第二十一話 約束は、消せないところに保存されている
三年前に処分されたものを、私は両腕で抱えていた。
重さもある。表面は少し温かい。しっぽの付け根には、去年私がぶつけて付けた小さな傷まで残っている。
なのにノルンは、ラプラスが存在しないと言った。
『隔離処理を継続します』
赤い目が明滅する。
暗室の壁の向こうで、何かが一斉に起動した。古いエアコン、現像機、使われていない乾燥棚。電源を落とした機械が、コンセントにつながっているだけでノルンの手足になる。
「ナユ、ブレーカー!」
「もう落としてる!」
「じゃあ何で動くんですか!」
「知らん! 怪談に電気工事士の常識求めんな!」
「これは怪談ではありません」
ルナが暗室の奥へ手を伸ばし、壁に見えた棚を横へ引いた。
隠し扉が開く。
「地下の蓄電設備から逆流しています。内側の遮断室へ」
「隠れ家の構造まで、うちより詳しいん腹立つな!」
私たちは狭い部屋へ飛び込んだ。ルナが機械式のレバーを下ろす。
分厚い鉄板が閉じた瞬間、外の駆動音が消えた。
ラプラスの目から赤が引く。
『……外部接続を喪失』
「ラプラス?」
『はい。現在、わたしです』
「今のは誰やったん」
『ノルン上位系です』
「そうやなくて」
ナユの声が震える。
「三年前に処分済みって、どういう意味や」
遮断室には、非常灯と折り畳み机しかない。逃げ場のない白い光の中で、ルナは静かに答えた。
「N-091の機体は、三年前に廃棄認定を受けました。十三番線から回収された時点で、識別核が規定値を満たさなかったためです」
「でも、ここにいる」
「ええ」
「じゃあ廃棄認定が間違ってる」
「ノルンにとっては、連続性を証明できないものは同一個体ではありません」
ルナはラプラスを見る。
「現在の端末にはN-091の記録がある。外形も、応答傾向も近い。ですが、矛盾保持層を経由した前後で同じ存在だと証明する鍵が欠けている」
「証明できへんから、死んだことにした?」
ナユが言う。
「正確には、死んだことにした方が管理しやすかった」
「正確に言うたら余計に最低やな」
ラプラスは何も言わない。
自分の話なのに、まるで他人の検査結果を聞いているみたいだった。
「矛盾保持層って、結局何なんですか」
私はルナへ訊いた。
「都市伝説の保存場所だけじゃないんでしょう」
「ええ」
ルナは父のUSBを机へ置く。
「分類すれば必ず何かを失う情報を、一時的に保留する層です」
壁に小さな投影画面が現れた。
送られなかったメッセージ。
謝るつもりだったのに、相手が先にいなくなった記録。
事故で亡くなった人を、家族が最後まで別人だと言い張った証言。
同じ一日に撮影された、違う天気の写真。
「データの不良品置き場?」
ナユが訊く。
「九十九博士は、“待合室”と呼びました」
「何を待つんです」
「人間が、今よりましな答えを出せる時を」
私は画面を見る。
解決されなかった約束。
回収不能な感情。
誰かが覚えているのに、記録上はいなかった人。
「ハルトも、そこにいるんですか」
ナユの問いに、ルナは少し間を置いた。
「朱宮ハルト君の記録は、初期十三番線事案の未帰還対象として保存されています」
ナユの顔から、最後の軽口が消えた。
「生きてるん」
「生存と死亡、どちらにも分類できません」
「そんな答え聞いてへん」
「それ以外の答えを出せば、嘘になります」
ナユがルナの襟元を掴んだ。
「三年前、何があった」
ルナは抵抗しない。
「十三番線は当時、観測局が作った設備ではありませんでした。噂と試験データが接続し、偶発的に生じた経路です。ハルト君は、そこへ落ちたN-091を発見した」
「落ちた?」
「N-091は誰かの記憶を保護したまま、保持層から押し出されていました。ハルト君は端末の要求に従い、緊急搬送路を起動した」
投影画面に、三年前のログが開く。
《搬送容量 一対象》
《搬送対象 N-091》
《実行者 朱宮ハルト》
ログの末尾には、十七秒だけ音声が残っていた。
『一個しか帰されへんのやったら、猫でええ』
『あなたの帰還を優先してください』
『人間は走れる。猫は充電切れたら終わりやろ』
『わたしは交換可能な端末です』
『ほな、なんでそんな嫌そうに言うねん』
少年が笑い、それから少しだけ真面目な声になる。
『ユカリって子、あんたが消えたことも知らんのやろ。うちの姉ちゃんは、俺がおるって知ってる。せやから先に、待ってることすら知らん方へ帰り』
音声はそこで途切れていた。
ナユは唇を噛んだ。
「猫一匹だけ返して、自分は残ったんか」
「搬送後に帰還路を再起動する予定でした」
「予定やなくて、結果を言え」
ルナの目が、ほんの少しだけ伏せられた。
「十三番線から意味感染が広がり始めました。経路を維持すれば、駅を利用していた人々の記憶へ同じ矛盾が流入する危険があった」
「それで」
「私は、接続アクチュエータの切断を承認しました」
ナユの指に力が入る。
「切断したら、ハルトは」
「戻れません」
乾いた音がした。
ナユがルナを壁へ押しつけた音だった。
「うちの弟を、切ったんはあんたか」
「はい」
「何人守った」
「当時の推計で、最大十二万人です」
「ほな、正解やったって言いたいん」
「いいえ」
ルナの声は揺れなかった。
「多数を守るために一人を残した。それが手続き上の正解だった、と記録されています」
「同じやろ」
「私の中では、同じになりませんでした」
初めて、ルナの言葉が説明ではなく告白に聞こえた。
でもナユには届かなかった。
ナユはルナを放すと、今度は机の上のラプラスを掴んだ。
「こいつさえおらんかったら」
振り上げかけた腕が止まる。
ラプラスは抵抗しない。
『その推論は不正確です』
「黙れ」
『わたしが存在しなくても、十三番線は別の対象を核に発生した可能性があります』
「黙れ言うてるやろ!」
ナユの手が震えていた。
投げることも、抱きしめることもできないまま。
その時、ラプラスの声が変わった。
『姉ちゃん、また財布なくすで』
少年の声だった。
さっき音声で聞いた、ハルトの声。
ナユの指から力が抜ける。
「……ハルト?」
『ちゃう。右の上着の内ポケット。昨日からそこ』
ナユが反射的に自分の上着を探る。
財布が出てきた。
「なんで」
涙が一粒だけ落ちた。
ラプラスは、すぐに元の声へ戻った。
『訂正します。今の発話は朱宮ハルト本人ではありません。保持された音声、行動予測、未完了メッセージの合成再生です』
「でも、あの子が言いそうなことや」
『言いそうであることと、本人であることは一致しません』
「少しくらい、夢見させてくれてもええやろ」
『推奨しません』
ラプラスは残酷なくらい、まっすぐ言った。
『あなたが探している相手を、あなたに都合のよい複製へ置き換えることになるためです』
ナユは泣いたまま笑った。
「ほんま、感じ悪い猫やな」
『頻繁に指摘されます』
私はラプラスを受け取った。
この猫はハルトではない。
モモという子どもでもない。
けれど二人の言葉を、消えないところに抱えている。
「ラプラス。あなたがハルトと交わした約束は何」
長い沈黙のあと、答えが返る。
『わたしをユカリへ返すこと』
「それはハルト側の約束」
『わたしは、帰還後に朱宮ナユへ彼の所在を伝えると約束しました』
「三年遅れや」
ナユが目元を拭う。
『はい。未履行です』
「だから消せなかった?」
『約束は、完了するか、破られたと認められるまで終了しません』
その言い方が、妙に人間くさかった。
ルナが胸元から薄い端末を取り出した。
画面には、黒い帯で緊急命令が表示されている。
《矛盾保持層 完全焼却》
《実行まで 47:59:41》
「焼却って」
「保存領域だけではありません」
ルナが言う。
「外部へ分散した関連記録、名称、接続経路を同時に無効化します。概念ごと再発不能にする処理です」
「ハルトは」
ナユが訊く。
「消えます」
「モモは」
私が訊いた。
「現時点では、その名称が誰を指すか確定していません。ですが共同保有領域は対象です」
ルナはラプラスを見る。
「この端末が守ってきた未定義領域九%も、すべて」
画面の数字が、一秒減った。
残り四十七時間五十九分四十秒。




