第十四話 行き先を言った瞬間、物語は細くなる
地下三階へ向かうエレベーターは、扉が開いたまま待っていた。
誰も乗っていない箱の内壁には、鏡が貼られている。私とナユとラプラスの黒い影が、わずかに遅れて映った。
遅れて、という違和感に気づいた瞬間、背中が冷えた。
「今、鏡……」
「見んほうがええ」
ナユが低く言った。
エレベーター内の操作盤には階数ボタンがない。代わりに、小さなマイクが一つだけ付いていた。
上部の液晶には白い文字。
――行き先を、言葉で選択してください。
「最悪のUIやな」
ナユが顔をしかめる。
『この設備は発話内容と心理揺らぎを照合し、もっとも整合的な目的地を選びます』
ラプラスの説明も最悪だった。
「つまり?」
『本心を喋ると、もっとも回収しやすい物語へ運ばれます』
私はしばらく黙った。
「……じゃあ、正しい行き先を言ったら駄目なんだ」
『推奨しません』
ルールが見えた瞬間、逆に足がすくむ。
ここでは“自分で目的地を選ぶ”という形式そのものが罠だ。選ばせるふりをして、より読みやすい道へ寄せてくる。
ナユが私の横で口笛を吹く真似をした。
「ほな、うちは適当に言うで。“お月さんの裏”」
液晶が赤く点滅する。
――選択不能。詩的比喩を排除してください。
「感じ悪」
私は少しだけ笑いそうになった。
「じゃあ私は……“帰り道”」
今度は黄色。
――複数候補が存在します。絞り込んでください。
『帰り道、は危険です』
ラプラスが即座に言う。
『あなたにとっての帰還先が単数ではありません』
「何それ」
『家、過去の試行開始点、あるいは観測前の認識状態』
「さらっと怖いこと言うなや」
ナユが唸る。
私は鏡を見ないようにしながら考えた。目的地を言うほど道が細くなる。なら、行きたい場所ではなく、行かせたくない場所を避けるしかない。
「……“まだ決めない”」
液晶が青に変わる。
――暫定承認。
エレベーターがゆっくり動き出した。
「通るんかい」
『観測系は“未定”に弱い傾向があります』
ラプラスが言う。
『物語化の基点が定まりにくいためです』
微かな振動。下へ、下へ。
しばらくして扉が開く。そこは廊下ではなく、広い資料室だった。天井まである書架。紙のファイル、古い外付けドライブ、封筒、録音テープ。データ時代の墓場みたいな部屋。
「うわ……」
私は思わず呟いた。
「こんなに残してるんだ」
「“消したことにしたいもん”ほど、どっかに残るからな」
ナユが棚のラベルを読む。
観測導線試作。
意味感染試験。
噂媒介群。
同行者配置案。
最後の単語で、私は振り向いた。
「……配置?」
ナユの指先が止まる。
棚から一冊の薄いファイルを抜いた。表紙には、手書きでこうある。
同行者配置案/Case Y-91
嫌な予感しかしない。
ファイルを開く。最初のページには、箇条書き。
――対象Yは単独行動時、観測不安定化率が上昇。
――論理抵抗が強いため、外部からの説明に反発する。
――案内役は、虚実の境界を曖昧に扱える人物が望ましい。
――信頼しきれず、しかし切れない距離に配置すること。
その下に、赤字で名前が書かれていた。
朱宮ナユ。
私は無言でページを見つめた。
ナユも、同じページを見ている。
「……最低」
先に言ったのはナユだった。
「うちも今、最低やと思った」
「説明して」
声が思ったより冷たく出た。
「どこまで本当ですか」
「最初の接触が仕組まれてたんは、たぶん本当や」
ナユは逃げなかった。
「でも、うちがここまで一緒におるんは、今はもう“配置”やない」
「証拠は」
「ない」
その一言が、変に誠実で、余計に苦しかった。
「ないけど、ユカリが嫌ならここで切ってええ」
静かな声だった。
「うちはたぶん最初、あんたの導線の一部やった。せやけど今は違うって、口で言うしかできへん」
ラプラスが珍しく割り込まない。たぶん、今はどんな数値も意味を持たないと知っている。
私は息を吸って、吐いた。
「……切れないように作られてた、っていうなら」
「うん」
「今ここで切る方が、むしろ向こうの予想通りな気がする」
ナユが目を見開いた。
「それ、怒ってる?」
「怒ってます」
「ですよね」
「でも、まだ決めない」
私はファイルを閉じた。
「あなたを信じるかどうかも、今はまだ決めない」
その言葉で、資料室の奥のスクリーンがふっと点いた。
月読ルナの音声だけが流れる。
『正解です。未決定は、もっとも回収しにくい』
「褒められても嬉しくない」
『ただし代償があります』
次の瞬間、資料室の別棚が自動で開いた。中には旧式モニタが三台。どれも同じ映像を映している。
そこにいたのは、私とナユだった。
違う服。違う時間。違う表情。
それでも同じ二人。
そして映像の最後で、毎回ナユだけが、こちらを見て言う。
『四回目は、まだ間に合う』
私は、ファイルを持つ手に力が入るのを止められなかった。




