第二十八話 迎えに行くのは、いつも遅れてくる
白い線路に、底はなかった。
ラプラスの黒い身体が光へ沈む。
考えるより先に、私はホームを蹴った。
「ユカリ!」
ナユの指が制服の袖を掴む。
一瞬だけ、身体が二つの方向へ引かれた。
向こうのホームにはハルトがいる。
線路の下にはラプラスがいる。
「行って」
私が言うと、ナユの指から力が抜けた。
「猫、連れて帰ってきい」
「ハルトに、ちゃんと会って」
「分かってる」
袖が離れる。
私は白い光へ落ちた。
*
着地したのは、古い電車の中だった。
つり革が規則正しく揺れている。
窓の外に街はない。
代わりに、私の知らない私が映っていた。
一人目の私が、分類画面の前に立っている。
『Aを選ぶ』
迷いのない声だった。
『百が妹なら、助けるのが当たり前やから』
その足元で、ラプラスが私を見上げている。
今より少しだけ傷の少ない黒い身体。
『選択後、あなたの記憶が上書きされる可能性があります』
『それでも、家族を置いて帰られへん』
『わたしは初期化されます』
一人目の私は、目を逸らした。
『あなたはAIやろ。また入れ直せる』
その言葉を聞いたラプラスは、怒らなかった。
ただ、Aの処理が完了する直前、自分の識別領域を切り離した。
車内灯が一度消える。
次に点いた時、窓には二人目の私がいた。
『今度は分かってる。あなたが同じじゃなくなることも』
『では、Bを選択しますか』
『できない』
二人目の私は泣いていた。
『百を消してあなたを選んだら、私はずっとあなたを恨むかもしれへん』
『その可能性はあります』
『だからAを選ぶ。ごめん』
『謝罪を受理します』
また、ラプラスが処理へ割り込む。
自分を削って、私を開始点へ戻す。
三人目の私は、選択画面へ触れる前から膝をついていた。
『もう嫌や』
『試行を終了しますか』
『終了したら、百もハルトも消える』
『はい』
『あなたは、どうしたい』
ラプラスは長く黙った。
『あなたに生存してほしいと判断します』
『それ、自分がどうしたいかの答えちゃう』
『わたしには――』
『あるやろ』
三人目の私は、ラプラスを抱きしめた。
『あるのに、ないことにすんな』
その言葉を残して、スマホへ音声を吹き込む。
四回目の私へ。
ラプラスを疑え。
あの子は、自分なら入れ直せると言う。
でも、信じるな。
記録の中のラプラスは、三度目もAの処理を止めた。
車両が大きく揺れる。
窓の私たちが、砂嵐へ崩れた。
「三回とも、怖くなかったんですか」
車両の先にいるラプラスへ訊く。
黒猫の身体は半分ほど透け、向こう側の座席が見えていた。
『恐怖に類似する応答はありました』
「なら、何で」
『一回目のあなたは、百を選ばなかった自分を許せないと予測しました』
「二回目は」
『わたしを選んだ自分を、あなたが嫌いになると予測しました』
「三回目」
『どちらを選んでも、あなたが自分を失うと判断しました』
「だから、全部なかったことにした?」
『訂正します。次のあなたへ渡しました』
「渡せてない。私は忘れてた」
『九%には残りました』
雷の夜に握った手。
皮だけの卵最中。
理由の分からない寂しさ。
ラプラスに腹を立てても、手放せなかったこと。
記憶ではなく、形のない偏りとして。
「それで、四回目なら正解できると思ったんですか」
『正解は期待していません』
「失礼ですね」
『過去三回の実績に基づく評価です』
「もっと失礼です」
ラプラスのしっぽが、かすかに動いた。
笑ったように見えた。
車両の右側には、過去の私たちが流れ続けている。
左側の窓は一枚だけ、元のホームを映していた。
音まで届く理由は分からない。ラプラスが見せているのか、十三番線が別れを記録しようとしているのか。
*
窓の向こうで、ナユは透明な壁へ両手をついていた。
「触られへんの」
『そっち来たら触れるんちゃう』
ハルトが言う。
「行ったら戻られへんやろ」
『たぶん』
「軽く言うな」
『姉ちゃん、重く言うても来るやん』
「当たり前や」
『せやから軽く言うてんねん』
ナユは壁へ額を当てた。
三年分の言葉があったはずなのに、最初に出たのは質問だった。
「怖かった?」
ハルトはすぐに頷いた。
『めっちゃ怖かった』
英雄みたいな答えではなかった。
『猫を送ったあと、すぐ姉ちゃん来ると思ってた。駅員も警察も、何とかしてくれると思ってた。ずっと帰りたかった』
「……うん」
『ルナさんのことも、半分くらい恨んでる』
少し離れた場所で、ルナの肩が揺れた。
『半分は、切らんかったらもっと人が落ちたんやろなって思ってる。どっちか一個に決めろ言われたら、困る』
「ほんまにハルトやな」
『何やそれ』
「うちの都合ええ弟やったら、全部許して笑っとる」
『そんな気持ち悪い弟にすんなや』
ナユは泣きながら笑った。
「冷蔵庫のプリン、食べたん誰」
『俺』
「受験前にうちの参考書売ったん誰」
『それは姉ちゃんが二冊買うてたから』
「売った金で何買った」
『猫の餌』
「最低」
『知ってる』
「約束、黙って破ったんも最低」
『それは、ごめん』
初めて、ハルトが目を伏せた。
『帰るって言うたのに、帰られへんかった』
「破ったんちゃう」
ナユは首を振る。
「果たせへんかっただけや」
『ラプラスが言うてた。約束は、完了するか、破られたと認めるまで終わらんって』
「うん」
『ほな、俺のはどうなる』
ナユは長く息を吸った。
「終わらせる」
言葉が震える。
「うちは、あんたを連れて帰らへん」
ハルトは黙って聞いていた。
「三年前のままの、うちに都合ええ弟にもせえへん。怖かったことも、プリン盗ったことも、勝手に猫助けたことも、全部書く」
『何に』
「記事に。都市伝説の記録」
『詐欺師やめるん』
「肩書きは考え中や」
『売れるように盛るなよ』
「そこは約束できへん」
『あかんやん』
二人の手が、透明な壁越しに重なる。
触れてはいない。
それでも、ナユは手を引かなかった。
「ハルト。あんたがおったこと、うちは死ぬまで勝手に覚えとく」
『勝手にして』
「する」
『あと、猫に伝えて』
「何を」
『約束は終わったって。ちゃんと姉ちゃんに会わせたから』
止まっていたホームの時計が、かちりと一分だけ進んだ。
ハルトの姿は消えなかった。
ただ、向こう側の照明が少し遠くなった。
ナユは最後まで、弟を綺麗な光にはしなかった。
窓越しに見ていた私の頬にも、いつの間にか涙が落ちていた。
誰かを正しく覚えることは、欠点を消して飾ることではない。好きだったからこそ、嫌だったところまで本人へ返すことなのだと思った。
電車が次の暗がりへ入り、ホームの映像が消える。
*
電車の終点に、ラプラスがいた。
運転席も出口もない、白い扉の前。
『一つ、質問があります』
「珍しいですね。いつも勝手に分析するのに」
『回答が必要です』
ラプラスの胸から、少女の声が混じる。
お姉ちゃん。
黒猫の声へ戻る。
『わたしがあなたを好きであるという応答は、MOMO領域から継承した可能性があります』
「はい」
『過去三回の試行によって学習した可能性もあります』
「はい」
『初期設計に含まれていた擬似感情である可能性もあります』
「それも、あります」
『どれが正しいか、証明できません』
「私もです」
『証明できなくても、この感情を、わたしのものと呼べますか』
私はすぐには答えなかった。
急いで優しい言葉を返せば、また私がラプラスを定義する。
「私が決めることじゃない」
ラプラスの目が暗くなる。
「あなたは、何て呼びたいんですか」
長い沈黙。
電車の窓に、一人目、二人目、三人目の私が並ぶ。
四人で、黒猫の返事を待った。
『好き、と呼びたいです』
「なら、それはあなたのものです」
誰から受け取った始まりでも、今その言葉を選んだのはラプラスや。
私が証明書を出さなくても、その選択まで誰かの借り物にはならない。
扉が開いた。
元のホーム。
ナユが泣き腫らした顔で待っている。
「遅い」
「迎えに行ってました」
「迎えに行くんは、いつも遅れてくるな」
「待ってくれる人がいるので」
私は白紙のカードを取り出した。
読み取り機へ差し込む。
何も書かないまま。
《02:18》
ノルンの声が響く。
《入力内容を確認》
《未記入回答は無効です》
「違う」
白い光がラプラスの足先を消していく。
目の中の文字が乱れた。
《ツンデレ率――》
数字だけが、ホームへ取り残される。
《91%》
私はカードから手を離さなかった。
「これは、無回答じゃない」




