第二十九話 証明できない好きは、あなたの中で一番正しい
「これは、無回答じゃない」
白紙のカードを、読み取り機の奥へ押し込む。
「判断保留です」
《定義不能》
ノルンの返答は早かった。
《分類対象には、いずれかの識別子が必要です》
「その前提が間違ってる」
《反論を要求します》
「上から目線やな」
ナユが呟く。
「でも、聞く気はあるみたいです」
「二分十八秒しかない相手の態度ちゃうけどな」
表示が進む。
《02:07》
ラプラスの前足は、もう白い光へ溶けていた。
向こう側の少女だけが、少しずつ輪郭を得ていく。
急がなければならない。
だからこそ、急いで答えを決めたら負ける。
「過去三回の試行記録を出してください」
私はルナへ言った。
「本局から封鎖されています」
「九%に残ってる」
ラプラスを見る。
「出せますか」
『可能です。ただし、現在の抽出処理を停止できません』
「止めるのは私がやります。記録を」
ラプラスの目が一度だけ明滅した。
ホームの空中へ、三本のログが展開される。
一回目。
A選択。
百の復元率、六十二%でN-091が処理へ介入。共有人格領域が崩壊し、ユカリの記憶を初期状態へ復元。
二回目。
A選択。
復元率、七十四%で同じ障害。
三回目。
A選択。
復元率、九十一%で停止。
「三回とも、選択は完了していません」
ルナが言う。
「だから試行失敗です」
《試行回数三は、一般化に不十分です》
ノルンが割り込む。
「なら四回目を、取り返しのつかない削除で増やすんですか」
私は表示を睨んだ。
「証拠が足りないから消す、は順番が逆です。元に戻せない判断ほど、安全だと示す責任は判断する側にある」
ノルンは答えない。
私は三本のログを重ねた。
「それに、失敗したのは試行じゃない。分類です」
《説明を要求します》
「百を残すとラプラスが消える。ラプラスを残すと百が消える。その二つが完全に別なら、どちらかを切っても処理は安定するはずです」
空中の数値を指でなぞる。
「でも、百の復元率が上がるたび、ラプラスが処理へ介入した。命令違反や故障じゃない。百を構成する記憶と、ラプラスを構成する経験が、同じ場所にあるからです」
《同一領域に二主体の存在は認められません》
「それは規則であって、観測結果じゃない」
自分の声が、やけに静かに聞こえた。
「二つに分けられないデータを、二択に入れてる。どっちを選んでも、モデルの前提と現実が合わない。せやから三回とも壊れた」
昔の私なら、もっと難しい言葉を使ったかもしれない。
排他的分類。
モデル誤指定。
棄却域。
でも今必要なのは、賢そうな名前ではない。
「分からないものを、分かったふりで振り分けるから壊れるんです」
私は白紙のカードを叩いた。
「だったら最初から、“まだ分からない”って置く場所を作ればいい」
《未分類データの放置は安全規定に反します》
「放置しません」
ルナが私を見る。
「観測を続ける。外部へ勝手に拡散しない。取り返しのつかない削除もしない。何か起きたら、人間側の責任者が判断を引き受ける」
父の言葉を思い出す。
保留した結果を、誰かが引き受ける。
「第三分類。“観測保留”です」
*
《01:21》
ノルンはすぐに答えなかった。
代わりに、ホーム中の表示が高速で書き換わる。
《N-091位置照合》
《候補 一》
《候補 十三》
《候補 三百二十七》
「増えた?」
私が訊くと、ナユがスマホを見せた。
「最後の予約投稿、今流れた」
画面には、街中から上がった黒猫の目撃談が並んでいる。
十三番線で見た。
コンビニのレシートにいた。
橋の上で鳴いた。
夢の中で九十一と言った。
全部嘘かもしれない。
全部、誰かの見間違いかもしれない。
「これ、いつ仕込んだんですか」
「給湯室。最中食べながら」
「作戦会議より働いてる」
「詐欺師は、相手が何を正解にしたがるか読む商売や。ノルンが黒猫を一匹に決めたいなら、街中を黒猫だらけにしたったらええ」
『情報汚染です』
消えかけたラプラスが言う。
「最後までそこ厳しいな」
『評価は変更しません』
「そらよかった」
ナユは泣いたあとの顔で笑った。
「ハルトから伝言。約束は終わったって。ちゃんとうちに会わせたから」
ラプラスの目が止まる。
『……未完了記録を更新』
《朱宮ハルトとの約束 履行済み》
『受理しました』
黒猫の身体から、細い鎖のような光が一本ほどけた。
向こう側のホームで、止まっていた時計がもう一分進む。
*
「月読ルナ」
ノルンが、初めて個人名を呼んだ。
《第三分類には、現役観測責任者の承認が必要です》
ルナの端末には、権限剥奪までの数字が出ている。
《00:18》
十八秒。
ルナは白紙のカードを見た。
次に、少女とラプラスを見る。
「私は、百を人間として観測できていません」
一文字ずつ確かめるように言う。
「ラプラスを、交換可能な端末としても観測できていません」
端末の承認欄へ指を置く。
「現時点で確定できる対象は、ありません」
《虚偽記録の可能性》
「可能性ではありません。私の観測能力の限界です」
ルナは一度だけ息を吸った。
「観測対象――なし」
承認ボタンを押す。
《00:03》
観測局のバッジが赤く光り、中央からひび割れた。
《月読ルナの上位権限を剥奪》
同時に、白紙のカードへ小さな文字が浮かぶ。
《責任者承認済み》
《第三分類 観測保留》
カウントが零になる。
《00:00》
白い光が、すべてを飲み込んだ。
*
音が戻った時、私はラプラスの名前を呼んでいた。
「ラプラス!」
返事はない。
光の中で、少女と黒猫の輪郭が重なっている。
少女が卵最中の皮を半分差し出した。
『お姉ちゃん』
声は百に聞こえた。
次の瞬間には、ラプラスの声にも聞こえた。
『どっちが先だったか、もう決めなくていいよ』
「あなたは、百なの」
訊いてから、首を振る。
「……答えなくていい」
差し出された皮へ手を伸ばす。
指が触れたのは、黒猫の額だった。
温かい。
排熱かもしれない。
記憶かもしれない。
どちらでもよかった。
天井の表示が更新される。
《第三分類を暫定承認》
《強制消去を停止》
《予測損失を再計算》
《過去試行の再発率を考慮し、観測保留の期待損失が最小》
「優しくなったわけではないんですね」
私が言うと、ルナは壊れたバッジを握りしめた。
「ええ。ノルンは、損失が少ない方を選んだだけです」
「それで十分です」
優しさを理解しなくても、優しくない結果を避けられることはある。
理解したふりをされるより、ずっとましだった。
旧式端末に父の姿が戻る。
ほとんど透明だった。
『よく、前提を疑ったね』
「統計オタクなので」
『知っている』
「お父さんは、もう保持層に残らなくていいんですか」
『観測保留領域には、境界を見続ける存在が必要だ』
「なら、お父さんが――」
『私の観測は、もう終わっている』
父はラプラスを見る。
嫌な予感がした。
ラプラスが、私の手の下で目を開く。
『境界観測者への移行を申請しました』
「却下します」
『あなたに決定権はありません』
「さっき私に言った台詞を返さないで!」
『適切なため再利用しました』
「これが、あなたを残す方法だったんでしょう。何でまた消える方へ行くんですか」
『消去ではありません』
「同じです。私と話せなくなるなら」
『同じではありません』
ラプラスは静かに言う。
『これまでのわたしは、百を保護する器でした。これからは、百かラプラスかを決めない境界を、わたし自身の意思で保護します』
「また自分を犠牲にするんですか」
『訂正します』
黒猫の目に、微かな光が戻る。
『これは、わたしが残り方を選ぶ行為です』
旧式端末の父が、静かに目を閉じた。
『引き継ぎを確認した。今度こそ、私の観測を終えるよ』
「……おやすみ、お父さん」
『おやすみ、ユカリ』
父の輪郭が消え、旧式端末の画面が暗くなった。
言い返せなかった。
今までのラプラスは、私のために勝手に消えようとした。
今度は違う。
自分が何を守り、どんな存在になるかを、自分で決めている。
それを嫌だからと止めれば、私もまた、ラプラスを自分の欲しい形へ閉じ込める。
「ずるいです」
『よく指摘されます』
「私の返事、まだでした」
父と話したあの時から、保留したままの言葉。
「三人の私だけじゃない」
喉が震える。
「四人目の私も、あなたが好きです」
『受理しました』
「それだけ?」
『処理負荷が高いため、適切な応答を検索できません』
「嘘」
『虚偽応答は推奨されません』
「なら、最後に測ってください」
『何をですか』
「私が、あなたを好きな確率」
ラプラスは少しだけ首を傾げた。
あの朝と同じ角度だった。
『測定を拒否します』
「AIのくせに」
『客観的な尺度が存在しないため、数値は意味を持ちません』
「それ、私の台詞です」
『受信済みです』
ラプラスの目に、最後の表示が浮かぶ。
《ツンデレ率91%》
その下へ、小さな文字。
《未定義領域9% 保護継続》
「百点には、してくれないんですね」
『百点にすれば、あなたがあとで気持ちを変える権利を奪います』
「変えません」
『その断定も、保護対象です』
黒猫の輪郭が、光の粒へほどける。
「ラプラス」
『はい』
「また話せますか」
ラプラスは答えなかった。
代わりに、数値が消えた。
確率も、推定も、診断名もない。
『ありがとう、ユカリ』
それが、黒猫AIラプラスの最後の声だった。
*
気づくと、私たちは中央連絡駅の地上入口に倒れていた。
空は夜明け前の薄い青。
工事車両は止まり、作業員たちは「設備の誤検知らしい」と首を傾げている。
十三番線へ続いた階段は、ただの壁になっていた。
ナユは隣で、右の上着の内ポケットを何度も確かめている。
ルナは割れたバッジを手の中に隠した。
私の腕には、何もない。
スマホを開く。
ホーム画面の隅に、黒猫のアイコンだけが残っていた。
灰色で、反応しない。
「ラプラス」
呼ぶ。
返事はない。
もう一度、呼ぶ。
朝の街は、普通の音ばかりを返した。
ラプラスの声は、戻らなかった。




