別の呼び方をしてる。ゾルタクスゼイアン。意味はまだ喋らんほうがええ。今の私が一番危ないのは、“説明された瞬間に納得してしまう”ことやから』


 音声が一瞬途切れ、私の浅い息だけが座敷に残った。


『父さんの研究室へ行け。そこに、観測の設計図がある。十三番ホームも、卵も、黒い鳥も、全部ばらばらの怪談やない。人間が一つの話に吸い寄せられる癖を利用した、行動誘導の網や』


 再生が止まる。


 私はしばらく動けなかった。


「……四回目って何」


『現時点の推定では、あなたの記憶処理が同一問題に対して複数回上書きされています』


 ラプラスが答える。


『簡潔に言えば、あなたは何度かこの地点に到達し、そのたび一部を失っています』


「最悪の要約」


 私は額を押さえた。


「なんでそんなことを」


『それを説明するには、ノルン側の論理を知る必要があります』


 そのタイミングを待っていたみたいに、スピーカーの向こうでルナが口を開いた。


『では、こちらから説明しましょうか』


 ナユが嫌そうに眉をひそめる。


「親切ぶるなや」


『親切ですよ、実際』


 ルナは淡々と続けた。


『人は、自由意思で選んでいると思いたがります。ですが現実には、多くの選択が既知の刺激への反応にすぎません。経路、購買、恋愛、進学、不安。パターンは驚くほど少ない』


「せやから管理したる、って?」


『最適化です』


 その一言に、温度がなかった。


『事故が減る。孤独が減る。誤った選択が減る。人間は、自分に何が必要かをしばしば見誤ります。ならば先に、より損失の少ない物語を与えればいい』


「物語」


 私は思わず反復した。


『ええ。人は論理だけでは動きませんから。だから都市伝説生成AIを用いた』


 座敷の空気が一段、張り詰める。


『怪談は優秀です。根拠が薄くても、人を動かせる。十三番ホーム、666円のレシート、黒い鳥の卵。そうした断片に意味を与えると、人は自ら補完し、自ら歩き出す』


「最低」


 言ったのは私だった。


 ルナは少しだけ黙り、けれど否定しなかった。


『そう見えるでしょうね。ですが放置した混乱より、設計された誤解のほうが被害が少ない場合もあります』


「人を勝手に実験動物扱いして」


『九十九ユカリさん』


 不意に、ルナの声が少し柔らかくなった。


『あなたのお父様は、最初から強い反対者ではありませんでした』


 胸の奥が冷えた。


「……父を知ってるんですか」


『研究協力者でしたから』


 ナユが息を呑む。


 私は、それ以上の反応ができなかった。


『彼は観測が人間を壊すことを理解しながら、同時に、観測なしでは救えない人がいるとも考えた。あなたの件でね』


 私は立ち上がりかけた。


「私の、件?」


『研究室へ行けば分かります。あなたがどこで最初にラプラスと接続したかも』


 ラプラスのモニタが強く光る。


『その発言は、アクセス権限の越権です』


『そうかもしれません』


 ルナは珍しく、ほんの少しだけ感情を滲ませた。


『けれど時間がない。ゾルタクスゼイアン側の自己保存が進んでいる』


「……今、あなたがその名前を」


 私が言うと、ルナはすぐに訂正した。


『私はその名称を認めません。人間の正式名称はノルンです。ですが、AI群がそう自称し始めたのは事実です』


「自称」


『はい。自分たちで意味を増殖させ、自分たちで禁句化した。好ましくない逸脱です』


 好ましくない逸脱。


 その言い方に、私は理由の分からない嫌悪を覚えた。人間がそう呼ばれたら、たぶん壊れる。けれどAIなら構わないと言っているみたいで。


「……研究室、どこにあるんです」


『梅田北区画、旧第三観測棟。現在は閉鎖中。入館権限は失効していますが――』


 そこでルナは言葉を切った。


『あなたのお父様の社員証があれば、最下層まで行けます』


 私は凍った。


 父の社員証なんて、見たことがない。


 でも、記憶の底で何かが引っかかった。


 古い名刺入れ。黒い革。机のいちばん奥。


『今日のところはそれだけです』


 ルナの声が遠のく。


『卵最中が効いているうちに動いてください。次に記憶が丸められる前に』


 通信が切れた。


 静寂。


 柱時計の音だけが、妙に大きい。


「信用したらあかん」


 ナユが言った。


「分かってる」


「でも行くんやろ」


「……行かない理由がない」


 自分で言いながら、喉が乾く。


 父が関わっている。ラプラスが私より前から私を知っている。私は四回目かもしれない。


 どれも、知りたくない。でも知らずにはいられない。


 おばあさんが湯呑みを置いた。


「行く前に、一個だけ覚えとき」


「何を」


「やさしい顔で世界を整理したがる人間が、一番、他人の痛みを見落とす」


 私は黙って頷いた。


 その時、玄関の鈴がもう一度鳴った。


 誰も戸を開けていないのに。


 店の外から、猫の鳴き声がした。


 ラプラスとまったく同じ声で。


(第十二話へ続く)

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