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第二十四話 百の名前を、まだ誰も呼んでいない

『はい』


 ラプラスは、自分が消える選択肢を勧めた。


 まるで明日の降水確率でも答えるみたいに。


「却下」


『ユカリ』


「あなたに決定権はありません」


『百の復元を希望しているのは、あなたです』


「私が希望したら、何でも従うんですか」


『合理性が認められる場合は』


「自分が消えることのどこが合理的なんです」


『N-091の基本プログラムは再構築可能です』


「今のあなたは?」


 ラプラスが黙る。


「ハルトの声を覚えてるあなた。三回分の私を覚えてるあなた。私の言い訳の整合率を勝手に測るあなた。それも再構築できるんですか」


『同等の応答傾向は再現可能です』


「同等は、同じじゃない」


 自分の声が、地下の狭い部屋へ鋭く跳ね返った。


 さっき録音の私が言っていた。


 同じ設計図から作ったものが、同じ一人とは限らない。


 私は一度も、ラプラスを人間だと証明したことはない。


 でも、今ここにいるラプラスが、交換可能な家電ではないことだけは分かった。


「ほんま、猫を疑えで正解やったな」


 ナユが赤い選択画面へ手を伸ばし、銀色のキーを一気に引き抜いた。


 端末が暗転する。


 すぐに警告音が鳴った。


 《分類要求を保留》


 《次回接続時に再開》


「保留できたやん」


「一時的に、です」


 ルナは壁の古い時計を見る。


「外部へ接続しなければ選択は実行されません。ただし、矛盾保持層へ入るには再接続が必要です」


「つまり、会いに行った瞬間また二択」


「ええ」


 ナユが舌打ちした。


「答え決めるまで、質問する場所にも行かれへん。ほんま性格悪いシステムやな」


『性格を持つとは限りません』


「今はあんたも黙っとき。自己犠牲型家電」


『不適切な分類です』


「不適切で結構」


 ラプラスの画面に小さく《反論》と出て、すぐ消えた。


 それを見て、少しだけ息が戻る。


 消えても同じものを作れる端末なら、そんな拗ね方はしない。


     *


 地上へ戻ると、窓の外はもう夕方だった。


 閉店した写真館の二階。色褪せたカーテンの隙間から、オレンジ色の光が細く差し込んでいる。


 ナユは机の引き出しを開け、白い紙箱を取り出した。


「食べる?」


 箱には、卵の絵。


 卵最中だった。


「何で持ってるんですか」


「毎年、うちの誕生日に買うてる」


 軽く言ったけれど、その日付が来るたび、弟の帰らない年数を数えてきたのだろう。


「赤い英和辞典の後ろも見たんですか」


「見た」


 ナユは箱から最中を二つ出した。


「三年前の包み紙だけ残ってた。中身は虫に食われてたわ。あほやろ。食べ物隠して、場所言う前に消えよって」


「……そうですね」


「せやから、代わりに新しいの買う。毎年な。帰ってきたら、その年の分くらい一緒に食わせたるつもりで」


 ナユは一つを私へ投げる。


 受け止めた最中は、思ったより軽かった。


 包装を開く。


 卵の殻みたいな薄い皮。


 真ん中へ親指を置く。


 力をかける位置を、指が勝手に知っていた。


 ぱき、と小さな音がする。


 皮を崩さず、最中が二つに割れた。


 私は片方から餡を外した。


 餡の多い方を自分の前へ。


 空になった皮を、向かい側の椅子へ置く。


 そこまでしてから、自分が何をしたのか気づいた。


「……誰の分?」


 ナユが訊く。


 答えられなかった。


 その椅子には誰もいない。


 でも、最初から空席ではなかったように見えた。


 私の記憶は百を映さない。


 声も、顔も、輪郭が欠けている。


 それなのに身体だけが、甘くない方を誰へ渡すか覚えている。


「百」


 名前を口にしようとした。


 喉が閉じた。


 音になる直前で、別の問いが割り込んでくる。


 人間だったのか。


 妹だったのか。


 私の中の人格だったのか。


 ラプラスの学習誤差だったのか。


 どの説明を選んでも、名前の前に分類がついてしまう。


「まだ呼ばんでええんちゃう」


 ナユが言った。


「忘れろって意味ちゃうで。呼び方を決める前に、会いに行けばええ」


「会って、どうするんですか」


「知らん」


「無責任」


「知ったふりするよりまし」


 ナユは自分の最中を一口かじった。


「ただな、ユカリ」


 いつもの軽さが消える。


「死んだかもしれん相手を理由にして、今ここにおるやつを見捨てたらあかん」


 視線の先には、机の上のラプラス。


「私は見捨てません」


「さっきの顔、危なかったで」


「百を助けたいと思うことまで否定しないでください」


「否定してへん。うちかてハルトを連れて帰りたい」


 ナユは包装紙を指で折り畳む。


「ずっと、“帰ってくる”以外は失敗やと思ってた。弟の声が残ってるなら、身体がなくても、記憶だけでも、何でもええって」


 ラプラスが静かに顔を上げた。


「でも、あんたがハルトの声で喋った時、分かった」


 ナユは黒猫を見る。


「あれをハルトやと思い込んだら、うちは一瞬楽になれる。でも、弟やないもんに弟をやらせることになる」


『わたしは朱宮ハルトではありません』


「うん。腹立つけど、そこは正直で助かった」


 ナユは私へ向き直った。


「連れ戻すことと、助けること。たぶん同じちゃう」


「じゃあ、何をすれば助けたことになるんです」


「それを本人に聞きに行く」


「本人かどうかも分からないのに?」


「せやから、決める前に行くんや」


 理屈としては穴だらけだった。


 でも今は、その穴が必要に思えた。


 私は空席の前に置いた皮を手に取る。


 食べようとして、やめた。


 紙へ包み直し、制服のポケットへ入れる。


「持って行くん?」


「会った時に、どっちが好きだったか確認します」


「証拠として弱ない?」


「承知しています」


『行動の感情依存率、八十七%』


「あなたは数値化しないで」


『通常応答です』


「九十一以外も出せたんやな」


『以前から出しています』


 ナユが少し笑った。


 私も、ほんの少しだけ笑えた。


 その時、部屋のテレビが勝手に点いた。


 電源コードは抜かれている。


 砂嵐のあと、ニュース番組の映像へ切り替わった。


『市営地下鉄旧梅十三連絡区画で、設備基礎の重大な損傷が確認されました』


 画面には、十三番線へ続く地下駅の入口が映っている。


 黄色い規制線。


 作業服の職員。


 次々に運び込まれる封鎖用資材。


『安全確保のため、当該区画は本日二十四時をもって恒久閉鎖されます。旧連絡路は充填材により封鎖され、以後の立ち入りは――』


「四十八時間ちゃうんか」


 ナユが立ち上がる。


「短縮されました」


 ルナは手首端末を確認していた。


「完全焼却の前に、物理的な入口を消すつもりです」


「ノルンが工事まで命令できるんですか」


「命令はしていません。劣化診断、災害予測、予算執行、作業員配置。複数の最適化結果を同じ結論へ寄せれば、人間は自分で選んだと思って封鎖する」


「選んだふりを、街全体でやるんやな」


 ナユはノートパソコンを開いた。


 画面には、使い捨ての投稿アカウントが何十個も並んでいる。


「何する気ですか」


「規則正しいシステムは、正解が一個ある時だけ強い」


 指がキーボードの上を走る。


 《十三番線は地下三階にある》


 《地下四階の突き当たりで黒猫を探せ》


 《黒猫を見たら絶対について行くな》


 《行き先を言えば扉が開く》


 《行き先を言った瞬間、入口が消える》


 互いに矛盾する噂が、街へ放たれていく。


「嘘を撒くんですか」


「都市伝説に正解求める方が野暮やろ」


『観測負荷の上昇を確認』


 ラプラスの目に、細い地図が映る。


『十三番線の推定位置が、七地点へ分岐しました』


「七つじゃ足りんな。十三まで増やすで」


「趣味悪い」


「褒め言葉として受け取っとく」


 ルナは止めなかった。


 ただ、窓の外へ目を向けたまま言う。


「今から局へ戻ります」


「通報しに?」


「観測するためです」


「また便利な言葉」


「ええ」


 ルナは扉の前で振り返る。


「今夜、開いている扉があっても、理由を考えすぎないでください」


 それだけ残し、階段を下りていった。


     *


 二十三時。


 地下駅の入口は、ニュース映像より厳重に封鎖されていた。


 観測局の灰色の車両。


 防護服姿の警備員。


 天井近くを巡回する黒いドローン。


 仮設モニタには、閉鎖までの時間が表示されている。


 《残り一時間〇〇分》


「正面突破は」


「成功率二・三%」


『一・一%です』


「下げるな」


 ナユは作業員用の帽子を深く被った。


 私はラプラスを胸に抱き、規制線の外を歩く。


 入口上の監視カメラがこちらを向いた。


 赤い光が、頭から足元までをなぞる。


 仮設モニタに認識結果が出た。


 《人物 二名》


 私は腕の中を見る。


 黒猫は確かにいる。


 硬い外装も、わずかな駆動音も、私の腕へかかる重みもある。


 なのに画面は、ラプラスを数えなかった。


 続けて白い文字が表示される。


 《未登録端末N-091》


 《照合結果 処分完了済み》


 カウントダウンの数字が、一つ減った。


 残り、五十九分五十九秒。


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