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第二十二話 四回目の私は、猫を疑えと書き残した

残り四十七時間五十九分。


 人ひとりの人生を決めるには短すぎて、怖がり続けるには長すぎる時間だった。


「十三番線への入口、今すぐ開けられへんの」


 ナユが訊く。


「開けても、現在のあなたたちは到達できません」


 ルナは答えた。


「ノルンが経路を一つの説明へ固定し始めています。正面から入れば、用意された結末へ運ばれるだけです」


「また“まだ決めない”で抜けられませんか」


「同じ抜け道は、観測された時点で抜け道ではなくなります」


「学習すんなや、そういうとこだけ」


 ナユが壁を蹴りかけてやめた。


 遮断室の非常灯が、三人と一匹の影を床へ落としている。


 ラプラスの影だけが、時々ほんの少し遅れた。


「四十八時間で、別の入口を探す」


 私は言った。


「そのために、知ってることを全部話してください」


 ルナが私を見る。


「全部、という言葉は危険です」


「言葉尻の話してる場合ですか」


「いいえ」


 ルナは胸元の端末を机へ置いた。


「ですが、私が完全回収を支持してきた理由を知らなければ、あなたは私の情報を都合のいい部分だけ使うでしょう」


「それの何が悪いん」


「私と同じ失敗をするからです」


 静かな言葉だった。


 ルナは端末から細いケーブルを伸ばし、壁の古い投影機へ接続した。


 ざらついた映像が白壁に浮かぶ。


 駅前の交差点。


 八年前の日付。


 人々が立ち止まり、互いの顔を見ている。


 ただ、それだけの映像に見えた。


 次の瞬間、音声が入る。


『あなたは、誰ですか』


 母親らしい女性が、目の前の男の子へ訊いている。


 男の子は泣いている。


『お母さんやろ。僕や。分からんの』


 女性は何度も首を振る。


『知ってる。大事なのも分かる。でも、何て呼んでたか分からない』


 別の映像。


 駅員がマイクを握り、行き先を言えずにいる。


 救急隊員が患者の家族関係を確認できない。


 教室で、生徒たちが担任の名前だけを一斉に忘れている。


「集団失語事故」


 ルナが言った。


「観測局内部での呼称です。公的には、通信障害に伴う集団パニックとして処理されました」


「言葉を忘れたんですか」


「単語そのものではありません。人と人の関係を示す言葉から崩れました」


 母親。


 弟。


 友達。


 先生。


 名前だけではない。その人が自分にとって誰なのかを、言葉へ結びつけられなくなった。


「原因は」


「当時の物語モデルが、互いに矛盾する記憶を一斉に説明しようとしたことです」


 ルナは映像を止める。


「AIは一人の人間について、複数の説明を同時に保持していました。優しい父親。暴力を振るった男。被害者。加害者。愛している。憎んでいる。どれか一つにまとめられず、処理を保留した」


「それで人間まで壊れた?」


「保留された矛盾が、都市の案内システムや個人端末を通じて逆流しました。人間側の認識モデルが、“関係を確定しない方が安全だ”と誤学習したのです」


 ナユが腕を組む。


「分からんもん全部分からんままにしたら、誰が誰かまで分からんようになった」


「はい」


 ルナの返事は短い。


「事故は三十七分で収束しました。ですが、三十七分あれば十分です。交通事故、投薬ミス、迷子、転落。戻らなかった人もいます」


「あなたも、そこにいたんですか」


 私が訊くと、ルナは画面の端を指した。


 若い女性が、一人の男の子の肩を掴んでいる。


 今より髪の長いルナだった。


『名前を言って』


 映像の中の男の子が泣く。


『姉ちゃん、俺の名前言って』


 若いルナは口を開く。


 何度も開く。


 けれど、何も出てこない。


 映像が途切れた。


「弟ですか」


「はい」


 事故の三十七分間、ルナは弟の名前を思い出せなかった。弟は姉に忘れられたと思い、駅から一人で逃げようとして階段を転げ落ちた。


「命は助かりました。記憶も戻った。けれど退院した日に、弟は私へ言いました。“姉ちゃんが、いちばん先に僕を消した”と」


 ルナは事実を読むみたいに話した。


 だからこそ、その一言だけが今も消えていないのだと分かった。


「それで、曖昧なもの全部消したくなったん」


 ナユの声は責めるというより、確かめる響きだった。


「消したいのではありません」


 ルナは画面を閉じる。


「人を壊す前に、説明可能な形へ戻したいのです」


「同じことや」


「私には違いました」


「でもハルトを切った」


「はい」


 ルナは逃げなかった。


「正しい理由があっても、やったことは消えへんで」


「だから、記録しています」


「記録したら責任取ったことになると思ってる?」


「思っていません」


 ナユは黙った。


 ルナも黙る。


 二人の間にあるものは、仲直りでも理解でもない。ただ、片方だけを正しいことにしない沈黙だった。


「父さんは、その事故のあと何をしたんです」


 私が訊く。


「九十九博士は、完全回収へ反対しました」


 ルナの口元に、苦い記憶みたいなものが浮かぶ。


「曖昧さが事故を起こしたのではない。曖昧さを処理できない設計が事故を起こした、と」


「父さんらしい」


「腹立つほどに」


 ルナがそんな言い方をするのは初めてだった。


「博士は、矛盾を都市へ流さず、かといって消去もしない中間層を提案した。それが矛盾保持層です」


「待合室」


「ええ。私は、危険物を待合室へ置き続けることに反対しました」


「父さんは」


「人間を一つの説明に閉じ込める方が、長期的には危険だと言いました」


 どちらも間違っていない。


 だから余計に、片方だけを選ぶのが怖い。


 ルナはスーツの内側から、古い鍵を取り出した。


 金属製の細長いセキュリティキー。先端に、十三本の線で囲まれた円の紋章がある。


「これを」


 私の手のひらへ置く。


「何ですか」


「旧観測局の上位認証鍵です。現行ノルンに、一度だけ未定義領域へのアクセス保留を要求できます」


「助けるんですか」


「いいえ」


「まだ言うんや、それ」


 ナユが呆れる。


 ルナは私の手の中の鍵を見る。


「私は完全回収が正しいと、今も考えています」


「じゃあ何で」


「正しいと考えている私自身を、もう完全には信用できないからです」


 その答えは、たぶん彼女にとって一番言いたくない種類のものだった。


 私は鍵を握る。


 冷たい。


 父の社員証と同じ、現実を薄く保証する冷たさだった。


 その時、ポケットのスマホが震えた。


 遮断室の中に電波はない。


 通知も届くはずがない。


 画面には、前に一度再生した音声ファイルが表示されていた。


 《4th_me.wav》


「勝手に……」


『セキュリティキーの近接認証により、未再生領域が復号されました』


 ラプラスが言う。


「未再生領域?」


『前回聞いた内容は、全体の二十四%です』


「そういう大事なこと先に言え!」


 ナユが叫ぶ。


『復号鍵がありませんでした』


 再生ボタンへ触れていないのに、音声が始まった。


 私の声だった。


『これを聞いている私は、四人目の私』


 知っている声なのに、自分より疲れている。


『先に言う。時間は戻ってない。世界が繰り返してるわけでもない』


 ルナの端末が勝手に起動する。


 壁へ三つの映像が並んだ。


 一つ目。十三番線のホームで、黒い鳥の卵へ手を伸ばす私。


 二つ目。卵最中を握ったまま、ナユの姿が白いノイズへ消えるのを見ている私。


 三つ目。旧第三観測棟の入口で、回収員に囲まれる私。


 どれも今の私ではない。


 でも、全部私だった。


『失敗するたび、ノルンは私の記憶を試行開始点へ戻した。ナユたちの記憶も、私と関係する部分だけ薄くした』


 ナユが息を呑む。


「だから、うち……初めてのはずやのに、“昨日の続き”って」


「残差です」


 ルナが言う。


「完全には消せなかった」


『世界は進んでる。戻されたのは、私たちの認識だけ』


 音声の私が続ける。


『だから四回目は、同じことをしないで』


 映像の中で、一回目の私が白い光に飲まれる。


 二回目の私が、誰もいない隣へ手を伸ばす。


 三回目の私が、ラプラスを抱えて何かを叫んでいる。


『それと、ラプラスを疑って』


 私は腕の中の黒猫を見る。


 ラプラスは動かない。


『勘違いしないで。あの子は裏切らない。裏切らないから危ない』


「どういう意味」


 過去の私へ、今の私は問いかける。


 当然、返事はない。


『ラプラスは、自分なら再インストールできるって言う。でも信じないで。同じプログラムを入れ直しても、私たちを覚えているあの子には戻らない』


『再生を停止してください』


 ラプラスが言った。


「嫌です」


『以降の情報は、あなたの意思決定を不当に誘導します』


「今さらそこ気にするんですか」


『気にします』


 初めて、その声に焦りが混じった。


 ナユがラプラスを抱き上げ、停止操作から遠ざける。


「聞かれたないんやったら、余計聞かなあかんな」


『合理性を欠きます』


「うちら、あんたのそういう嘘に慣れてきてん」


 音声は続く。


『あの子は、私を生かすためなら、自分が消えてもいいと思ってる』


 胸が痛んだ。


 ラプラスの八年前。


 三年前。


 去年。


 私が覚えていない三回。


 その全部を、この猫だけが抱えているのかもしれない。


『四回目の私へ。次に誰かを迎えに行くなら、忘れた誰かだけを見ないで』


 そこで激しいノイズが入った。


『四回も、私を待ってくれた――』


 音声が切れる。


 続きを待っても、何も流れない。


 ラプラスが、私の腕の中で静かに言った。


『その先は、聞く必要がありません』


 私は黒い目を見返した。


「それを決めるのは、あなたじゃない」


 ラプラスは答えなかった。


 代わりに胸元の小さな表示が点灯する。


 《ツンデレ率91%》


 もう、その数字を冗談だとは思えなかった。

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