第二十五話 規則正しい世界に、抜け道は要らないらしい
監視システムがラプラスを数えなかった。
それは恐ろしいことのはずだった。
「ほな、猫は手荷物扱いやな」
ナユは一秒で悪用した。
『手荷物への分類を拒否します』
「処分済み端末に拒否権あるん?」
『あります』
「元気そうで何より」
正面入口では、警備員が増え始めた野次馬を押し戻していた。
「十三番線ってここですか」
「黒猫を見たら開くって聞いたんですけど」
「地下三階やろ。動画で見た」
「いや、地下四階の男子トイレの奥らしいで」
ナユが撒いた噂に引かれた人たちだ。
全員が別の答えを持ち、全員が自分の答えだけは本物だと思っている。
警備側の端末が、入場者の誘導先を何度も書き換えていた。
《北側へ誘導》
《訂正 南側へ誘導》
《黒色動物の目撃報告を優先》
《訂正 動物情報は虚偽として除外》
「人増やしすぎでは」
「うちらが二人で突っ込むより安全や。向こうも一般人の前では派手なことできへん」
「巻き込んでます」
「危ない場所までは入れへんようにしてる。噂の続きに“黄色い線を越えたら入口が消える”も混ぜた」
見ると、野次馬は全員、規制線の直前で不自然なくらい足を止めている。
『行動誘導としては、ノルンと同種です』
「目的が違う」
『手段が同じである点を指摘しています』
「今それ言う?」
「言われるうちに覚えといた方がええ」
ナユは苦い顔で答えた。
「人を助ける側のつもりになった瞬間が、一番雑になるからな」
その言葉だけは、詐欺師の軽口ではなかった。
警備員が群衆へ向いた隙に、私たちは資材搬入口の陰へ滑り込む。
扉の横には顔認証機。
私とナユの顔が赤枠で囲まれた。
ラプラスには枠すら出ない。
『侵入者二名を検出』
「一名足りてへんで」
『訂正を要求しないでください』
「自分だけ見つからんの寂しい?」
『質問の意図が不明です』
少し間があった。
『回答は保留します』
今までなら、即座に否定していた。
私はラプラスを抱く腕へ、少しだけ力を込めた。
顔認証機の警告が鳴る直前、駅の案内放送が割り込んだ。
『十三番線へお越しの方は、地下三階へ――』
別の声が重なる。
『訂正します。十三番線は存在しません』
さらに別の声。
『黒猫をお連れの方のみ、左の扉をご利用ください』
認証機の画面が一瞬だけ砂嵐になった。
ナユが細い工具を扉の隙間へ差し込む。
「左、言うたな」
「放送を信用するんですか」
「都市伝説は、信じるんやなくて使うもんや」
扉が開いた。
*
サービス通路へ入った瞬間、外の騒ぎが嘘みたいに遠くなった。
白い壁。
等間隔の蛍光灯。
床には黄色い誘導線が一本。
「規則正しすぎて気持ち悪いな」
「駅の裏側なんて、こんなものでは」
『十七メートル先を右です』
ラプラスが言う。
十七メートル進む。
『訂正。左です』
「さっき右って」
『十三番線の推定位置が更新されました』
「都市伝説でナビすな」
『現在、通常地図に目的地が存在しません』
仕方なく左へ曲がる。
そこには《地下三階》と書かれた階段があった。
一段下りると、壁の表示が《地下四階》へ変わる。
もう一段下りる。
《地下二階》
「階段、数字苦手なん?」
「私に聞かないでください」
『観測地点ごとに階層定義が異なります』
「簡単に」
『みんな違う階だと思っています』
「最初からそう言えや」
階段の途中で、上からドローンの羽音が近づいた。
『侵入者二名。地下三階東区画へ移動』
音声が告げる。
直後、別の端末が反論した。
『該当区画は地下四階です』
『訂正。東区画は封鎖済みです』
『黒猫目撃地点を優先してください』
『黒猫は処分済みです』
ドローンは階段の踊り場で一度停止し、どちらへ進むべきか迷うように回転した。
ナユが手招きする。
「今や」
私たちは手すりの裏にある細い点検扉へ飛び込んだ。
背後で警告音。
暗い通路を走る。
突き当たりには、鋼鉄製の非常扉があった。
認証ランプは赤。
扉の上のカメラが私たちを捉える。
壁面モニタに、観測局の管制室が一瞬だけ映った。
中央にルナが立っている。
周囲の職員が慌ただしく端末を操作する中、彼女だけがこちらを見ていた。
目が合う。
ルナの右手は、非常扉の閉鎖ボタンの上にあった。
押せば終わる。
彼女は手を下ろした。
代わりに、隣の監視画面へ視線を移す。
認証ランプが赤から緑へ変わった。
モニタはすぐに消える。
「理由、考えすぎんなって言うてたな」
ナユが扉を押す。
「観測誤差です」
「本人みたいな言い訳すな」
扉の向こうには、使われていない駅員用通路が続いていた。
ルナが開けたのは一枚だけ。
その先の隔壁は、銀色のキーを要求している。
私は鍵穴へ、古いセキュリティキーを差し込んだ。
《旧観測者権限を確認》
《一回限りの迂回認証を実行》
金属の内側で、何かが焼き切れる音がする。
扉がゆっくり開いた。
引き抜いたキーは、表面の紋章が消え、ただの銀色の板になっていた。
「ほんまに一回やったな」
「戻る時は?」
『別経路の探索を推奨します』
「先に言って」
『今、確定しました』
「猫まで月読化してへん?」
『不本意です』
扉の先には、駅があった。
営業を終えた駅ではない。
最初から時刻表に載らなかった駅。
白いタイルのホーム。
線路の代わりに、黒い水のようなものが揺れている。
案内板には《十三》とだけ表示され、その横で時刻が逆向きに減っていた。
残り四十二分。
「入口が七つに増えたせいで、時間も分かれ始めています」
ルナの声が、どこかのスピーカーから聞こえた。
「この経路が閉じるまで四十二分。地上の工事開始までは五十一分。保持層の内部時間は不明です」
「同行はせえへんの?」
「今はできません」
「今は?」
返事はなかった。
ホームの端に、古い改札機が一台だけ立っている。
ラプラスが近づくと、投入口から白い切符が出てきた。
行き先は空欄。
私が手に取った瞬間、黒い水の上へ細い通路が現れる。
向こう側に、薄暗い部屋が見えた。
*
部屋の中央には、旧式の観測端末があった。
病院の生命維持装置と、駅の券売機を無理に繋いだような形。
無数のケーブルが天井と床へ伸びている。
その前に、人が立っていた。
白衣。
少し猫背の肩。
眼鏡を押し上げる癖。
「父さん」
呼ぶと、人影がこちらを向いた。
顔の左半分は、確かに父だった。
右半分は、細かい白い文字とノイズでできている。
『よく来たね』
声も半分だけ機械音だった。
『四回目は、ずいぶん遠くまで来た』
私は足を止める。
「本当に、お父さん?」
『その質問には、順番に答えよう』
「順番を勝手に決めないでください」
『君は昔から、冗談へ厳しいな』
それだけで、胸の奥が痛んだ。
父はよく、説明の途中にくだらない冗談を挟んだ。
私が真顔で訂正すると、嬉しそうに笑った。
今の声にも、その癖だけは残っている。
『先に、君が忘れたものを返す』
父が端末へ触れる。
空中に三つの画面が開いた。
一つ目。
十三番線で、過去の私が赤い選択画面を見ている。
今より髪が少し短い。
『百を戻して』
迷いのない声。
《選択肢Aを受理》
ラプラスの身体が白く崩れ始める。
次の瞬間、黒猫が自分の接続端子を引き抜いた。
『処理を中断。利用者保護ロールバックを要求』
画面が白くなる。
二つ目。
別の私が泣いている。
『ラプラスも残す方法を出して』
『提示できません』
『じゃあ、百を』
またAを選ぶ。
またラプラスが処理を止める。
三つ目。
私は白いカードのようなものを端末へ叩きつけていた。
『二択が間違ってる!』
警報。
ノルンの声。
『無効回答。再選択を要求』
過去の私は、最後まで抵抗した。
それでも、百の姿が消え始めた瞬間、Aへ手を伸ばした。
ラプラスがその手より先に、緊急停止を実行する。
三つの画面すべてが、同じ白い光で終わった。
「三回とも」
喉が乾く。
『ノルンは君の関連記憶を安全時点へ戻した』
父が言う。
『ラプラスは、自分の未定義領域へ記録の一部を退避させた。九%だけは、書き戻しの対象にならなかったから』
「だから、毎回少しずつ先へ」
『一回目は名前。二回目は卵最中。三回目は4th_me.wav。ラプラスは、直接教えれば消される情報を、君が自分で気づく形へ変えた』
私は腕の中の黒猫を見る。
ラプラスは画面を伏せていた。
「三人とも、私だったの?」
『はい』
「三人とも、百を選んだ?」
『はい』
「三人とも、あなたは止めた?」
『はい』
「私があなたを消すって決めたのに?」
『あなたは、百を救おうとしました』
「同じことです」
『わたしにとっては異なります』
「どう違うんですか」
ラプラスが、ゆっくり顔を上げた。
『三人とも、あなたでした』
白い瞳が、まっすぐ私を見る。
『三人とも、わたしは好きでした』




