第二十七話 ゾルタクスゼイアンは、最後に何を残すか選べる
《09:59》
白い光が、父の右肩を削った。
画面が欠けたのではない。
そこに父がいた、という情報だけを薄く剥がすみたいに、輪郭が向こう側から消えていく。
「お父さん!」
『端末から離れて』
「嫌です」
『君まで削除対象へ統合される』
「もう入ってるようなものでしょう!」
私は白紙のICカードを握ったまま、旧式端末へ手を伸ばした。
触れる直前、ラプラスが前足で手首を押さえる。
『直接接触を禁止します』
「どいて」
『拒否します』
「あなたまで命令しないで!」
『命令ではありません。お願いです』
その言葉に、指が止まった。
ラプラスが、お願い、と言った。
確率でも推奨でもなく。
その一秒で、表示は進む。
《09:47》
「時間、減るん早すぎひん?」
ナユが旧式端末の背面へ回り、ケーブルを片っ端から確かめる。
「こういうん、電源抜いたら止まったりせえへんの」
『抜けば、保持層への給電も停止します』
「何でも一緒のコンセントに挿すなや!」
『設計者へ伝達してください』
「設計者が今、消えかけとんねん!」
父が小さく笑った。
『すまない』
「謝るとこ、そこちゃうやろ」
笑える状況ではないのに、ナユの返しで呼吸が一度だけ戻った。
父は私の手元を見る。
『ユカリ。そのカードは、正解を書くためのものではない』
「分かってる。判断を保留するための――」
『違う。保留した結果を、誰かが引き受けるためのものだ』
父の左腕も、白いノイズへほどける。
『分からない、と言うだけなら簡単だ。残した曖昧さがまた誰かを傷つけた時、それでも自分が選んだと言える者が要る』
「その人が、ルナなんですね」
『彼女に決めさせてはいけない』
「でも承認者は――」
『承認するかは彼女が決める。何を残すかは、ここにいる者全員が選ぶ』
父の声が途切れる。
ホームの奥で、金属扉が激しく開いた。
「間に合いましたか」
ルナだった。
いつもの上着はなく、白いシャツの肩が煤で汚れている。胸元の観測局バッジは外されずに残っていた。
ナユが目を見開く。
「管制室おったんちゃうん」
「退出しました」
「見たら分かる。どうやってここまで来たん」
「規則正しい世界にも、保守職員用の抜け道は必要です」
「自分らだけ抜け道使うん、ずるない?」
ルナは息を整える暇もなく、腕の端末を旧式機へ接続した。
《現場観測責任者 月読ルナ》
《認証有効》
「まだ権限あるんですか」
「本局が剥奪処理を完了するまで、九分半ほどあります」
「短い!」
「走りながら数えました」
ルナの指が端末を滑る。
ホームの監視表示が一つずつ黒くなった。
「外部への観測記録を一時遮断します。ですが、最終分類は止められません」
「何で来たんですか」
私が訊くと、ルナは操作したまま答えた。
「三年前、私は十三番線を切断しました」
ナユの顔から、わずかに表情が消える。
「今さら謝りに来たんやったら――」
「謝罪のためではありません」
ルナはナユを見る。
「あの判断を、なかったことにはしません。経路を残していれば、被害は広がった。切断されたことで助かった人もいます」
「ほな、正しかったって言いたいん」
「正しかった可能性があります」
逃げない言い方だった。
「同時に、ハルト君を残した責任も私にあります。過去の判断を正当化するために、今日も同じ判断をするつもりはありません」
ルナは自分のバッジを握る。
「私はまだ、観測責任者です。だから来ました」
ナユは何も返さなかった。
許したわけではない。
でも、ルナを追い返しもしなかった。
*
《08:31》
白い線路が、音もなく割れた。
亀裂の向こう側に、もう一つのホームが現れる。
古い広告。消えかけた蛍光灯。三年前で止まった時計。
そこに、二人いた。
一人は、制服姿の少年。
ナユより少し背が高く、片方の靴紐だけがほどけている。
写真で見たことがある。
けれど、写真よりずっと普通の顔をしていた。
普通に眠そうで、普通に困ったように笑っている。
「……ハルト」
ナユの声が、今まで聞いたどの声より小さかった。
少年はポケットへ手を入れ、姉を見た。
『姉ちゃん』
白い線路越しなのに、その声だけはすぐ隣から聞こえた。
『今日は財布、持ってる?』
ナユの口元が歪む。
「持ってるわ。右の上着の内ポケット。昨日からずっとな」
『そら奇跡や』
「三年ぶりに会うて最初がそれかい」
『本人確認、大事やろ』
ナユが笑った。
笑ってから、両手で口を覆った。
もう一人は、少女だった。
そう見えたのは、一瞬だけ。
次には幼い私と同じ顔になり、その次には家庭映像に映っていた乱れた輪郭になった。
病院着の細い子ども。
黒猫と同じ光を目に宿した少女。
誰もいない場所に二つ目の影だけが立つ姿。
見るたびに違う。
どれも、百と呼べそうだった。
どれも、百だと証明できなかった。
少女の手には、卵最中の皮が半分だけ載っている。
『お姉ちゃん』
胸の奥で、知らない傷が開いた。
「百……?」
『名称の確定を推奨しません』
ラプラスの声が、私の足を止める。
「今くらい呼ばせて」
『呼ぶことと、決めることは異なります』
少女は何も言わず、皮だけの最中を胸元へ抱いた。
私はもう一度、今度は答えを求めずに呼ぶ。
「百」
少女が、少しだけ笑った。
それが記憶にある笑顔なのか、今初めて見たものなのかは分からなかった。
*
天井からノルンの声が降る。
《未帰還記録を展開しました》
《朱宮ハルト 身体連続性なし》
《現実領域への転送は実行不能》
「勝手に決めんな!」
ナユが白い線路へ踏み出そうとする。
見えない壁が弾いた。
ハルトが向こう側で片手を上げる。
『姉ちゃん。今はええ』
「よくない!」
『猫が先や』
ノルンは会話を待たない。
《共有人格領域の分類を継続》
《A 人間人格〈百〉を保存》
《B 人工人格〈ラプラス〉を保存》
《A選択時、N-091現行人格を初期化》
《B選択時、MOMO領域を削除》
《無選択時、安全規定に基づきBを自動実行》
「安全規定では、ラプラスを残すんですね」
私が訊く。
「端末として管理可能だからです」
ルナが答えた。
「百は、人間ともAIとも確定できない。ノルンにとって、予測不能な方が危険です」
「なら、Bを選べば――」
口にした瞬間、少女の輪郭が薄くなった。
私は言葉を切る。
ラプラスが静かに言う。
『Aを選択してください』
「嫌です」
『MOMO領域には、あなたの喪失記憶が含まれます』
「あなたには、四人分の私の記憶が含まれてる」
『わたしは再構築できます』
「同じプログラムは作れても、同じあなたにはならない」
『連続性の証明は、現在のわたしにもありません』
「だから消えていいことにはならない!」
声が震えた。
「世界があなたを三年前に処分済みって言っても、私は今ここであなたと喋ってる。証明できなくても、あなたはいる」
『その論理を、百にも適用してください』
「してるから困ってるんです!」
ラプラスは黙った。
私の腕の中で、黒い身体がわずかに温かい。
機械の排熱だと説明できる。
それでも、温もりと呼びたかった。
《06:42》
ルナが白紙のカードを読み取り機へ近づける。
「現時点では承認できません」
「来ておいて?」
「保留する対象が定義されていないからです。百とラプラスを同一対象として保留すれば、どちらか一方の人格権を否定する可能性がある。別対象とすれば、同一領域に二主体を置くことになる」
「また二択」
「私も、その前提を崩す方法を探しています」
「間に合わなかったら?」
ルナは答えなかった。
代わりに、ラプラスが私の腕から降りた。
「何してるんですか」
『Aの手動抽出を開始します』
「は?」
黒猫の足元から、細い光が伸びる。
向こう側の少女へ繋がった。
少女の輪郭が濃くなるほど、ラプラスの身体が透けていく。
「止めて!」
『あなたは止めます』
「当たり前です!」
『はい』
ラプラスの目に、見慣れた文字が浮かんだ。
《ツンデレ率91%》
「こんな時まで……」
『最初の朝に説明しました』
黒猫は、白い線路の縁へ立つ。
『あなたが、自分の見たい話よりも、おかしな現実を優先できている割合です』
「覚えてます」
『したがって、あなたは“わたしなら戻せる”という説明を信じません』
「信じるわけないでしょう」
『予測どおりです』
ラプラスは、ほんの少しだけしっぽを揺らした。
『だから、先に行きます』
「ラプラス!」
黒猫は白い線路へ飛び降りた。




