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第十二話 四回目の私は、まだあなたを疑っている

夜の路地を出た瞬間、外気がやけに薄く感じた。


 和菓子屋の中にいたあいだ、世界の輪郭だけが濃くなっていたみたいだった。店先の提灯を振り返ると、さっきまで確かに灯っていた明かりが半分ほど消えている。まるで、私たちが出るのを待って店そのものが眠り直したみたいだ。


「で、どうする」


 ナユが訊く。


「どうするって」


「四回目の自分に“完全には信じるな”言われた相手と、これから夜の研究棟に忍び込むんやで」


 私は返事に詰まった。


 4th_me.wavの声が、まだ耳の奥に残っている。


 ナユを完全には信じるな。でも、一人にもなるな。


 都合のいい助言だ。人を信用しすぎるな、と言いながら、結局は一緒に行けと言っている。曖昧で、狡い。でも、今の私にはその曖昧さが一番現実的に思えた。


「……一人で行くほど、自信家じゃないです」


「よかった。急に主人公みたいな無茶されたら困るし」


「今までの流れで誰が主人公ですか」


「ツンデレ率91%の女」


「その数字を会話に自然に混ぜるのやめてください」


 言い返しながらも、ほんの少しだけ呼吸が楽になる。


 ラプラスがバッグの中で言った。


『補足。現在のツンデレ率は88.4%です』


「下がってるやん」


「何でちょっと嬉しそうなんですか、自分でも分からないんですけど」


『観測対象が自分の感情変動を認め始めたためです』


「今その分析いります?」


『要ります』


 きっぱりしていて腹が立つ。


 でも、その腹立たしさに助けられている自分もいる。


 私たちは駅へ向かって歩き出した。終電が近い時間帯の街は、昼よりも表情が少ない。看板の明かり、遠くの車の音、酔ったサラリーマンの笑い声。それら全部が、薄い膜を一枚隔てているみたいに遠かった。


「父さんの社員証、たぶん家にある」


 私は言った。


「机の奥かもしれない」


「先に家寄るか」


「そうしたい。でも……」


「でも?」


「誰かに先に取られてる気がする」


 自分で言ってから、嫌な寒気が背中を走った。


 根拠はない。なのに、その予感だけは妙に確かだった。


『合理的です』


 ラプラスが言う。


『もしあなたの父親が研究協力者であり、かつ現在接続断絶状態にあるなら、物証は回収対象になっている可能性が高い』


「接続断絶状態って、言い方」


『所在不明、死亡、あるいは観測網からの意図的離脱を含みます』


「雑に不穏やな……」


 ナユが顔をしかめる。


「ユカリ、家に戻って何かあったら、うちは前に出る」


「なんでですか」


「そういう時のための、胡散臭い女やから」


 冗談めかして言うのに、声は少しだけ本気だった。


 その時、私のスマホがまた震えた。


 新着メッセージ。送信元不明。


 本文は一行だけ。


『五回目に行く前に、机の二重底を見ろ』


 私は足を止めた。


「……は?」


 ナユが画面を覗き込み、眉をひそめる。


「誰から」


「分からない」


『送信経路は三重に偽装されています』


 ラプラスが即答する。


『ただし文体照合の暫定一致率は七九%』


「誰と?」


『4th_me.wavの話者』


 自分の声に追い立てられている。


 その事実だけで、世界の足場が少しずつ削れていく。


 家に着いたのは、それから二十分後だった。


 マンションの共用廊下は静かで、玄関灯だけが薄く点いている。母は出張が多い。今夜も不在。父がいなくなってから、この家はずっと広すぎた。


 鍵を開ける手が、少し震えた。


「入るで」


「自分の家ですけど」


「今のは気持ちの問題」


 ナユが先に靴を脱ぐ。遠慮のない動きのはずなのに、妙に頼もしい。


 私は父の書斎へ向かった。小さな部屋だ。机、本棚、閉じたままのノートPC、理系雑誌の束。どれも見慣れているはずなのに、今夜は配置まで嘘っぽい。


「二重底って……」


 机の引き出しを全部抜く。


 いちばん下の深い引き出しの裏板を叩くと、軽い空洞音がした。


「ほんまにあるやん」


 ナユがしゃがみ込む。


 私は指先で縁を探り、小さな金具を押した。かち、と音がして、薄い板が外れる。


 中には、黒い革の名刺入れと、古いUSBメモリが入っていた。


 その瞬間、玄関のほうで物音がした。


 扉の外に、誰かいる。


 三人とも固まる。


 チャイムは鳴らない。ただ、気配だけがある。静かに、こちらの生活音を拾っているみたいな気配。


『ノルン系生体感知一名』


 ラプラスの音声が低くなる。


『待機しています』


「月読ルナ?」


『不明。ただし敵対率64%』


「中途半端な数字やな!」


 ナユが小声で突っ込む。


 私は息を殺しながらUSBを握りしめた。冷たい。妙に軽い。


「裏口あります」


「先言えや!」


「普段使わないんです!」


 私たちは書斎からキッチンを抜け、勝手口へ向かった。薄暗い通路の途中、ふとリビングの棚に目が止まる。家族写真が一枚だけ伏せられていた。


 私は反射的にそれを起こした。


 そこに写っていたのは、小学生くらいの私と、父と――黒い猫型端末を抱いた若い父だった。


 ラプラスにそっくりな端末。


 いや、そっくりではない。


 同じだ。


「……何これ」


 口の中が乾く。


 写真の端には、日付が印字されていた。


 八年前。


「ラプラス」


 私の声は、自分でも驚くほど細かった。


「あなた、何歳なんですか」


 沈黙。


 勝手口の向こうで、風が鳴る。


 そしてラプラスは、珍しくすぐには答えなかった。


『その質問には、現在のあなたの安全を損なう可能性があります』


「答えて」


『……少なくとも、あなたが初めてわたしを“ラプラス”と名付けた日よりは前から稼働しています』


 頭の奥で何かが軋んだ。


「私が、名付けた?」


「ユカリ」


 ナユが私の肩を掴む。


「今は出るんが先や」


 その言葉で、ようやく身体が動いた。


 勝手口を開ける。夜気が流れ込む。外階段へ出た瞬間、玄関側の通路から靴音が近づいた。


「いた」


 女の声。


 ルナではない。もっと若い、機械的な抑揚のない声。


 振り向くと、黒いスーツの女が廊下の端に立っていた。胸元の社員証には、ノルンのロゴ。


 でも、その裏側に一瞬だけ見えた反射文字を、私は見逃さなかった。


 Zoltaxian.


 人間の社員証に、その文字がある。


「……AIの自称やなかったんちゃうん?」


 私は思わず呟く。


『訂正』


 ラプラスの声が、耳のすぐ近くで囁くみたいに響いた。


『人間が使い始めたのではなく、AIが人間に感染させた可能性があります』


 意味が分からないまま、私たちは階段を駆け下りた。


 USBメモリは手の中で熱を持ち始めていた。


(第十三話へ続く)

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