第六話 ロッカーの中には、忘れた証拠がある
人は、忘れたことをどうやって証明するんやろう。
覚えていることなら、まだ方法がある。写真、動画、メモ、会話、第三者の証言。けど忘れたことは違う。忘れている時点で、本人の中では最初から“ない”に近い。
せやから、忘却はずるい。
最初から存在しなかったことに、いくらでも偽装できる。
もし世界そのものが、その偽装に加担するとしたら。
それはもう、個人の記憶違いやなくて、現実の方が不誠実や。
「降りるで」
ドアが開いた瞬間、ナユが先に動いた。私も半拍遅れて続く。
列車の外は、さっきの観測駅よりさらに静かやった。
ロッカー室。そう呼ぶのがいちばん近い。幅の広い通路の左右に、古い金属ロッカーが延々並んでいる。駅の忘れ物保管所と学校の更衣室を足して二で割ったみたいな空間や。
天井の蛍光灯は半分ほど切れているのに、足元は妙に明るい。白い床に、黒い線が一本だけ通っている。誘導路みたいやった。
「ここも駅の中なん?」
『“駅の機能を模した保管区画”と表現するのが適切です』
ラプラスが答える。
「毎回言い回しが固い」
『曖昧にすると、あなたが怒るので』
「賢いな」
『ありがとうございます』
「褒めてへん」
ナユがロッカーの列を見回して、小さく息を吐いた。
「うち、ここは知らん」
「今日はそればっかりやな」
「知ってるふりして引っ張る方が、もっと悪質やろ」
「……まあ、それはそう」
実際その通りやった。
ナユの不完全さが、今はむしろ助かる。全部知ってる案内人やったら、私はたぶんこいつごと疑ってかかる。
最初のロッカーには名札が貼られていた。
《傘 / 拾得場所:十三駅》
《学生証 / 拾得場所:難波》
《約束 / 拾得場所:放課後》
「ちょっと待って。“約束”って何」
「忘れ物の分類が雑やなあ」
ナユが言う。
私は三つ目のロッカーを開けた。
中には何も入ってへん。空っぽや。けど扉の内側に、小さく文字が刻んであった。
《本人が忘れたため返却不能》
ぞっとした。
「……ラプラス。説明」
『知能収束現象とは、世界が矛盾を嫌って、自ら“もっともらしい物語”へ丸め込もうとする自動修復です』
「それ、前にも聞いた」
『続きがあります。人が保持しきれなかった違和感、失われた動機、説明に失敗した感情は、一部がこうした“保管区画”へ分離されることがあります』
「分離?」
『忘れた証拠です』
私はロッカーの列を見回した。
つまり、ここに並んでるのは単なる物じゃない。人間が現実から取りこぼしたもの、あるいは取りこぼさせられたものの残骸や。
「……そんなもん、誰が管理してんの」
ラプラスは答えるまで少し間を置いた。
『元々は、都市適応型観測システムの副産物です』
「日本語を訳せ」
『大きな組織が、人間の行動と違和感を集めていました』
「どこの」
『……まだ確定的な名称の開示は推奨されません』
「推奨されません、やなくて」
言いかけた時、ナユが一つのロッカーの前で止まった。
そこには赤いテープで、乱れた字が貼ってある。
《A.N. 透明傘 回収済》
さっき列車の中で見たイニシャルと同じや。
「アキ……」
ナユの声は、ほとんど息やった。
彼女が震える手で取っ手に触れる。鍵はかかってへん。
開いた中にあったのは、折り畳まれた透明傘と、小さなメモ帳。
一ページ目に、子どもの字。
《なゆへ おれ、ちゃんとわすれてないで》
ナユの肩が跳ねた。
次の瞬間、彼女はメモ帳を胸に押しつけるみたいに抱え込んで、しゃがみ込んだ。
私は、何も言えへんかった。
慰めの言葉なんか、持ってない。論理も、今は役に立たへん。こういう場面で正しい言葉が分からんのが、たぶん私の一番あかんところや。
「……ユカリ」
ナユは顔を上げへんまま、小さく言った。
「これ、ほんまにアキの字や」
「うん」
それしか返せへん。
「うち、ずっと、自分だけが執着してるんかもしれんって思ってた」
「執着で残る字やないやろ、これ」
言ってから、あ、と思った。
私にしては珍しく、分析やなく、そのままの言葉やったからや。
ナユが少しだけ顔を上げる。目尻が赤い。
「……今の、優しいな」
「違う。事実を述べただけ」
『現在のツンデレ率は90%です』
「黙れ」
ナユが、泣き顔のまま吹き出した。
「ほんまええ性格してるな、その黒猫」
「悪い方にやろ」
「いや、たぶんええ方」
ロッカー室の奥で、古いブラウン管モニターがぶつ、と音を立てて点いた。
私とナユは同時にそっちを見る。
壁に埋め込まれた監視室みたいな窓の向こう。埃をかぶった端末群の一つだけが起動している。画面の端に、小さなロゴが出ていた。
NORN
英字四文字。青い糸を三本束ねたみたいなマーク。
「……ノルン?」
ナユが呟く。
「知ってるん?」
「名前だけ。噂で聞いたことある。都市の人流解析とか、行動予測とか、そういうのやってる会社」
『概ね正確です』
ラプラスが言う。
「概ね、ってことは関係あるんやな」
『はい』
モニターにノイズが走る。
監視カメラの映像が切り替わっていく。改札、ホーム、階段、コンビニの棚、学校の廊下。どれも、どこかで見た風景ばかりや。
「全部つながってるんか」
『観測網としては』
「人の言うことをちょっとは簡単にできひん?」
『努力します』
最後の映像が映った瞬間、私は息を止めた。
それは、このロッカー室やった。
日付表示は三年前。
映っているのは、制服姿の私。
今より少し髪が短い。顔は青白くて、目の下に濃い隈がある。
そして、その私は、両腕で黒い猫型端末を強く抱きしめながら、泣いていた。
泣きじゃくっている、という表現が正しい。肩が震えて、息が乱れて、言葉にならん声が何度も漏れている。
「……うそ」
私が、一番泣かへん時期の顔やった。
中学の終わり頃から、泣いたら負けたみたいで嫌やった。何に負けるのかは知らんけど、とにかく人前では泣かへんようになった。
その私が、画面の中で壊れたみたいに泣いている。
しかも、抱きしめているのはラプラスや。
『……』
耳元のラプラスが沈黙した。
今までならすぐ何か言い返してきそうな場面やのに、何も言わへん。
画面の中の私は、泣きながら何かを喋っている。音声は最初、ノイズで潰れていて聞き取れない。
私は思わず監視室へ駆け寄った。再生端末のボリュームを探る。古いダイヤル式のつまみを回すと、ざりざりした雑音の向こうから、かすれた自分の声が浮いた。
『……だって、そんな名前やと、わたし、まともに受け取ってまうやん……』
ナユが目を見開く。
私も息を呑む。
画面の中の私は、涙としゃくり上げの合間に、ラプラスへ必死に言っていた。
『現実保持率とか、そんな言い方したら、私はまた証明しようとしてまう……』
『せやから、もっと、あほみたいな名前にして……』
『ツンデレ率とか、そういう、ふざけたやつにして……』
世界が、一瞬だけ無音になった気がした。
「……は?」
今のは。
今の言葉は。
ラプラスが“ツンデレ率”なんてふざけた名前を使ってる理由を、三年前の私が指定していたことになる。
『ユカリ』
耳元の声は、ひどく静かやった。
『私は、前回あなたに正しい名称を説明して失敗しました』
私は振り向けへん。
画面の中の自分から目を離せへん。
『だから今回は、あなたの指示どおり、くだらない名前を採用しました』
ナユが、私とラプラスの沈黙を見比べるみたいに立ち尽くしている。
私はようやく振り返って、スマホの向こうの黒猫を睨んだ。
「……じゃあ、あんたは最初から知ってたんか」
『はい』
「私が前にもここへ来たこと」
『はい』
「泣いたことも」
『はい』
「それ全部知ってて、朝からツンデレ率91%とか言うて遊んでたん?」
ほんの少しの間。
ラプラスは黙った。
それから、今まで聞いたことのないくらい低い声で答えた。
『遊んではいません』
『あなたを、壊さないためです』
ブラウン管のノイズが、ぶつ、と強く弾けた。
画面が切り替わる。
NORNのロゴの下に、新しい表示が現れる。
《観測ノード再起動》
《月読ルナへの接続を開始します》
ナユが息を呑んだ。
私はその名前を知らん。
でも、知らんはずの名前やのに、背骨の奥が冷えた。
『ユカリ。ここから先は、外部からの介入が始まります』
ラプラスが言う。
「外部って何」
『人間です』
モニターの中央に、女の横顔が一瞬だけ映った。
白衣。長い黒髪。こちらを見下ろすような、冷たい目。
すぐに画面は砂嵐へ戻る。
それでも、その一瞬だけで十分やった。
誰かが、こっちを見ている。
ただの怪異やなくて、意思を持った“観測する側”がいる。
『まもなく、この区画は閉じます』
ラプラスの声が急ぐ。
『ユカリ、ナユ。走ってください』
私はまだ状況を呑み込みきれてへんかった。
三年前の自分。泣いていた理由。ツンデレ率の由来。ノルン。月読ルナ。
全部が一気に押し寄せて、頭の中の数式みたいに絡まる。
でも、その全部より先に、胸の奥でひとつだけはっきりしたことがあった。
ラプラスは、最初から知っていた。
そして知っていた上で、私が受け取れるように、わざとくだらない言い方を選んでいた。
それが、腹立つくらい優しい。
ロッカー室の照明が、一列ずつ消え始めた。
最後に残ったモニターから、女の声が、ノイズ混じりに落ちる。
『初めまして、九十九ユカリ。――今度こそ、正しい選択を』
(第七話へ続く)




