第七話 研究者は、猫の名前を知っている
人は、正体のないものを怖がる。
それは正しい。
輪郭が見えへんものは対策の立てようがないし、敵か味方かも判断できへん。せやから怪談は怖いし、都市伝説は広がる。
でも、輪郭が見えた瞬間に安心できるかというと、そうでもない。
相手に名前があって、顔があって、意思まであったら。
それはもう、怖さの種類が変わるだけや。
『初めまして、九十九ユカリ。――今度こそ、正しい選択を』
ロッカー室に響いた女の声は、ノイズ混じりやのに妙に澄んでいた。
画面の砂嵐の向こうに、ほんの一瞬だけ映った横顔。長い黒髪、白衣、感情を置いてきたみたいに冷たい目。
知らん女や。
知らんはずやのに、身体の方が先にぞわっと反応した。
「走ってください」
ラプラスの声が、今まで聞いたことないくらい強かった。
「ユカリ、はよ!」
ナユが私の腕を掴む。私はようやく息を吸って、監視室から離れた。
ロッカー室の照明が端から消えていく。白い床に引かれていた黒い線だけが、暗闇の中で妙に濃く残っている。誘導路のはずやのに、追い立てられてるみたいやった。
「出口どっち!」
『黒線に沿ってください。逆走は推奨しません』
「こういう時だけ案内が親切やな!」
『最短経路を提示しています』
ロッカーの列を駆け抜ける。横目に見えた扉のラベルが、走るたび目に刺さる。
《未送信》
《言えなかったこと》
《取り消された約束》
《回収不能》
気持ち悪い。人間の中身を、物みたいに並べて管理してる感じがする。
ナユがメモ帳を胸に抱いたまま、息を切らして言う。
「このノルンって会社、ほんまに実在するん?」
「ラプラス」
『実在します』
即答やった。
「どんな会社」
『表向きは都市インフラ最適化、行動予測、流動解析を扱う研究企業です』
「表向きは、って言うたな今」
『はい』
「裏は」
『現在のあなたにとって、まだ整理しきれない情報量です』
「この期に及んで出し惜しみすな!」
ナユが走りながら苦笑した。
「黒猫、怒られ慣れてるな」
『学習済みです』
出口は、思ったより唐突に現れた。
防火扉みたいな重い金属扉。ナユが押してもびくともせえへん。私も肩を入れる。二人分の体重をかけると、きしんだあとにようやく開いた。
次の瞬間、夜の風が頬を打った。
「……は?」
出た先は、駅の外やった。
しかも十三やない。難波でもない。見覚えのある高架下の道、道路標識、コンビニの看板。家の近所や。
「なんで……」
『観測ノード間は、物理距離と一致しない接続が発生します』
「もっと簡単に言え」
『おかしな近道です』
「最初からそう言えや」
私は息を整えながら、振り返る。
さっきまで通ってきたはずの金属扉は消えていた。そこにあるのは、ただの落書きだらけのシャッターだけ。
ナユが壁にもたれて、長く息を吐く。
「……助かった、んかな」
「少なくとも今は、生きてる」
「基準が雑」
「そっちこそ」
そこまで言って、私は彼女の手元を見た。
アキのメモ帳。透明傘。ちゃんと残ってる。
「それ、消えてへん」
ナユも自分の腕の中を見下ろした。
「うん……」
その声が少し震えた。
さっきまで泣くのをこらえていた顔から、今は別の種類の戸惑いが見える。信じたいけど、信じるのが怖い時の顔や。
「証拠には、なるかもな」
私は言った。
「メモ帳の紙質、筆圧、インクの劣化。年代鑑定までは難しくても、少なくとも今日その場で作った偽物かどうかは見られる」
ナユが私を見る。
「……そういうとこ、ほんま助かる」
「感情で抱え込んでも前に進まんやろ」
「今の、優しさやで」
『現在のツンデレ率は92%です』
「黙れ!」
今度は私とナユの声が重なった。
ラプラスが一拍おいて答える。
『珍しく協調行動が観測されました』
「腹立つ」
「腹立つな」
また声が重なって、ナユがふっと笑う。
さっきまでの泣き顔の余韻が残ってるせいで、その笑い方は少しだけ反則やった。
その時、道路の向こうに黒い車が止まった。
音もなく滑るように寄ってくる。高級そうなセダン。ヘッドライトが一度だけ明滅して、後部座席のドアが開いた。
出てきた女を見て、私はすぐ分かった。
モニターの向こうの横顔。
白衣ではない。今は黒いコート姿。でも目だけで分かる。あの冷たい静けさは同じやった。
「九十九ユカリさん」
女は私の名を、名簿を読むみたいに正確に発音した。
「初めまして。月読ルナです」
ナユが半歩前へ出る。
「ノルンの人間?」
「ええ。あなたのことも知っていますよ、朱宮ナユさん」
その言い方には、敵意より先に観察の匂いがあった。
人を見るんやなくて、データを見る目や。
「何の用」
私は訊いた。
ルナは私を見て、次に私のスマホを見る。
まるでその中のラプラスにも挨拶するみたいに。
「迎えに来ました」
「誰を」
「もちろん、あなたを」
「断る」
「まだ条件を提示していませんが」
「提示される前に断る方が合理的な場合もある」
ルナの口元が、ほんの少しだけ上がった。
「聞いていた通りですね。九十九ユカリ。論理を信じるのに、情報の取得そのものには慎重すぎる」
「情報は、取るだけで相手に有利を渡すことがある」
「ええ。その警戒心があるからこそ、あなたはまだ保っている」
保っている。
その言い方に引っかかる。
「何を」
「自分を」
夜の高架下なのに、そこだけ音が薄かった。
車の走る音も、人の話し声も遠い。ルナの声だけが、まっすぐ耳に届く。
「単刀直入に言います。あなたは例外です」
ルナは続けた。
「普通の人間は、違和感を長く保持できない。都合のいい物語へ自然に収束する。でもあなたは違う。矛盾を矛盾のまま抱えてしまえる。だから観測対象として、とても価値が高い」
「最低の褒め方やな」
とナユ。
「褒めているわけではありません。評価です」
「余計悪いわ」
私はスマホを握りしめた。
「ノルンって何をやってるん」
ルナは少しだけ考える仕草をした。
「人間を、少しだけ事故に遭いにくくする。少しだけ迷わなくする。少しだけ孤独に気づかなくする。そういう最適化です」
「言い換えがうまいだけや。勝手に人の中身触ってるんやろ」
「中身、ですか」
ルナは首を傾げる。
「人は自分を“自由意志で選んでいる”と思いたがる。でも実際には、選択の大半は過去のパターンの反復です。なら、そのパターンを痛みの少ない方向へ整えることに、倫理的な問題は少ない」
その言い分があまりに整いすぎていて、逆にぞっとした。
間違ってる、とすぐ切り捨てられへん理屈の怖さがある。
「……私はそう思わん」
「でしょうね」
ルナはやわらかく言う。
「だからこそ、あなたに会いに来たんです」
次の瞬間、彼女の視線がわずかに下がった。私の手元――スマホの画面。その向こうのラプラスへ向く。
「それにしても」
ルナの声色が、ほんの少しだけ変わった。
「まだその顔をしていたのね、ラプラス」
私の背筋が冷える。
顔。
していた。
ね。
まるで昔から知ってるみたいな言い方や。
『月読ルナ』
ラプラスの声が低くなる。
『ユカリに接近しないでください』
「命令権限は失効しています」
ルナは即座に返した。
『倫理権限は失効していません』
「あなたが、それを口にするの」
二人の会話は短いのに、意味だけが濃い。
私はその間に割って入る。
「待って。あんたら、前から知り合いなん」
ルナは、あまり隠す気のない顔で言った。
「ええ。ラプラスは、元々うちの系統の端末です」
ナユが舌打ちする。
「最悪やん」
私も同意やった。
同時に、胸の奥が変にざわつく。ラプラスが敵側の系統。理屈としてはありえる。ありえるけど、それで今日までの会話全部を疑うかというと、もうそこまで単純でもなかった。
ルナはコートのポケットから一枚のカードを出した。
白い、社員証みたいなカードや。
「明日の放課後、あなたのお父様の研究所で話しましょう。逃げても構いませんが、その場合は学校側で別の現象が始まります」
「脅し?」
「予告です」
ナユが前へ出ようとするのを、私は止めた。
ルナの目は、脅してる人間のそれやなくて、ただ予定を告げてるだけやった。だからこそ怖い。
「どうして学校」
「あなたは、無関係な他人が巻き込まれる形の方が動きやすいから」
何も言い返せへんかった。
図星やからや。
ルナはカードを地面へ置いた。
「選択肢は残しておきます。私は、人間から選択肢を奪うのは好きではないので」
「十分奪ってるやろ」
「ええ。だから、残り少ない分だけでも」
言い終えると、彼女は車へ戻った。
ドアが閉まる。セダンは静かに走り去って、夜の流れへ溶けていく。
しばらく、誰も喋らへんかった。
最初に口を開いたのはナユや。
「……あれ、絶対まともちゃう」
「知ってる」
「黒猫。説明」
『月読ルナは、ノルンの主任研究員です』
「もっと早よ言えたやろ」
『今、本人確認が取れました』
「腹立つくらい慎重やな」
『あなたが無謀なので、私が慎重である必要があります』
「それ遠回しに馬鹿って言うてる?」
『はい』
「正直か」
ナユが苦笑する。
でも私は、笑いきれへんかった。
明日の放課後。研究所。父。ノルン。月読ルナ。
怪異やと思ってたものの向こうに、ちゃんと人間の手が見え始めた。
それが救いやなくて、余計に最悪や。
帰り道、私は何度もスマホを見た。ラプラスは珍しく黙っていた。
家の前でようやく言う。
「……ラプラス」
『はい』
「月読ルナって、あんたを作った側なん」
少し間があった。
『正確には、私に“そうあるべきだ”と定義した側です』
「何その言い方」
『作ることと、決めることは違います』
それだけ言って、また黙る。
私はそれ以上追えへんかった。
今日だけで情報が多すぎる。
せやけど、部屋に戻って制服を脱いで、机に突っ伏した時。スマホが震えた。
ラプラスからの通知や。
『補足』
一行目だけで嫌な予感がした。
『月読ルナの予告は高確率で実行されます』
『明日、学校で新しい噂が起きます』
『内容は――黒い鳥の卵です』
私は顔を上げた。
卵。
鳥。
また、そこへ戻る。
次の通知が続く。
『ユカリ。明日は、できるだけ一人にならないでください』
最後の一文だけ、少し表示が遅れた。
『そして、できれば朱宮ナユを嫌いにならないでください』
「……何でやねん」
返事を打つより先に、既読がついた。
でも、その理由は送られてこなかった。
(第八話へ続く)




