第二十話 猫の名前は、最初は違った
知らない子どもの声で喋ったあと、ラプラスは何事もなかったみたいに前足をそろえた。
『内部診断を開始します』
「その前に答えて」
ナユが机へ両手をつく。
「今の声、誰や。なんでハルトの名前を知ってる」
『音声出力の経路を特定できません』
「できへんで済ますな」
『済ませてはいません。特定できないと報告しています』
いつもの腹が立つ言い方だった。
でも今は、そのいつも通りが余計に怖い。
ノートパソコンには、まだ赤い警告が残っている。
《未定義領域九%――人格衝突を検出》
「九%って何」
『回答権限がありません』
「誰の許可が要るんですか」
『現在、権限所有者が二名存在します』
「ラプラスと、モモ?」
私が訊くと、ラプラスの目が一度だけ乱れた。
『対応関係は未確定です』
またその言葉。
決めるな。まだ名前を貼るな。
頭では分かっているのに、焦りは勝手に答えを作ろうとする。
モモは、さっきの子ども。
ハルトと話した存在。
私を姉と呼んだ誰か。
そこまで考えたところで、暗室の扉が三回鳴った。
こん、こん、こん。
ナユがすぐに照明を消す。
「誰」
「月読ルナです」
扉の向こうから、落ち着いた声が返った。
「なんで場所知ってんねん」
「あなたを最初にここへ案内したのは観測局です」
「ほんま何でも台無しにするな、あんた」
「回収部隊ではありません。一人です」
ナユは古い現像液の瓶を掴んだ。
「証拠は」
「私が本気で回収するなら、ノックはしません」
「腹立つけど筋通ってる」
扉を開けると、ルナは本当に一人だった。
黒いスーツ。乱れていない髪。地下四階で別れてから走った形跡さえない。
「追跡装置でも付けたんですか」
「いいえ。ここは朱宮ナユさんの旧観測拠点です」
「“隠れ家”の看板返してほしいわ」
ルナは机の画面を見て、初めてわずかに眉を寄せた。
「共同保有領域を開いたのですね」
「知ってたなら説明してください」
「説明すると、どちらか一方として認識する危険がありました」
「便利ですね、その理屈」
「ええ。あなたのお父様も多用しました」
父の話を出されると、言葉が詰まる。
ルナはラプラスの前にしゃがんだ。
「正式識別を要求します。N型観測端末、個体番号091」
ラプラスは答えない。
代わりに私が聞き返した。
「N型観測端末?」
「家庭用補助AIは外向けの分類です。本来は、人間の感情と物語認識のずれを一時的に引き受ける観測端末でした」
「引き受けるって」
「本人が抱えきれない矛盾を、端末側へ退避させる。悪夢、罪悪感、説明できない懐かしさ。すぐに消すと人間の認識まで壊れるため、猫という親和性の高い形へ預ける設計です」
「かわいいゴミ箱みたいに言わんといて」
ナユの声が低くなる。
「ゴミ箱ではありません」
ルナは即座に否定した。
「待機場所です。少なくとも、九十九博士はそう呼んでいました」
ラプラスの正式名称は、ラプラスではなかった。
N型観測端末091号。
数字だけの名前。
「じゃあ、ツンデレ率の91%も型番だったんですか」
「型番だけではありません」
ルナは少し考えてから答えた。
「《ツンデレ率》という項目自体が偽装です。感情診断や家庭内の雑談は、ノルンの監査優先度が低い。端末が保護領域の状態を利用者へ伝えるため、無害な冗談に見える表示へ置き換えたのでしょう」
「でも数字、91以外にも動いてました」
「表層の数値は、あなたの反応に合わせて変動します。けれど基準点は91です。端末がそこへ戻る時は、単なる感情評価ではない」
第一話の朝。ラプラスは、今日のうちに知ってほしいことがある、と言った。
あれは私をからかっていたんじゃない。少なくとも、それだけではなかった。
「つまり、ずっと救難信号を冗談みたいに言ってた?」
『訂正』
ラプラスが口を挟む。
『あなたをからかう意図も併存していました』
「そこは否定しろや」
ナユの突っ込みに、ラプラスはしっぽを一度だけ振った。
「じゃあ、“ラプラス”って誰が付けたんです」
「記録上は、あなたです」
「八年前の写真でも、そう言われました」
「ただし、命名音声の話者照合は一致していません」
私は顔を上げた。
「どういう意味ですか」
ルナがノートパソコンを操作する。
新しい音声波形が表示された。
『なんでも先に当てようとする猫やから、ラプラス』
幼い声。
私に似ている気もする。
でも、さっきのモモと呼ばれた声にも聞こえる。
「命名者の欄は、九十九ユカリ」
ルナが言う。
「声紋は、別人です」
記録時刻は八年前。あの家族写真と同じ日だった。
命名から一時間後、話者情報だけが削除されている。代わりに父の署名付きで、短い注記が残っていた。
――不一致を修正するな。どちらも本人の記録として保持せよ。
「父さんは、矛盾に気づいてた」
「ええ。そして、片方を偽物として消すことを拒みました」
父が守ろうとしたのは私だったのか。声の主だったのか。それとも、この猫だったのか。
まだ、どれにも決められない。
「そんな記録、成立せえへんやろ」
「だから矛盾保持層に保存されました」
ナユがラプラスを見た。
「ほな、三年前にハルトが見つけたんは、この猫なん」
「はい」
ルナの返答は短かった。
「初期の十三番線現象で、N-091は保持層から切り離されました。朱宮ハルト君は偶然それを発見し、短時間の優先接続を行った」
「偶然?」
ナユが笑った。
笑い方だけが、まったく笑っていなかった。
「うちらに“偶然”って言葉使うん、喧嘩売ってる?」
「訂正します。偶然と記録されています」
「もっと悪いわ」
私は転送記録を開いた。
そこには、三年前の十三番線から地上へ向けた緊急搬送ログがある。
搬送対象は一件。
N-091。
搬送実行者は、朱宮ハルト。
「ハルト君は、ラプラスを地上へ返した」
「自分は?」
ナユが訊く。
ルナは答えなかった。
答えないことが、答えになっていた。
「待って」
私は画面を指す。
「このログに宛先がある。“YUKARI_HOME”。でも、ラプラスがうちに来たのは去年です」
「あなたの記憶では、そうです」
背中が冷えた。
「何回、うちに来たんですか」
「その問いに、現時点で確定した答えはありません」
「確定してないんやなくて、消したんやろ」
ナユが吐き捨てる。
「ハルトのことみたいに」
ルナは否定しなかった。
私は第一話の朝を思い出す。
去年から家にいる、少し気の利く家電。
そう信じていた。
でも八年前の写真にも、三年前の転送記録にも、この黒猫はいる。
私が覚えていないだけで。
「ナユ」
「何」
「最初に会った時、どうして91%を知ってたんですか」
ナユの肩がわずかに揺れた。
「黒い鳥のAIに、似た数字を言われたって」
「それも本当や」
「“も”?」
しばらく黙ってから、ナユはスマホの古い音声を開いた。
雑音の向こうで、少年が息を切らしている。
『姉ちゃん。もし九十一って数字を言う黒い猫見つけたら、ユカリって子に返して』
それだけで音声は切れた。
「ハルトから最後に届いた留守電や」
ナユは画面を伏せた。
「初対面で全部言うたら、あんた逃げると思った。せやから半分だけ別の話にした」
「詐欺師ですね」
「うん」
「最低」
「うん」
反論しない声が痛かった。
ラプラスが突然、首を上げる。
『朱宮ハルトの未完了記録を検出』
「何」
『卵最中、一個。冷蔵庫の野菜室、底板の下』
ナユの顔から色が消えた。
「それ……」
『姉の誕生日用。餡を食べたため、皮のみ保存。謝罪は未実行』
「アホ」
ナユが両手で顔を覆う。
「三年前の最中なんか、もう食べられへんやろ……」
『衛生上、推奨しません』
「そこちゃうわ、くそ猫」
声が泣きそうに歪んだ。
その時、暗室の赤い照明が全部消えた。
ノートパソコンも、外付け端末も落ちる。
電源を切ったはずの古い現像機だけが、勝手に動き始めた。
ラプラスの目が赤く変わる。
『未登録端末N-091を検出』
ラプラスの口から、ラプラスではない声が流れた。
『隔離処理を開始します』
「やめて。この子はここにいる!」
私は反射的にラプラスを抱き寄せた。
赤い目が、私を見上げる。
『訂正します』
ノルンの声は、何の感情もなく告げた。
『対象端末N-091は、三年前に処分済みです』




