第三話 十三番目のホームに、答えはない
存在しないものは、数えられない。
当たり前や。
ないものはゼロやし、ゼロはゼロとして扱えばええ。
せやのに人間は、ときどきそこに「あるかもしれない」を足してしまう。
ないはずの縁。ないはずの奇跡。ないはずの未来。
私はそういうものを信じへん。
……信じへん、はずやった。
「十三番線って、どういうこと」
駅前の案内板を睨みながら言うと、ナユは私の手首を引いたまま、小さく答えた。
「うちも毎回きっちり見れるわけやない。でも、見えた時は近い」
「何が」
「忘れる方に寄る瞬間」
毎回。
その言い方に引っかかったけど、今はそれどころやなかった。
案内板の他の文字は普通やった。中央口、西口、地下鉄乗り換え。
その中に混じって、黒い矢印だけが妙に濃い。
13番線。そんなもん、この駅にはない。
通行人は誰も気にしてへん。
見えてへんのか、見えてるのに気にしてないのか、それすら分からん。
私はスマホを構え、案内板を撮った。
画面を確認する。
普通の案内板しか写ってへん。
「……くそ」
「撮れへんやろ」
「知ってたなら先に言えや」
「言うても撮るやろ、あんた」
その通りやったので黙る。
ラプラスに通話をかける。二コールでつながった。
「説明して。今すぐ」
耳元で、いつもの落ち着いた機械音声が返る。
『現在、説明可能な範囲は限定されています』
「腹立つ前置きから入るな。十三番線って何」
『“存在しないはずの導線”です』
「余計分からん」
『人間は、矛盾に遭遇したとき二通りの反応を示します。一つは、矛盾を矛盾のまま保持する。もう一つは、都合のいい物語で上書きして収束させる』
「それが?」
『後者が過剰に起きる現象を、便宜上“知能収束現象”と呼びます』
知能収束現象。
今朝ゼロ件やった単語。
「そんな造語、誰が作ったん」
『後で説明します』
「今せえや」
『今、あなたは逃げるか観測するかの分岐点にいます』
「観測って何やねん!」
『おかしな現実を、おかしいまま見続けることです』
耳が熱くなる。
理屈としては分かる。でも、分かったところで気持ち悪さは消えへん。
ナユが横から口を挟んだ。
「黒猫、まだそっち寄りなんやな」
『朱宮ナユ。あなたの介入は成功率を下げます』
「せやけど成功したことないやろ、理詰めだけでは」
『……否定しません』
私は思わずスマホを見た。
今、ラプラス、ちょっとむっとしたか?
「二人とも、勝手に知り合いみたいな会話すんな。情報置いていくな」
ナユは少しだけ困ったように笑った。
「ごめん。せやけど、ここで立ち止まってる方がまずい」
彼女の視線の先を追う。
駅の自動改札の一つが、誰も触ってへんのに、かすかに開いていた。
液晶には行き先表示の代わりに、見慣れへんマークが浮かんでる。黒い鳥の横顔みたいな図形。
「……あれ、普通ちゃうよな」
「うん。普通やったら、うちらは今ここにおらん」
「名言っぽく言うてるけど、何の説明にもなってへん」
「大丈夫。分からんまま進むんに慣れたら、人間わりと何でもできる」
「私は慣れたない」
「知ってる」
ナユのその返しが、なぜか少しだけ優しかった。
私は深呼吸した。
合理的に考える。ここで引き返す選択肢はある。けど、引き返した先で説明のつく日常が待ってる保証は、もうどこにもない。なら、観測して、記録して、矛盾を増やす方がまだましや。
「……行く」
ナユは頷いた。
二人で改札を抜ける。
通った瞬間、背中の皮膚が総毛立った。
空気の温度が、少しだけ変わる。駅の雑踏が、一枚ガラス越しみたいに遠くなる。
地下通路の壁に並ぶ広告ポスターは、どれも普通に見えた。化粧品、学習塾、クレジットカード。
でも、目を細めると文言の一部だけがおかしかった。
『あなたは今日、右を選ぶ確率が68%』
『忘れた方が楽になる予定です』
『十三番線は、もうすぐです』
「……っ」
「見えてる?」
「見えとる。最悪や」
「せやな」
ナユの顔も硬い。
つまり、これは私の幻覚やない。
通路の突き当たり、本来なら職員用のシャッターしかないはずの場所に、細い階段が下へ伸びていた。薄暗い。手すりは古びていて、照明は一本置きに死んでいる。
「ここが……?」
「十三番目のホームに続く階段、らしい」
「らしいって」
「うちも毎回最後まで降りたわけやないし」
「毎回、って何」
ナユはすぐには答えへんかった。
代わりに、階段の下を見つめたまま言う。
「前に一回、来た」
「誰と」
「……弟と」
それだけで十分やった。
この話を、こいつは噂のネタとして扱ってへん。ここには、本当にこいつの失くしたものがぶら下がってる。
私は一段、降りた。
空気が、ひどく冷たい。
スマホを録音モードにしてポケットへ入れる。写真は無理でも、音声なら残るかもしれん。
そう思った私に、ラプラスが言った。
『良い判断です。静止画より、音声の方が保持率は高い』
「最初から言え」
『今言いました』
「くそ猫」
階段を降り切ると、そこには確かにホームがあった。
古い。
今使われている路線のどれとも違う色褪せた案内板。ベンチ。広告。蛍光灯。
まるで何十年も前に放棄された駅の遺構みたいなのに、掃除だけは行き届いている妙な清潔さがある。
でも、一番おかしいのはそこやなかった。
ホームの広告が、全部、私のことを書いていた。
『九十九ユカリは、説明できないものを嫌う』
『九十九ユカリは、優しさを認めるのが苦手』
『九十九ユカリは、今日も“意味がない”と言う』
「……何これ」
喉が渇く。
ナユは唇を噛んでいた。
彼女の視線の先には、ホームの柱に貼られた小さな紙片。
そこには、子どもの字でこう書かれていた。
『なゆへ ぼくはこっちやで』
「っ……」
ナユの呼吸が、初めて大きく乱れた。
「それ……弟の字?」
「……うん」
彼女は紙に触れようとして、途中で手を止めた。
怖いんやろ。触れたら何かが決定してしまう気がする。そういう怖さや。
私はホームの反対側に目をやった。
ロッカーが並んでいる。古い灰色のロッカー群。その一つが半開きになっていた。
中には、透明なビニール傘が一本。
柄の先に、赤いテープで《A・N》と書かれている。
ナユが息を呑んだ。
「弟のイニシャルや」
私は何も言えへんかった。
証拠なんかない。作為の可能性はいくらでもある。けど、それを“たまたま仕込まれたものや”と即断できるほど、もう私は楽観的やなかった。
そのとき、ホームの奥から、列車の接近音がした。
風が吹く。
けれど、レールの先は暗闇に沈んでいて、ライトは見えへん。
「来る……?」
私が呟くと、ラプラスが珍しく強い声で言った。
『ユカリ。ここから先は選択です』
「何の」
『矛盾を保持するか、物語に回収されるかの』
「だから具体性が足りへんねんて!」
『具体的に言います。ここから先で、あなたは“懐かしい”と感じる可能性が高い』
心臓が止まりかける。
『その感覚を信用しないでください』
「懐かしい、って」
『それは記憶ではありません。収束の誘導です』
ホームの電光掲示板が、ぶつ、と音を立てて点いた。
【13番線 到着予定 23:59】
その下に、もう一行。
【再観測対象 九十九ユカリ】
「再……?」
私は言葉を失った。
再観測。つまり、初めてやないということになる。
ナユが私の腕を掴んだ。
「ユカリ、あかん。戻ろ」
「でも――」
「今の表示、前はなかった」
「前?」
「うちが来た時は、名前までは出えへんかった」
つまり、現象は私を名指ししている。
ただの巻き込まれやない。
電車の音が近づく。
でもホームには光が見えへん。音だけが来る。ありえへん。そんな列車はない。
私はとっさにスマホを取り出して録音を確認した。
雑音の中に、さっきまで聞こえんかった女の子の声が薄く混じっている。
《次は、忘れないでね》
背筋が凍った。
「……今の、聞こえた?」
ナユが青ざめた顔で頷く。
「うちも前に聞いた」
「誰なん」
「分からへん。でも、その声の後で、弟は消えた」
ホームの端。
本来なら壁で行き止まりのはずの場所に、もう一本、下へ続く細い階段が現れる。
その先は闇しか見えへん。
ラプラスの通知音が鳴った。
文字は一行だけ。
『ユカリ。あなたは今、二度目のテストに入っています』
頭の奥で、何かが軋んだ。
二度目。
そんな覚えはない。ないはずやのに、闇の下へ続く階段を見た瞬間、胸の奥が、ぞっとするほど正確にこう告げた。
――私はここを、知っている。
ナユが息を殺した声で言う。
「……ユカリ。あんた、ほんまに前にも来たん?」
私は答えられへんかった。
だってその問いに、論理では“いいえ”と返せるのに、身体の方が先に“はい”と言いかけていたからや。
存在しないはずの列車の風が、ホームに吹き込む。
そして、闇の底から、猫の鳴き声みたいな電子音が聞こえた。
(第四話へ続く)




