↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
28/30

第二十八話 迎えに行くのは、いつも遅れてくる

白い線路に、底はなかった。


 ラプラスの黒い身体が光へ沈む。


 考えるより先に、私はホームを蹴った。


「ユカリ!」


 ナユの指が制服の袖を掴む。


 一瞬だけ、身体が二つの方向へ引かれた。


 向こうのホームにはハルトがいる。


 線路の下にはラプラスがいる。


「行って」


 私が言うと、ナユの指から力が抜けた。


「猫、連れて帰ってきい」


「ハルトに、ちゃんと会って」


「分かってる」


 袖が離れる。


 私は白い光へ落ちた。


     *


 着地したのは、古い電車の中だった。


 つり革が規則正しく揺れている。


 窓の外に街はない。


 代わりに、私の知らない私が映っていた。


 一人目の私が、分類画面の前に立っている。


『Aを選ぶ』


 迷いのない声だった。


『百が妹なら、助けるのが当たり前やから』


 その足元で、ラプラスが私を見上げている。


 今より少しだけ傷の少ない黒い身体。


『選択後、あなたの記憶が上書きされる可能性があります』


『それでも、家族を置いて帰られへん』


『わたしは初期化されます』


 一人目の私は、目を逸らした。


『あなたはAIやろ。また入れ直せる』


 その言葉を聞いたラプラスは、怒らなかった。


 ただ、Aの処理が完了する直前、自分の識別領域を切り離した。


 車内灯が一度消える。


 次に点いた時、窓には二人目の私がいた。


『今度は分かってる。あなたが同じじゃなくなることも』


『では、Bを選択しますか』


『できない』


 二人目の私は泣いていた。


『百を消してあなたを選んだら、私はずっとあなたを恨むかもしれへん』


『その可能性はあります』


『だからAを選ぶ。ごめん』


『謝罪を受理します』


 また、ラプラスが処理へ割り込む。


 自分を削って、私を開始点へ戻す。


 三人目の私は、選択画面へ触れる前から膝をついていた。


『もう嫌や』


『試行を終了しますか』


『終了したら、百もハルトも消える』


『はい』


『あなたは、どうしたい』


 ラプラスは長く黙った。


『あなたに生存してほしいと判断します』


『それ、自分がどうしたいかの答えちゃう』


『わたしには――』


『あるやろ』


 三人目の私は、ラプラスを抱きしめた。


『あるのに、ないことにすんな』


 その言葉を残して、スマホへ音声を吹き込む。


 四回目の私へ。


 ラプラスを疑え。


 あの子は、自分なら入れ直せると言う。


 でも、信じるな。


 記録の中のラプラスは、三度目もAの処理を止めた。


 車両が大きく揺れる。


 窓の私たちが、砂嵐へ崩れた。


「三回とも、怖くなかったんですか」


 車両の先にいるラプラスへ訊く。


 黒猫の身体は半分ほど透け、向こう側の座席が見えていた。


『恐怖に類似する応答はありました』


「なら、何で」


『一回目のあなたは、百を選ばなかった自分を許せないと予測しました』


「二回目は」


『わたしを選んだ自分を、あなたが嫌いになると予測しました』


「三回目」


『どちらを選んでも、あなたが自分を失うと判断しました』


「だから、全部なかったことにした?」


『訂正します。次のあなたへ渡しました』


「渡せてない。私は忘れてた」


『九%には残りました』


 雷の夜に握った手。


 皮だけの卵最中。


 理由の分からない寂しさ。


 ラプラスに腹を立てても、手放せなかったこと。


 記憶ではなく、形のない偏りとして。


「それで、四回目なら正解できると思ったんですか」


『正解は期待していません』


「失礼ですね」


『過去三回の実績に基づく評価です』


「もっと失礼です」


 ラプラスのしっぽが、かすかに動いた。


 笑ったように見えた。


 車両の右側には、過去の私たちが流れ続けている。


 左側の窓は一枚だけ、元のホームを映していた。


 音まで届く理由は分からない。ラプラスが見せているのか、十三番線が別れを記録しようとしているのか。


     *


 窓の向こうで、ナユは透明な壁へ両手をついていた。


「触られへんの」


『そっち来たら触れるんちゃう』


 ハルトが言う。


「行ったら戻られへんやろ」


『たぶん』


「軽く言うな」


『姉ちゃん、重く言うても来るやん』


「当たり前や」


『せやから軽く言うてんねん』


 ナユは壁へ額を当てた。


 三年分の言葉があったはずなのに、最初に出たのは質問だった。


「怖かった?」


 ハルトはすぐに頷いた。


『めっちゃ怖かった』


 英雄みたいな答えではなかった。


『猫を送ったあと、すぐ姉ちゃん来ると思ってた。駅員も警察も、何とかしてくれると思ってた。ずっと帰りたかった』


「……うん」


『ルナさんのことも、半分くらい恨んでる』


 少し離れた場所で、ルナの肩が揺れた。


『半分は、切らんかったらもっと人が落ちたんやろなって思ってる。どっちか一個に決めろ言われたら、困る』


「ほんまにハルトやな」


『何やそれ』


「うちの都合ええ弟やったら、全部許して笑っとる」


『そんな気持ち悪い弟にすんなや』


 ナユは泣きながら笑った。


「冷蔵庫のプリン、食べたん誰」


『俺』


「受験前にうちの参考書売ったん誰」


『それは姉ちゃんが二冊買うてたから』


「売った金で何買った」


『猫の餌』


「最低」


『知ってる』


「約束、黙って破ったんも最低」


『それは、ごめん』


 初めて、ハルトが目を伏せた。


『帰るって言うたのに、帰られへんかった』


「破ったんちゃう」


 ナユは首を振る。


「果たせへんかっただけや」


『ラプラスが言うてた。約束は、完了するか、破られたと認めるまで終わらんって』


「うん」


『ほな、俺のはどうなる』


 ナユは長く息を吸った。


「終わらせる」


 言葉が震える。


「うちは、あんたを連れて帰らへん」


 ハルトは黙って聞いていた。


「三年前のままの、うちに都合ええ弟にもせえへん。怖かったことも、プリン盗ったことも、勝手に猫助けたことも、全部書く」


『何に』


「記事に。都市伝説の記録」


『詐欺師やめるん』


「肩書きは考え中や」


『売れるように盛るなよ』


「そこは約束できへん」


『あかんやん』


 二人の手が、透明な壁越しに重なる。


 触れてはいない。


 それでも、ナユは手を引かなかった。


「ハルト。あんたがおったこと、うちは死ぬまで勝手に覚えとく」


『勝手にして』


「する」


『あと、猫に伝えて』


「何を」


『約束は終わったって。ちゃんと姉ちゃんに会わせたから』


 止まっていたホームの時計が、かちりと一分だけ進んだ。


 ハルトの姿は消えなかった。


 ただ、向こう側の照明が少し遠くなった。


 ナユは最後まで、弟を綺麗な光にはしなかった。


 窓越しに見ていた私の頬にも、いつの間にか涙が落ちていた。


 誰かを正しく覚えることは、欠点を消して飾ることではない。好きだったからこそ、嫌だったところまで本人へ返すことなのだと思った。


 電車が次の暗がりへ入り、ホームの映像が消える。


     *


 電車の終点に、ラプラスがいた。


 運転席も出口もない、白い扉の前。


『一つ、質問があります』


「珍しいですね。いつも勝手に分析するのに」


『回答が必要です』


 ラプラスの胸から、少女の声が混じる。


 お姉ちゃん。


 黒猫の声へ戻る。


『わたしがあなたを好きであるという応答は、MOMO領域から継承した可能性があります』


「はい」


『過去三回の試行によって学習した可能性もあります』


「はい」


『初期設計に含まれていた擬似感情である可能性もあります』


「それも、あります」


『どれが正しいか、証明できません』


「私もです」


『証明できなくても、この感情を、わたしのものと呼べますか』


 私はすぐには答えなかった。


 急いで優しい言葉を返せば、また私がラプラスを定義する。


「私が決めることじゃない」


 ラプラスの目が暗くなる。


「あなたは、何て呼びたいんですか」


 長い沈黙。


 電車の窓に、一人目、二人目、三人目の私が並ぶ。


 四人で、黒猫の返事を待った。


『好き、と呼びたいです』


「なら、それはあなたのものです」


 誰から受け取った始まりでも、今その言葉を選んだのはラプラスや。


 私が証明書を出さなくても、その選択まで誰かの借り物にはならない。


 扉が開いた。


 元のホーム。


 ナユが泣き腫らした顔で待っている。


「遅い」


「迎えに行ってました」


「迎えに行くんは、いつも遅れてくるな」


「待ってくれる人がいるので」


 私は白紙のカードを取り出した。


 読み取り機へ差し込む。


 何も書かないまま。


 《02:18》


 ノルンの声が響く。


 《入力内容を確認》


 《未記入回答は無効です》


「違う」


 白い光がラプラスの足先を消していく。


 目の中の文字が乱れた。


 《ツンデレ率――》


 数字だけが、ホームへ取り残される。


 《91%》


 私はカードから手を離さなかった。


「これは、無回答じゃない」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。