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第二十三話 私の「九十九」は、誰かが引いた一点だった

『その先は、聞く必要がありません』


 ラプラスは、もう一度そう言った。


 必要がない。


 聞かせられない、ではなく。


 知られたら困る、でもなく。


 私にとって不要だと、私より先に決めた。


「それを決めるのは、あなたじゃない」


『情報取得後の心理的負荷を予測しています』


「また私を守るつもりですか」


『はい』


「自分を数に入れずに?」


 黒い画面に、ごく小さな乱れが走った。


 ナユが壁際で息を吐く。


「録音のあんた、よう分かってるな。猫は嘘つかへん代わりに、大事なこと勝手に省く」


『省略には合理的理由があります』


「ほら、それや」


 地下の点検室には、古い交換機の機械油と、湿ったコンクリートの匂いがこもっていた。


 四十八時間のカウントダウンは、外部から切断された今も進んでいる。


 ここで言い争っている一秒も、ハルトと、百と、ラプラスの中に残された何かを削っていく。


「続きを知る方法は」


 私はルナへ向き直った。


「あります」


 彼女はさっき私へ渡した銀色のセキュリティキーを見た。


「ただし、知ればノルン側にも痕跡が残ります。未定義だったものへ、あなた自身が輪郭を与えることになる」


「知らないまま選ばされるよりましです」


「その言い方も、三回とも同じでした」


 胸の奥が冷えた。


「覚えてるんですか」


「断片だけです。あなたの記憶が初期化されるたび、わたしの権限記録も修正された。ただ、修正されたという欠落までは消えなかった」


「みんな、穴だけ残されてるんやな」


 ナユの声は笑っていなかった。


 私は父のUSBを古い端末へ差し込んだ。


 続けて銀色のキーを挿す。


 画面に、これまで見えなかったフォルダが一つ現れた。


 《FAMILY_ARCHIVE_099》


 その下に、小さな警告。


 《閲覧にはN-091の立会認証が必要です》


「ラプラス」


『推奨しません』


「認証して」


『ユカリ』


「四回目の私に、同じことをさせないで」


 数秒の沈黙。


 やがてラプラスの瞳が白く灯り、端末へ細い光が伸びた。


『立会認証。N-091』


 フォルダが開く。


 最初に表示されたのは、住民記録だった。


 九十九家。


 父と、私。


 子どもの欄は一名。


「……いない」


 百という名前は、どこにもない。


 次のファイルは家庭用カメラの映像だった。


 日付は八年前。


 見覚えのある食卓。今の家へ引っ越す前の、狭い台所。


 幼い私が椅子に座っている。


 その向かいには誰も映っていない。


 なのに、テーブルには子ども用のコップが二つあった。


『お姉ちゃん、そっち取って』


 画面の外から、女の子の声がする。


 幼い私は振り向きもせず、卵最中の箱を向かい側へ押した。


『皮だけでいいの?』


『うん。あんこはお姉ちゃんにあげる』


『甘くない方ばっかり食べて、何が楽しいの』


『お姉ちゃんが甘い方好きだから楽しい』


 映像の中の私は、何か言い返そうとして、結局黙った。


 画面の外から小さな手だけが伸びる。


 卵の形をした最中が、きれいに半分へ割られた。


 皮は向こうへ。


 餡は私の皿へ。


 喉の奥に、甘い匂いが蘇った。


 映像を見ているから思い出したんじゃない。


 指が知っていた。


 最中をどこから押せば、皮を崩さず二つに割れるか。


 私は知っている。


 何度もやったことがある。


「これだけなら、音声の合成もできます」


 そう言った自分の声が、ひどく遠かった。


「ええ」


 ルナは否定しない。


 次の記録。


 廊下の壁に残された、二本の身長線。


 YUKARI 一一八・四センチ。


 MOMO 一一三・〇センチ。


 同じ日付。同じ父の筆跡。


 その次は医療データだった。


 一人分の患者番号。


 一台の脳波計。


 けれど同じ時刻に、互いに独立した二種類の応答波形が記録されている。


 片方は映像刺激に反応し、もう片方は音声刺激に反応していた。


「二人を一人として測った?」


「そうも読めます」


「一人の中に二人いた?」


「そうも読めます」


「答えになってません」


「答えを一つにすると、どちらかの記録が偽物になります」


 ルナの言葉に、腹が立った。


 でも、画面は本当にそうなっていた。


 戸籍上は一人。


 家庭映像では二人。


 医療記録では、一人の身体から二人分の反応。


 ラプラスの初期利用者一覧には、二つの名前。


 《YUKARI》


 《MOMO》


 そして、MOMOの状態欄だけが《NULL》だった。


「NULLは、いないって意味ですか」


『いいえ』


 ラプラスが答える。


『値が存在しないのではなく、値を確定できない状態です』


「百は、人間だったんですか」


 私は訊いた。


 誰も答えない。


「父さんが作った人格ですか。私の妹ですか。私の中にいた誰かですか」


『いずれの説明にも、肯定材料と否定材料があります』


「あなたは会ってたんでしょう」


『はい』


「それでも分からない?」


『わたしが会った相手を、人間と呼ぶべきか、人工人格と呼ぶべきか。それを決定する権限を、わたしは持ちません』


「逃げてる」


『保護しています』


 きっぱり言われた。


 その瞬間、別の映像が自動再生された。


 幼い私と、画面の外の少女。


 テーブルの中央には、今より丸みのある黒猫型端末が座っている。


『お姉ちゃん、私のこと嫌いって言った』


 女の子の声が少し拗ねている。


『だって、私のノートに猫の絵描いたから』


『かわいかったよ』


『数学のノートに三十七匹も描く必要ない』


『じゃあ本当に嫌い?』


『嫌い』


 幼い私は横を向いた。


 黒猫が、短い計算音を鳴らす。


 画面に数字が出た。


 《反語的好意表現 推定九十一%》


『ほら』


 少女が笑う。


『お姉ちゃん、九十一%は私のこと好き』


『残り九%は嫌いってことやろ』


『違うよ』


 小さな指が、黒猫の画面を撫でた。


『残りの九%は、決めつけないで』


『何で』


『猫ちゃんが全部決めたら、お姉ちゃん、あとで気持ちを変えられなくなるから』


 映像の端に、父の姿が映った。


 扉のところで立ち止まり、何かを書き留めている。


 少女は続けた。


『九十一まで分かったら、あとは本人に返すの。百まで当てたら、占いじゃなくて命令になるもん』


 そこで映像が止まった。


 端末に、父の研究メモが開く。


 《人間解釈モデルの説明上限を〇・九一に固定》


 《残余〇・〇九は対象本人の将来選択領域として保護》


 《発案者 MOMO》


「安全装置の起源が、子どもの喧嘩?」


「科学的根拠はありません」


 ルナが言う。


「九十一が普遍的に正しい数値だという証明もない。九十九博士は、個人的な約束をシステムへ埋め込んだ」


『ノルンは、普遍性のない雑談を低危険度情報として扱います』


 ラプラスが続ける。


『そのため保護領域の状態通知は、感情診断へ偽装されました』


「ツンデレ率」


『はい』


「毎朝、私を測ってたんじゃない」


『正確には、未定義領域九%の生存確認です』


 あんなに腹を立てた数字。


 根拠がないと責め続けた数字。


 あれは診断ではなかった。


 ラプラスが毎朝送っていた、短い救難信号だった。


 まだ九%を守っている。


 まだ全部は決められていない。


 まだ、百をゼロにしていない。


「じゃあ、九十九は」


 私は最後の文書を開いた。


 戸籍変更申請。


 旧姓の欄は黒く塗り潰されている。


 新しい姓だけが読めた。


 九十九。


 申請理由の添付欄に、父の手書きメモがあった。


 《百から一つを失っても、失った一つをゼロとは呼ばない》


 《残された者が九十九を名乗れば、百が存在した余白を家名に残せる》


 自分の名字なのに、初めて意味を知った。


 私は百に一つ足りないから九十九だったんじゃない。


 誰かが百から一点を引いたあと、その空白まで数え続けるために、父が九十九を選んだ。


「勝手すぎる」


 声が震えた。


「記憶を消して、名字だけ残して。理由も言わずに、毎日それを名乗らせて」


『否定しません』


「あなたも知ってた」


『断片的に』


「だったら――」


 責める言葉を探した時、端末の画面が赤く変わった。


 外部回線は切れている。


 それでも文字は、父のUSBの奥から染み出すみたいに現れた。


 《未定義領域の仮分類を要求》


 《選択肢A》


 《人間人格〈百〉として復元》


 《付随処理 N-091適応人格を初期化》


 《選択肢B》


 《人工学習誤差として廃棄》


 《付随処理 N-091適応人格を維持》


「何、これ」


「ノルンの強制二択です」


 ルナの顔から色が消えていた。


「百を人間として取り出せば、同じ領域を使っているラプラスの現在人格が消える。ラプラスを残せば、百は誤差として削除される」


「保留は」


「表示されていません」


 ナユが端末の電源へ手を伸ばす。


「こんなん選ぶ必要ない。切るで」


『待ってください』


 ラプラスが言った。


 私は黒猫を見る。


「あなたは、どっちを選ぶんですか」


 問い終わる前から、答えは分かっていた。


 四回目の私が、猫を疑えと書き残した理由。


 ラプラスは、何の迷いもない声で告げた。


『選択肢Aを推奨します』


「それを選んだら、あなたが消える」


『はい』


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