第五話 行き先を言えない乗客たち
人は、目的を失っても歩けるんやろか。
普通は無理やと思う。
学校へ行くには授業があるからで、コンビニへ行くには買いたいもんがあるからで、帰るには家があるからや。行き先には、最低限でも理由が要る。
けど逆に、理由さえ消えても、習慣だけで人は動けるのかもしれん。
もしそうなら。
“どこへ向かっているか分からんのに、たぶんこれで合ってると思える”状態が、この世でいちばん怖い。
「乗った、って何」
私は暗い窓を睨んだまま、ラプラスへ訊き返した。
『そのままの意味です』
「嫌な時だけ言葉が正確やな」
『嫌な時ほど誤解を避けるべきです』
ナユが、私と列車の間に割って入るように一歩前へ出た。
「黒猫。今ここでそれ以上言うんはやめて」
『必要な情報です』
「必要でも、順番ってあるやろ」
「二人とも、私を置いて話進めるのやめてくれへん?」
さすがに声が尖った。
ナユは少しだけ目を伏せた。
「……ごめん。でも、今のユカリに全部いっぺんに言うたら、たぶん列車の方が先に答えを出してまう」
「何やそれ」
「人間は、分からんことが多すぎると、誰かが用意した筋書きに乗りやすくなるってこと」
その言い方が、妙に本気やった。
私は舌打ちを飲み込む。腹立つけど、ナユが私を制御しようとしてるんやなくて、何か別のものから守ろうとしてるのは分かる。
列車のドアが、遅れて開いた。
ぷしゅう、という気の抜けた音。昔の電車みたいな開き方やのに、風はほとんど動かへん。
車内は明るかった。
白い蛍光灯。つり革。ロングシート。広告枠。ぱっと見はただの地下鉄や。ただし、座っている乗客たちの雰囲気だけが妙に均質やった。
年齢も服装もばらばらやのに、全員が同じ顔をしている。
安心したい時の顔。
「……行くん?」
ナユが小さく言った。
「行かへん理由が、今のところ“怖い”しかない」
「それ、十分理由になるで」
「せやけど、それで帰ったら一生気持ち悪い」
「難儀やなあ」
私は答えず、先に車内へ足を踏み入れた。ナユが「ちょ、待って」と続く。
中は静かやった。乗客は十人ほど。学生、サラリーマン、年配の女の人、ベビーカーを押した母親。誰もスマホも本も見てへん。ただ、前を向いて座っている。
私は一番近いサラリーマン風の男に声をかけた。
「すみません。これ、どこ行きか分かります?」
男は少しだけ首を傾げた。
「たぶん、着くところです」
「どこに」
「……着くべきところに?」
語尾が上がった。自分でも分かってへん答え方や。
「目的地、分からないんですか」
「いや、分かってると思います」
「思う?」
「ええ。ここで合ってる感じがするので」
私の背中が冷える。
別の学生にも聞いた。
結果は同じやった。
「どこへ行くの?」
「たぶん、会うために」
「誰に?」
「……会いたい人、かな」
「名前は?」
「えっと」
答えられへん。
でも、不安そうではない。
むしろ、自分で答えられないことに疑問を持ってへん。
ナユが私の袖を引いた。
「もうええ」
「よくない」
「よくないけど、長く話しかけるとそっちも引っ張られる」
『朱宮ナユの指摘は妥当です』
ラプラスが割り込んできた。
『質問を重ねるほど、“理由の空白をもっともらしい物語で埋める”圧力が増します』
「つまり?」
『この乗客たちは、目的を失っているのに、納得だけを保持しています』
納得だけが残る。
それは、私がいちばん嫌う状態やった。式を忘れたのに答えだけ正しいと言い張るようなもんや。途中式のない正解なんか、私にとってはほとんど間違いと同じや。
車両が静かに動き出した。
窓の外に見える景色は、トンネルやなかった。駅でも街でもない。
ポスター、改札、ホーム、コンビニの棚、教室の黒板、マンションの廊下。そういう“どこかで見た日常の断片”が、ばらばらの順番で流れていく。
「外までめちゃくちゃやん」
「見たもんをつなぎ合わせてるんやろな」
とナユが言う。
「誰が」
「知らん。でも、物語作る側って、だいたいそういう雑さあるで。人が気づくのは筋やなくて、雰囲気の方やから」
私は窓から目を離した。
「その言い方、自分もそっち側みたいやな」
「そら、うち詐欺師やし」
軽く返したくせに、その声には冗談の余白が少なかった。
ふいに、車両の一番端の席に座っていた小学生くらいの男の子が視界に入る。透明のビニール傘を抱えている。持ち手に赤いテープ。
《A・N》
ナユの呼吸が止まった。
「……アキ」
私は反射的に彼女の手首を掴んだ。
「待て」
「でも」
「証拠ない」
「分かってる。分かってるけど……!」
その目が、痛いくらい真っ直ぐやった。
私は一瞬だけ迷って、それでも首を振った。
「“似てる”だけで飛びついたら、向こうの思うつぼや」
ナユは唇を噛む。
怒るかと思った。けど、しばらくして小さく息を吐いた。
「……うん。せやな」
「ごめん」
「何でユカリが謝るん」
「止め方がきつかった」
ナユはほんの少しだけ笑った。
「今の、ちょっと助かった」
その一言で、胸のどこかが妙に熱くなった。私はすぐ窓の方を向く。
『現在のツンデレ率は88%です』
「うるさい!」
思わず声に出た。
車内の何人かがこちらを見る。でもその視線も、すぐに“ここで合っている”顔へ戻っていく。
ナユが半笑いになる。
「今の黒猫?」
「聞かんでええ」
「だいたい分かった」
私は返事をせんかった。したら負ける気がしたからや。
車内アナウンスが鳴った。
最初は普通の乗換案内みたいなチャイム。次に流れてきた声は、やけに丁寧な女の声やった。
『まもなく、観測点を通過します』
乗客たちは誰も反応せえへん。
『お降りのお客様は、ご自身の目的をお確かめの上、お忘れ物のないようご注意ください』
私は眉をひそめた。
「目的が分からん人に、その案内意味ある?」
『あります』とラプラス。
『確認した気にさせることに意味があります』
「最悪やな」
『同意します』
次の瞬間、アナウンスの声色が変わった。
少しだけ柔らかく、少しだけ人間味を帯びる。
『――九十九ユカリ様。二度目のご乗車、ありがとうございます』
世界が、すべて一拍遅れた気がした。
「っ……」
ナユが私を見る。
私は何も言えへん。
二度目。
またや。
今日だけで何回その言葉を聞くねん。
『今回こそ、適切な選択を期待しています』
車内の広告が一斉に切り替わる。
《前回、あなたは泣いた》
《前回、あなたは一人を選べなかった》
《今回も同じですか?》
「前回って、何を――」
言いかけた瞬間、列車が止まった。
ドアの向こうに見えたのは、ホームやなかった。
ずらりと並んだ灰色のロッカーや。
その中央、一つだけ開いた扉の内側に、黒猫のシルエットが貼られていた。
『ユカリ』
ラプラスの声が、初めてわずかに乱れた。
『そこには、あなたが忘れた証拠があります』
(第六話へ続く)




