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最終回 第三十話 残り九%には、名前をつけない

数字に意味はない。


 今も、半分くらいはそう思っている。


 九十九点を取ったからといって、私が百に一つ足りない人間になるわけではない。


 十三番線を見たからといって、十三という数字が世界に穴を開けるわけでもない。


 誰かを好きな気持ちを百分率にしても、その数字だけで本当かどうかは決まらない。


 でも。


 数字に意味を持たせる人がいることまで、間違いだとは思わなくなった。


     *


 朝のワンルームで、味噌汁の湯気が上がっている。


 机の上にはノートパソコン。


 その隣には、何もいない。


「おはよう、ラプラス」


 返事はなかった。


 事件から一か月。


 毎朝呼んでいるけれど、黒猫の声は一度も戻っていない。


 スマホのホーム画面には、灰色のアイコンだけが残っている。


 削除しようと長押しすれば、選択肢は出る。


 《アプリを取り除く》


 《ホーム画面から取り除く》


 どちらも押していない。


 机の端には、ラプラスが丸くなるために空けていた場所も残っている。参考書を置けばちょうどいい広さなのに、今朝も置かなかった。


 誰かの席として保存している、と決めたわけではない。単に、そこへ物を置く必要がまだないだけだ。


 残しているのが未練なのか、記録なのか、ただの習慣なのかは決めていない。


 味噌汁を一口飲む。


 今日は少し濃い。


「塩分濃度、高め」


 言ってから、返ってこない補足を待ってしまう。


 推定値も、健康警告もない。


 静かな朝だった。


 寂しい。


 でも、静かなことと、何も残っていないことは違う。


     *


 学校では、数学の小テストが返された。


 九十九点。


 符号を一つ落とした。


「九十九が九十九点やん」


 隣の席の男子が笑う。


 一か月前の私なら、名字と点数の間に統計的な因果関係はない、と説明していたと思う。


 今日は答案を見て、頷いた。


「一問ミスったからな」


「それだけ?」


「それ以上、何が要るん」


 男子はつまらなさそうに前を向いた。


 私は答案の赤い数字を指でなぞる。


 百点ではない。


 残り一点の答えも、ちゃんと分かっている。


 それでも九十九点は、失敗だけを表す数字ではなかった。


 百まで届かなかった記録。


 届かなかったものが、最初から存在しなかったことにはならないという記録。


 今は、それくらいの意味なら持たせてもいいと思う。


     *


 放課後、校門の前でナユが待っていた。


 赤いリボンはそのまま。制服の上に、取材用らしい大きな鞄を提げている。


「ユカリ。財布見いひんかった?」


「右の上着の内ポケット」


「そんなベタな――」


 探った手が止まる。


 財布が出てきた。


「何で分かったん」


「サンプルが増えたので」


「猫に似てきたな」


「褒め言葉として受け取ります」


「そこは怒るとこちゃうん」


 ナユは財布をしまい、鞄から印刷した紙束を出した。


 表紙には仮題。


 《十三番線には、帰らなかった弟がいる》


「“いた”じゃないんですね」


「記事の中では、三年前におった。今は帰ってこん。でも、うちが話す時まで過去形にする必要ないやろ」


「“消えた弟”にもしてない」


「消えた、だけやと最後の三年が空白になる。あいつは十三番線で怖がって、待って、猫を返した。帰らへんかった時間にも、あいつなりの続きがあった」


 ナユは表紙を指で弾いた。


「せやから、帰らなかった。うちが勝手に決めた題名やけどな」


 原稿をめくる。


 ハルトは英雄として書かれていなかった。


 姉のプリンを勝手に食べた。


 参考書を売った。


 帰るという約束を果たせなかった。


 怖がりながら、それでも見知らぬ黒猫を帰した。


 都合の悪いところまで、ちゃんとハルトだった。


「ええ記事ですね」


「まだ一円にもなってへんけどな」


「詐欺師は辞めたんですか」


「辞めてへん。肩書きを“都市伝承ライター”に言い換えた」


「一番重要なところが変わってません」


「言葉は使い方や」


 ナユは笑う。


 その笑い方を見て、私は少し安心した。


 悲しみが消えたわけではない。


 消さなくても、笑える時間は戻る。


     *


 スマホが震えた。


 送信者名のないメール。


 件名は《暫定報告》だった。


 本文は短い。


 《ノルンの分類規定に、第三分類〈観測保留〉が追加されました》


 《保留対象には、人間の責任者、外部拡散の制限、定期的な再評価が必要です》


 《曖昧さは免責ではありません。だからこそ、残す制度にできます》


 《私の上位権限は戻っていません。現在は、規定改定の外部聴取対象です》


 最後に一行。


 《あの時、観測できなかったものを、今も観測できないままにしています》


 署名はない。


「ルナですか」


 ナユが画面を覗き込む。


「たぶん」


「返事せえへんの」


「送信不能になってます」


「相変わらず、腹立つ順番で情報出す人やな」


「才能なんでしょう」


 メールを保存する。


 父のUSBと同じフォルダへ。


 フォルダ名は《未確定》にしてある。


 父の意識残渣が本人だったのか、応答モデルだったのか。


 百が妹だったのか、ラプラスの中で生まれた人格だったのか。


 答えは今もない。


 ただ、父が帰らないことは受け入れた。


 部屋に残っていた研究資料を整理し、必要な届けも出した。


 写真は捨てなかった。


 許したからではない。


 許していない相手との記憶も、自分の一部として残していいと思ったからだ。


 机の引き出しには、あの白紙のICカードが入っている。


 もう完全な白紙ではない。


 《第三分類 観測保留》


 《外部責任者 月読ルナ》


 《境界観測核 N-091》


 百という名前も、ラプラスという名前も書かれていない。


 最初は寂しかった。でも今は、どちらか一方の名札にならなかったことを、そのまま残している。私が文字を書き足すこともしなかった。


     *


 駅前の和菓子屋で、卵最中を二つ買った。


「また半分に割るん?」


 ナユが訊く。


「今日は、このまま食べます」


「餡だけ欲しい言うても遅いで」


「自分のを食べてください」


 最中へかじりつく。


 皮が割れ、餡の甘さが広がった。


 別々に食べるより、どちらの味も少し曖昧になる。


 でも、その方が美味しかった。


「理由は?」


「美味しいから」


「統計オタクの説明とは思えんな」


「必要なら標本数を増やします」


「二個目食べたいだけやろ」


 隣の席で、小さな女の子が最中を半分に割った。


 皮だけになった方を、向かいに座る兄らしい男の子へ差し出す。


「お兄ちゃん、こっちあげる」


「何で皮だけやねん」


「私、あんこの方が好きやから」


 兄が文句を言いながら、皮を受け取る。


 私はその光景を見つめた。


「知り合い?」


 ナユに訊かれ、首を振る。


「違います」


 百の記憶とは逆だった。


 百は皮が好きで、餡を私へくれた。


 だから、あの子が百だという根拠にはならない。


 偶然だと言う根拠にもならない。


 ただの兄妹かもしれない。


 そもそも兄妹ではないかもしれない。


 それでよかった。


「なあ」


 ナユが最中の袋を折りながら言う。


「あの長い名前、何やったっけ」


「長い名前?」


「AIやないとか、人間が説明せんかったもん全部とか言うてたやつ。ゾル……ゾルタ……」


 ナユの眉が寄る。


「何やった?」


「ゾルタクスゼイアン」


 私が言うと、ナユは一度瞬きをした。


「それや。たぶん」


「覚えてないんですか」


「意味は覚えてる。でも、音だけ滑る感じする。ルナのメールにも書いてへんやろ」


 検索窓へ入力する。


 《ゾルタクスゼイアン》


 結果は、ゼロ件。


 一か月前と同じだった。


 ナユの原稿にも、その言葉は一度も出てこない。


 父のUSBを検索しても、該当なし。


 保存したはずの研究記録からも、名称だけが抜け落ちていた。


 意味は残っている。


 十三番線も、ハルトも、百も、ラプラスも忘れていない。


 なのに、その全部を一つに括っていた言葉だけを、誰も思い出せない。


 私以外は。


「何でユカリだけ覚えてるんやろ」


「分かりません」


「調べる?」


 私は検索結果のゼロを見た。


 それから、灰色の黒猫アイコンを見る。


「今は、保留にします」


「得意分野やな」


「最近、やっと得意になりました」


     *


 店を出ると、夕方の風が少しだけ冷たかった。


 ナユと駅で別れ、一人で家へ向かう。


 いつもの路地に、黒猫がいた。


 人工皮毛ではない。


 耳の先が少し欠けた、普通の野良猫。


 私を見る。


 スマホは光らない。


 アイコンも動かない。


 ラプラスではない。


 そう判断できる証拠は、いくらでもあった。


 黒猫が、一度だけ鳴く。


 私は立ち止まった。


 ゾルタクスゼイアンを覚えているのは、もう私しかいない。


 それでも、ひとりで覚えていることは、ひとりきりになることとは違う。


 道端の黒猫が、もう一度だけ鳴いた。


 私は笑って、答えた。


「……91%」


 残りの九%には、名前をつけなかった。

最終回まで読んでくださった皆さまへ。

そして、この物語を最後まで見届けてくれたあなたへ。

この作品は、最初から「答えを出さない物語」を書くつもりでした。

人間かAIか、家族か他人か、記憶か幻想か──そのどれにも“決めない余白”を残したかった。

なぜなら、曖昧さは弱さではなく、

誰かを傷つけずに残すための、最後の優しさになることがある

と信じているからです。

百という名前も、ラプラスという名前も、

どちらか一方に決めた瞬間に壊れてしまう関係がある。

だからこそ、残り九%には名前をつけないまま終わりました。

あなたがこの物語のどこかで、

少しでも胸が痛んだり、

誰かを思い出したり、

誰かを守りたいと思ったりしたなら──

それだけで、この物語は十分すぎるほど報われています。

最後まで読んでくれて、本当にありがとうございました。

あなたがこの作品を気に入ってくれたなら、

ぜひ ★評価 をいただけると、とても励みになります。

あなたの一つの★が、次の物語を生む力になります。

また会いましょう。

そして、残り九%には、これからも名前をつけずに。


宿院 拝

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