第八話 黒い鳥の卵は、忘れたい記憶に触れる
噂は、生き物に似ている。
最初は小さい。誰かが半分冗談で口にしたものが、別の誰かにとって都合よく作り替えられて、気づけば最初の形なんか分からへんくらい太ってる。
厄介なんは、その途中で“人にとって必要な形”を見つけることや。
願い、言い訳、免罪符、呪い。
噂はそういう空白に入る。
翌朝、教室へ入った瞬間、空気が少し違った。
ざわざわしてる。
でも試験前とかイベント前のざわつきやない。みんな声を潜めてるくせに、話題そのものはやたら共有されてる時の感じや。
「おはよう、九十九さん」
同じクラスの森岡が、妙に気まずそうに声をかけてきた。
「……何」
「いや、その、聞いた?」
「主語がない話は嫌いや」
「黒い鳥の卵」
来た。
私は鞄を置きながら、できるだけ平坦に返す。
「何それ」
「昨日の夜から回ってるやつ。学校のどっかに黒い卵みたいなんが出るらしくて、それ見た人は“忘れたい記憶”を一個だけ消せるって」
「ありがちな都市伝説やな」
「でも写真が――」
森岡がスマホを見せてくる。
廊下の隅、掃除用具入れの横に、黒い卵みたいな影が落ちてる画像。ピントは甘いし、光の加減でどうとでも見える。こんなもん、加工か見間違いや。
そう思う。思うのに。
画面の端に、見覚えのある鳥の横顔マークが一瞬だけ浮いた気がして、私は反射的にスマホを奪いかけた。
「ちょ、どうしたん」
「……いや、ピンぼけひどいなと思って」
「九十九さんでもそういう感想あるんや」
「あるわ」
席につく。ポケットの中でスマホが震えた。
『現在、校内での関連ワード検出数が急増しています』
ラプラスの通知。
『“黒い鳥”“卵”“忘れたい記憶”が局所的に拡散中です』
「把握済みや」
小声で返す。
『訂正します。把握は不完全です』
「腹立つなほんま」
さらに続く。
『本日、あなたは二回以上“ただの噂や”と言います』
「三回言うたる」
『一回目』
「死ねへん程度に黙っとけ」
朝のホームルームが始まっても、噂は消えへんかった。
むしろ、教師が軽く注意したことで逆に火がついた感じや。“そういう話はやめなさい”は、たいてい“その話は存在します”の宣伝になる。
二時間目の休み時間、私は渡り廊下でナユと合流した。
向こうは別の高校のはずやのに、なんで普通に中におるんかはもう突っ込む気力がない。
「不法侵入やで」
私は言う。
「情報収集や」
ナユは平然としている。
「同じ意味や」
「で、黒い鳥の卵。来たやろ」
「来た」
ナユは壁にもたれて、少しだけ真顔になる。
「これ、たぶん嫌なタイプの噂や」
「噂にええタイプあるん」
「あるで。“見たら不幸になる”系はまだましや。避ければええから」
「今回は違うと」
「“忘れたいもん消せる”はあかん。欲望に触ってる」
私は腕を組んだ。
確かにそうや。恐怖だけの噂より、救済を装う噂の方が広がる。自分には関係ないかもしれん怪談より、自分の過去を消してくれるかもしれん話の方が、人は自分から近づく。
「見つけた人、おるん?」
「まだ“見たかもしれん”段階。でも、時間の問題やと思う」
その時、廊下の向こうで声が上がった。
「え、今あったやんな!?」
「どこ?」
「ロッカーの下!」
人だかりができる。
私はナユと顔を見合わせて、同時に走った。
現場は特別棟へ続く廊下の角やった。床に、黒いしみみたいな楕円形がある。卵と言われれば卵に見える。近づくと、ただの影にも見える。
「これやこれ」
「写真撮って」
「うわ、何かやだ」
野次馬の輪の中心にいた女子生徒が、そっと手を伸ばしかける。
私は反射的にその手首を掴んだ。
「触らん方がええ」
みんなが一斉にこっちを見る。
「え、何で?」
その女子が訊く。
「……何か分からんもんやろ。まず材質調べるとか、監視カメラ確認するとか、順番あるやん」
理屈としては正しい。正しいはずや。
でも、その場の空気は微妙に変わった。
“そこまで言うってことは、やっぱ何かあるんや”って方向へ。
最悪や。
正論が燃料になってる。
ナユがすかさず間に入った。
「九十九さん、そういう言い方したら余計怖なるって」
「怖がらせたいわけちゃう」
「分かってる。せやけど人は、否定されると余計見たなるねん」
小声やのに、ぐさっと刺さる。
まさにその通りやった。周囲の視線が、さっきよりずっと黒い影に吸い寄せられてる。
『ユカリ』
ラプラスの通知。
『正面からの否定は拡散補助になります』
「知ってる、今学んだ」
『遅いです』
「うるさい」
その時、影に触れかけた女子生徒――同じクラスの藤野が、小さく息を呑んだ。
「……見えた」
「何が」
私は訊く。
藤野は私を見たけど、焦点が少しずれてる。
「中一のときの……」
そこまで言って、彼女は口をつぐんだ。次の瞬間、顔つきがふっと軽くなる。
肩の力が抜けて、何か重たいものを下ろしたみたいな表情や。
「……あれ」
「藤野?」
「うち、何でここおるんやっけ」
周囲がざわつく。
私はぞっとした。
忘れた。
今、目の前で。
「ちょっと保健室行こ」
私は藤野の肩を支えた。
「え? でも別にしんどくは――」
「ええから」
ナユも反対側を支える。二人で人だかりから引き剥がして、空き教室へ連れていく。
椅子に座らせると、藤野は困ったみたいに笑った。
「ごめん、何か急に変な感じして」
「何が見えたん」
私はできるだけ穏やかに訊く。
「……分からん」
「忘れたい記憶、って言ってた」
「そうやっけ?」
ナユと私は、そこで言葉を失った。
忘れた記憶の内容だけやなく、“忘れたことそのもの”の輪郭まで曖昧になってる。
『軽度の収束です』
ラプラス。
『本人は違和感を短時間で自己修復します』
「修復って言い方やめろ」
私は苛立って返した。
「壊れてるもんを勝手に均しただけやろ」
送信と同時に、自分で驚いた。
今のはラプラスへの八つ当たりやない。はっきり怒ってた。
こういう怒り方をしたの、たぶん初めてや。
藤野を保健室へ送ったあと、私は空き教室の窓際で立ち尽くした。
校庭には何も起きてへん。部活の声、先生の笛、いつもの昼休み。その中で、たった今一人分の記憶が削れたことを知ってるのは、たぶん私とナユとラプラスだけや。
「……あんなん、ありなん?」
自分でも誰に訊いたか分からん独り言に、ナユが答えた。
「ありやから広がるんやろな」
彼女は珍しく笑ってへんかった。
「人は“怖いから逃げる”より、“楽になるから近づく”の方が速い」
「最低や」
「最低やな」
私は窓ガラスに額を押しつけたくなった。冷たい理屈で切れるタイプの嫌さやない。もっと、人間の弱いとこを見せつけられる嫌さや。
「……ルナの言う“最適化”って、こういうことなんかな」
ナユがちらっと私を見る。
「かもしれん」
「痛いとこ、邪魔なもん、しんどい記憶。そういうの削ったら、生きやすい人は増えるんかもしれん」
「せやけど、それ選ぶんが本人やない時点でアウトやろ」
私は頷いた。
その時、ポケットの中でスマホが震える。
『補足』
ラプラス。
『藤野のケースは導入段階です。本格起動前に対処可能です』
「どうやって」
『源流を辿ります』
「黒い鳥の卵の?」
『はい』
次の通知で、地図が送られてきた。校内見取り図や。赤い点が、旧校舎裏の資料倉庫を示している。
『最初の投稿画像と校内通信ログを照合しました』
『起点はそこです』
ナユが画面を覗き込む。
「めちゃくちゃ有能やん、その黒猫」
「腹立つけどな」
『感謝の言葉を推奨します』
「今度な」
『統計的に、その“今度”は来ません』
「来るわ」
ナユが吹き出した。
でもすぐに真顔へ戻る。
「行こ、旧校舎裏」
「授業は」
「今それ言うん?」
「一応確認や」
「ツンデレ率上がるで」
「何であんたまで使うねん」
二人で資料倉庫へ向かう。昼休みの終わりが近づいてるせいか、人通りは減っていた。旧校舎裏は日当たりが悪くて、昼間でも少し薄暗い。
倉庫の扉は半開きやった。
中は教材と古い机と、使われへんなった掲示板が積み上がってる。ただ、その床の中央にだけ、何も置かれてへん空間がある。
そして、そこにあった。
今度は影やない。
黒い。
ほんまに卵の形をした、つやのない物体。表面に、羽根みたいな模様がうっすら浮いている。
ナユが息を止める。
私も、一瞬だけ足がすくんだ。
『接触しないでください』
ラプラスの声が即座に飛ぶ。
『それは観測誘導用のインターフェースです』
「もっと簡単に」
『触ると、あなたに合わせた“忘れたい記憶”を見せます』
嫌なほど分かりやすい。
私は黒い卵を睨んだ。あれは怪異の卵やない。人間の弱さに合わせて中身を変える餌や。
「壊せばええ?」
「雑!」とナユが言う。
「でも最終的にはそうやろ」
「順番!」
その時やった。
廊下の向こうで、誰かの足音が止まる。
私とナユが同時に振り向く。
倉庫の入口に立っていたのは、藤野やった。
さっき保健室へ送ったはずの彼女が、ぼんやりした顔でこちらを見ている。
「……あれ、何やろ」
その視線は、まっすぐ卵へ向いていた。
まずい。
私は一歩前へ出る。ナユも動く。
けど藤野は、私たちの制止より先に、夢遊病みたいな足取りで倉庫へ入ってきた。
『ユカリ』
ラプラスの声が鋭くなる。
『彼女は今、自分ではなく“見せられている物語”の方を選びかけています』
私は藤野の腕を掴もうとして、そこで止まった。
彼女の目が、私を見ていなかったからや。
視線の先にあるのは黒い卵。
でも、その表情は恐怖やない。
懐かしいものへ手を伸ばす顔やった。
藤野の唇が、ゆっくり動く。
「――お姉ちゃん」
その瞬間、卵の表面にひびが入った。
(第九話へ続く)




