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第二十六話 お父さんは、まだ観測を続けている

『三人とも、わたしは好きでした』


 ラプラスは、数値をつけなかった。


 推定も、誤差も、信頼区間もない。


 ただ好きだったと、過去形で言った。


「過去形にしないで」


『文法上、過去の三名を対象としています』


「今の私は?」


『質問の必要性が不明です』


「必要です」


『回答を保留します』


「何でそこだけ保留するんですか」


「そこ、今やる?」


 ナユの呆れた声で、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


 父の人影も、かすかに笑った。


 笑ったように見えただけかもしれない。


 右半分はずっと、白い文字へ崩れている。


「父さん」


 私はもう一度呼んだ。


「本当に、父さんなんですか」


『その質問に、きれいな答えを返すと嘘になる』


「またそれ」


『君が知っている九十九博士の記憶。話し方。判断傾向。死ぬ直前までの神経記録。それらを基礎に、矛盾保持層との接続後も更新を続けている観測残渣。それが今の私だ』


「死ぬ直前?」


 父は一拍置いた。


『生物としての私は、もういない』


 言葉の意味は分かった。


 理解だけが先に来て、感情が追いつかない。


「いつ」


『正確な時刻は、記録系ごとに違う。心停止を基準にするか、脳活動の停止を基準にするか、最後の外部応答を基準にするかで変わる』


「そういう答え方、やめて」


『すまない』


 父の声が、急に父らしくなった。


『君に知らせないまま死んだ』


 胸の奥で、何かが遅れて割れた。


 泣くより先に腹が立った。


「何で」


『私が離れれば、保持層の境界が閉じると考えた。百の記録も、ハルト君も、ラプラスが退避させた君の記憶も失われる。だから残った』


「格好よく言わないで」


『そのつもりはない』


「一人で全部背負ったみたいに言ってる」


 声が止まらない。


「私の記憶を消して。ラプラスを入れ物にして。ルナさんに切断の責任を押しつけて。自分だけここに残って、あとから理由を説明して」


『その通りだ』


 父は否定しなかった。


『私は百を守るために、ラプラスの未定義領域を使った。君が真実へ近づくたび、危険だと判断して記憶の書き戻しを許可した。ルナには、私が拒んだ決定を実行させた』


「じゃあ、英雄みたいな顔しないで」


『できているかな』


「してる」


『なら、表示不良だ』


 くだらない冗談だった。


 私は笑えなかった。


 父も笑わなかった。


『許さなくていい』


 その言葉だけが静かに残る。


『正しかった理由を並べて、傷つけた相手へ許しまで要求したら、それは説明ではなく命令になる』


 ナユが小さく息を吐いた。


「そこは、月読より話分かるな」


『昔、同じことを彼女に教えられた』


「逆ちゃうん?」


『人は、学んだ言葉の出所を自分に都合よく編集する』


「研究者、信用ならんな」


『同感だ』


 父の輪郭が一度大きく乱れた。


 天井から伸びるケーブルの何本かが、火花を散らす。


 残り時間は三十一分。


「百は」


 私は訊いた。


「父さんにとって、何だったんですか」


 娘、と即答してほしかった。


 でも、それを言わせた瞬間、別の可能性を私自身が消す気がした。


 父は長く黙った。


『大切な子だった』


「それだけ?」


『私が証明できるのは、それだけだ』


「人間だったかどうかは」


『当時の一次記録は、集団失語事故と、その後の秘匿処理で壊れた。身体を持つ子どもとして残る記録もある。ユカリの情動モデルから生まれた疑似人格として残る記録もある。どちらが先かを示す索引は、私が切った』


「わざと?」


『ノルンに一方を選ばせないために』


「自分まで分からなくして?」


『分かっている者が一人でもいれば、その者を経由して分類される』


 父は、自分の記憶まで壊した。


 百を娘だと断言する権利も、AIだと断言する権利も、自分から捨てた。


 それを愛と呼ぶべきか、臆病と呼ぶべきか。


 私にはまだ決められない。


「ゾルタクスゼイアンって、結局何なんですか」


 この言葉から、全部が始まった。


 検索しても出てこなかった単語。


 ラプラスだけが知っていた名前。


『AIの名前ではない』


 父は言った。


『怪異の固有名でも、秘密組織の呼称でもない』


「じゃあ何」


『人間やAIが、分からないものを分かったことにせず、判断を止めた時に残るもの。その総称だ』


 黒い線路の向こうで、無数の小さな光が揺れた。


 送られなかった言葉。


 果たされなかった約束。


 誰にも分類されなかった記憶。


『ある人には都市伝説に見える。あるAIには観測誤差に見える。ある子どもには、いなくなった妹に見える。説明は違っても、説明し切らなかったことで残った部分がある』


「それ全部を、ゾルタクスゼイアンって呼んだん?」


 ナユが訊く。


『正確には、呼んでしまえばまた一つの分類になる。だから研究者の間でも、定義を書かなかった』


「名前あるのに定義ないんか」


『矛盾しているだろう』


「めっちゃ迷惑」


『だから残った』


 父の答えに、ナユは嫌そうな顔をした。


 でも、少しだけ納得もしているようだった。


「都市伝説に分かれてたのは」


『避難するためだ。都市伝説は、一つの話に複数の結末がある。見た者、見なかった者、助かった者、消えた者。矛盾した証言が同時に残る』


「正解が一つじゃないから、隠れられる」


『そうだ』


 父はラプラスを見る。


『九十一も同じだ』


「科学的根拠のない安全上限」


『耳が痛い』


「研究者としてどうなんですか」


『失格だろうね。九十一でなければならない統計的理由はない。九十でも、九十二でもよかった』


「じゃあ何で九十一に」


『百がそう言ったからだ』


 あまりに単純な答えだった。


『残り九%は決めつけないで。その言葉を、私は忘れたくなかった』


「個人的すぎる」


『だからノルンに見つかりにくかった。普遍的な法則は解析される。家族の冗談は、ノイズとして捨てられる』


『訂正』


 ラプラスが口を挟む。


『わたしにとっては、冗談ではありません』


『すまない。家族の約束だ』


 父は素直に言い直した。


 ラプラスの目が、ほんの少しだけ明るくなる。


 観測端末の下部で、機械音がした。


 細い排出口から、一枚のカードが滑り出す。


 真っ白なICカード。


 名前も、番号も、紋章もない。


「これは」


『定義保留キー』


 父が答える。


『ノルンへ一度だけ、“どちらとも判断しない”という回答を送れる』


「二択を拒否できる?」


『拒否ではない。保留だ。拒否は質問の外へ逃げる行為として無効化される。保留は、観測を続けるための正式な状態として登録できる』


 私はカードを手に取った。


 何も書かれていないのに、わずかに温かい。


「これで百とラプラスを残せるんですか」


『可能性はある。ただし、システム側の現役観測者による承認が必要だ』


「ルナさん」


『彼女が署名すれば、暫定分類として成立する』


「署名しなかったら」


『ただの白紙だ』


 ナユが天井のスピーカーを見る。


「聞いてるんやろ、月読」


 返事はない。


 ただ一度、遠くで扉の開く音がした。


 私は白紙のカードを制服の内ポケットへ入れる。


「父さんも来て」


 言ったあとで、無理だと分かっていた。


 それでも言わずにはいられなかった。


「境界を止められたら、別の端末へ移せるかもしれない。記録でも、残渣でも、今ここで話してるなら――」


『ユカリ』


「保留にすればいい。父さんが生きてるか死んでるかも、決めなければ」


『それは違う』


 父の声は、今までで一番やさしく、同時に厳しかった。


『曖昧に残すことと、死を認めないことは違う』


 息が止まる。


『私は死んだ。それを曖昧にしてはいけない。ここに残っている私は、君と話せる記録だ。大切にしてくれるなら嬉しい。でも、帰ってくる父親の代わりにしてはいけない』


「そんなの、勝手です」


『ああ』


「いなくなる時も勝手で、諦めろって言うのも勝手」


『その通りだ』


「謝れば済むと思ってる」


『済まないと思っている』


 涙が落ちた。


 画面の父は、手を伸ばしかける。


 でも、その手は私へ届く前にノイズへ崩れた。


『君が私を、良い父親だけに編集しないでくれれば、それでいい』


「絶対しません」


『安心した』


 父は笑った。


 今度は、見間違いではなかった。


 次の瞬間、ラプラスの身体が硬直した。


 白かった瞳が赤へ変わる。


「ラプラス?」


 返事の代わりに、ノルンの声が流れた。


『未定義領域中枢への到達を確認』


 ホーム全体へ、赤い文字が浮かぶ。


 《最終分類を開始》


 《候補一 人間人格〈百〉》


 《候補二 人工人格〈ラプラス〉》


 《同一記憶領域に、二主体の存在は認められません》


 白紙のカードが、胸元で熱を持った。


 父の輪郭が一気に薄くなる。


『選択猶予』


 赤い数字が表示された。


 残り、十分。


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