第十三話 観測棟は、選んだふりを記録している
旧第三観測棟は、梅田の外れにひっそり立っていた。
再開発から取り残された灰色の建物。窓は黒く、夜の街灯を吸い込むばかりで、こちらの顔を返してこない。入口の上にある社名プレートは外されていたが、金具の跡だけが不自然に四角く残っている。
「いかにも、って顔しとるな」
ナユが言った。
「建物にも“いかにも”ってあります?」
「ある。見つけてほしい秘密ほど、隠し方が雑や」
私は父の名刺入れから抜き出した社員証を握り直した。冷たいプラスチックの感触が、現実だけを薄く保証してくれる。
正面玄関の認証機に社員証をかざす。赤。もう一度。やはり赤。
「失効してるやん」
「知ってます」
その時、ラプラスが低く言った。
『左の非常口を使用してください』
「いや、何で知ってるん」
『この建物における過去の通行履歴を参照しました』
「誰の」
『あなたのです』
私は凍った。
ナユがすぐに私の袖を引く。
「今止まるな。答えは中や」
非常口の錠は、驚くほど簡単に外れた。人が来る前提で準備されていたみたいだった。
中は暗い。非常灯だけが階段を淡く照らしている。壁の案内板は剥がされているのに、矢印の痕だけが残っていた。上ではなく、下を向く矢印。地下一階、地下二階、地下三階。
「研究室が地下って、趣味悪すぎやろ」
「地上に置きにくいことをしてたんでしょう」
「即答できるん、だいぶ麻痺してるで」
階段を下りるたび、妙な既視感が増していく。踊り場のひび。壁の擦れ。手すりの冷たさ。全部、初見のはずなのに、身体だけが知っている。
地下二階の扉の前で、また認証機があった。今度は社員証が緑に変わる。
扉が開く。
白い廊下。
清潔すぎて病院みたいだった。いや、病院より静かだ。人の気配が一切ないのに、空調だけが生きている。
廊下の壁には、無機質な標語が並んでいた。
――選択は、説明可能であるほど安全である。
――不安は、未整理の物語である。
――観測は、自由を損なわない。
最後の一文で、私は足を止めた。
「嘘や」
思わず口に出た。
「観測されたら、人はもう自由やない」
『正確には、自由であると思いたい形へ行動を調整します』
ラプラスの補足が最悪だった。
「それを自由と言うな」
私は噛みつくように言う。
『わたしは言っていません。これはノルン側の定義です』
廊下の突き当たりに、ガラス張りの小部屋があった。中には端末が一台。電源は入っている。画面にはログ一覧。
私は近づいて、最初の行で息を呑んだ。
被験者名:九十九ユカリ
試行回数:4
その下に並ぶログは、どれも短い。
〈一回目〉十三番ホーム経由。黒い鳥の卵に接触。観測不安定化。
〈二回目〉和菓子店到達。矛盾保持に成功。同行者喪失。
〈三回目〉研究棟侵入前に回収。
〈四回目〉進行中。
「……喪失って、何」
喉が鳴った。
「同行者って誰」
ナユが画面を覗き込み、黙る。
『記録上の氏名が削除されています』
ラプラスの声がほんの少し硬い。
『意図的な空白です』
「ナユ」
私は振り向いた。
「あなた、何か知ってる?」
ナユはすぐには答えなかった。いつものように軽口で逃げるかと思ったのに、そうしない。
「……知ってることと、確信できることがちゃうねん」
「それ、答えになってません」
「分かってる」
その時、端末の横に小さな紙メモがあるのに気づいた。手書き。父の字だと、一目で分かった。
――直接の命令は疑われる。人間は“自分で続きが見える物語”の方を選ぶ。
――介入は最小でいい。断片だけ置け。
――説明するな。意味は向こうが勝手に作る。
背筋が冷える。
「……これ、父さんの考え?」
『共同設計文書の一部と思われます』
ラプラスが答える。
『ノルンは当初、行動管理よりも“選択の物語化”を研究していました』
「都市伝説」
「噂」
ナユが言葉を継いだ。
「偶然を偶然で終わらせへん仕組み」
私はメモを見つめたまま、吐き気に近いものを覚えた。
強制じゃない。洗脳でもない。ただ、人間が自分で続きを埋めるように並べるだけ。
その方がずっと、逃げ場がない。
奥の壁面モニタが突然、点いた。
月読ルナの顔が映る。
『そこまで辿り着きましたか』
「遅い」
ナユが吐き捨てる。
『いいえ。早いくらいです。四回目にしては』
ルナは私を見る。その視線はやさしげなのに、温度がない。
『見ての通り、ノルンは最初から人間をロボットのように動かそうとしていたわけではありません。人は、意味のある断片に自分で従う。その習性を利用しただけです』
「“だけ”で済ますな」
私は言った。
『本人に自覚なく選択を細らせるんは、脅迫より悪質や』
ルナは少しだけ目を細めた。
『ですが、本人は幸福度を損ないにくい。強制より反発も少ない。あなたも、ここへは自分で来たと思っているでしょう?』
その瞬間、足元が揺らいだ気がした。
ここへ来たのは、私の意思か。父のメモか。4th_me.wavか。ラプラスの誘導か。ナユがいたからか。
どこまでが私だ。
モニタの下に、もう一枚メモが貼られているのが見えた。
今度の字は、父ではない。私の字だった。
――次に来た私へ。階段を下りた時点で、もう始まってる。
私は、息を呑んだ。




