第四話 観測駅は、あなたを先に知っている
知らんはずの場所を、懐かしいと思った瞬間。
人はたぶん、いちばん簡単に騙される。
記憶というのは厄介や。あるかないかで割り切れへん。
写真みたいに残る記憶もあれば、空気の匂いみたいに輪郭だけ残るもんもある。後者は証明しにくいぶん、いちばん危ない。
私は、証明できひんもんを信用せん。
……せん、はずやのに。
ホームの奥、闇へ続く二本目の階段を見た瞬間、胸の奥があまりにも正確にざわついた。
――ここを、私は知っている。
その感覚を自分で否定しきれへんことが、何より気持ち悪かった。
「ユカリ、戻ろ」
ナユの手が、私の制服の袖を強く引いた。さっきまで人を食ったような余裕を残していた顔から、今はほとんど色が抜けている。
「ここから先、うちも行ったことない」
「さっき“前に一回来た”って」
「一個目のホームまでや。ここは、その先や」
つまり、こいつにとっても未知数。
その事実に、少しだけ安心してる自分がいた。もしナユだけが全部知ってる案内役やったら、私はたぶんとっくに逃げてた。
『撤退を推奨します』
耳元でラプラスが言う。
『現時点での安全率は31%です』
「急に具体的やな」
『あなたが好む形式に合わせました』
「三割で安心できる人間おらんやろ」
『九十九ユカリは、ゼロでなければ観測を継続する傾向があります』
「分析すな」
『事実です』
ナユが半ば呆れた顔で私を見た。
「その黒猫、ほんま腹立つな」
「知ってる」
それだけ言い合って、私は一歩前へ出た。
「……降りる」
「ユカリ」
「ここまで来て、何も見んまま帰ったら一番後悔する」
「後悔で済むならええけど」
「済まんかったら、その時は統計の取り方を変える」
「何やそれ」
「今の私に言える最大限の腹くくった発言や」
ナユが一瞬だけ、泣きそうな顔で笑った。
「変な子やな、ほんま」
階段を降りる。
一段ごとに、空気が現実から剥がれていく感じがした。上のホームに残っていた電車の風や電光掲示板の唸りが遠ざかって、代わりに、古い図書館の地下書庫みたいな匂いが濃くなる。紙と鉄と、雨に濡れたコンクリートの匂いや。
階段の先にあったのは、ホームというより、駅を模した展示室みたいな空間やった。
円形。
壁も天井も、ぐるりと古い広告で埋め尽くされている。昭和っぽい映画ポスター、携帯電話会社のキャンペーン、学習塾の貼り紙、選挙ポスターに似た何か。時代もジャンルもばらばらやのに、全部が薄く色褪せていて、ひとつの長い夢の中に押し込まれたみたいやった。
そして広告の文面だけが、異様やった。
《九十九ユカリは、三秒後に右を見る》
《九十九ユカリは、二十七秒以内に“気持ち悪い”と言う》
《朱宮ナユは、弟の痕跡を探している》
《黒猫型端末は、予定外の感情を保持している》
「は……?」
右を見てしもた瞬間、私は舌打ちした。ポスターの予測を自分でなぞったみたいやったからや。
「気持ち悪い」
「二十七秒以内やったな」
ナユの声も引きつっている。
私は広告から目を離せへんかった。
今のは単なる行動予測と切り捨てられる。人間の反応はある程度テンプレ化できる。違和感を見たら視線を動かす。嫌悪を覚えたら短い否定語が漏れる。そんなもん、心理学の応用でどうとでも――
そこで、さらに奥の広告が目に入った。
《九十九ユカリは、この文章を読んだあと“私はそんなに単純やない”と思う》
思った。
しかも、読み終わる前に思った。
背中に汗が流れる。
『観測駅です』
ラプラスが言った。
「観測駅?」
『正確には、“観測結果を行動へ先回り表示するノード”です』
「日本語を雑に難しくすな」
『あなた向けに簡略化すると、“世界の方が先にあなたの行動を知っている場所”です』
……最悪や。
「それ、ありえるん?」
『ありえてしまっているので、私は今ここで会話しています』
「そういう詭弁、AIでも使うんやな」
『学習しました』
ナユが小さく息を吸った。
視線の先には、円形の空間の中央にぽつんと置かれた古いベンチがある。その背後に、到着案内板みたいなものが立っていた。
【観測列車 到着予定 未確定】
【対象者の選択により変動します】
「……“対象者”って、うちらのこと?」
『はい』
「普通に嫌やわ」
私はベンチに近づいた。座面に、誰かが鍵で引っ掻いたみたいな細い文字がある。
《ここで待つと、迎えが来る》
《でも、誰の迎えかは言わない方がいい》
「ユカリ」
ナユが私を呼ぶ声が、少し低い。
振り向くと、彼女は別の広告の前で立ち止まっていた。
《朱宮ナユは、三年前ここで泣かなかったことを後悔している》
ナユの表情が凍る。
「……そんなもん、」
言い返しかけて、言葉が詰まる。
強がってるけど、図星なんやろう。私はそういう顔を、鏡の中で見たことがある。
「外れてるなら、外れてるって言えばええやん」
つい口が先に出た。
ナユは私を見て、それから少しだけ肩の力を抜いた。
「そうやな。……外れてる、って言いたいけど、半分くらい当たってる」
「半分か」
「全部当たってたら、もっとムカつく」
私は、変なところでほっとした。
全部見透かされてるわけやない。その程度の穴があるだけで、まだ勝負になる気がしたからや。
その時、円形の壁の一部が、ガラスのように暗く光った。
最初は鏡かと思った。でも違う。向こう側に、線路のようなものが見える。
音もなく、列車が滑り込んできた。
ライトは点いていない。
車体の輪郭だけが、闇から浮かび上がる。昔の地下鉄みたいな角張った形。窓だけが不自然に明るい。
「電車……?」
「いややな、その“?”付き」
「普通の電車なら“普通の電車”って言うわ」
列車はホームへ入ってきたのに、車輪のきしみもブレーキ音もほとんどしなかった。生き物が息を止めて近づいてくるみたいな、不気味な静けさだけがある。
ドアは開かへん。
ただ、窓だけがこちらを向いて止まった。
私は反射的に、いちばん近い窓を見た。
映っていたのは、今の私やなかった。
制服のリボンが少し古い。髪が今より短い。顔立ちは同じやのに、表情だけが別人みたいに疲れてる。
その隣に立っているのは――ナユ。
三年前くらいに見える、少し幼いナユ。
二人は同じ車内で、こっちを見ていた。
「……っ」
息が止まる。
「見た?」
ナユの声が震えていた。
「うん」
「今の、うちやんな」
「……たぶん」
“たぶん”なんて、統計にも証明にもならへん言葉や。けど今は、それしか言えへん。
窓の中の私は、何かを抱えていた。
黒い塊。猫。ラプラスや。
そして、窓の中のナユが、こちらへ向かって唇を動かした。
音は聞こえへん。
でも形で分かる。
――まだ、間に合う。
その瞬間、列車のすべての窓が真っ暗になった。
同時に、耳元でラプラスが低く言う。
『ユカリ。次は、乗車の判断が求められます』
「次って」
『この列車は一度しか停まりません』
私は暗い窓を睨んだまま、乾いた喉で訊いた。
「……これ、前にも来たんか」
ラプラスは、ほんの一瞬だけ沈黙した。
それから、いつもの無機質な声で答えた。
『はい。あなたは一度、この列車に乗っています』
(第五話へ続く)




