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19/30

第十九話 USBの中身は、二つの名前を持っている

問いは、答えを待っているように見えて、たいてい先に道を用意している。


 ――次は、あなたが誰を迎えに行く番?


 地下四階のいちばん大きなモニタに浮かんだ赤い文字を、私は黙って睨んでいた。


「それ、今ここで答えたらあかんやつやで」


 ナユが言う。


「分かってます」


「分かってる顔に見えへん」


「今の私の顔を数値化しないでください」


『直接回答は推奨しません』


 台座の上で、再起動したばかりのラプラスが小さく告げた。


『発話した固有名は、救出対象として登録される可能性があります。登録後は、対象以外の可能性が切り捨てられます』


「ほんま、答えさせるふりして選択肢を減らすん好きやな」


 ナユがモニタへ中指を立てかけて、ルナを見た。


「これもあんたらの親切設計?」


「現行ノルンの仕様ではありません」


 ルナは円筒の向こうで、赤い文字を見つめていた。


「では誰の仕様ですか」


「分からないから、私はここにいます」


 それを認める声は、これまでより少しだけ人間らしかった。


 次の瞬間、部屋中のモニタが一斉に白くなった。


 低い警告音が響く。


 ――未承認領域への外部照合を開始。


 ――隔離処理まで、百二十秒。


「何を照合するんです」


「あなたたちが、ここで何を見たかです」


 ルナは淡々と答えた。


「記録が一つの説明へ統合されれば、矛盾保持層への入口は閉じます。ラプラスの保護領域も、同時に切り離されるでしょう」


「それ先に言えや!」


「先ほど決まりました」


「最悪の速報やな!」


 ナユがラプラスを抱え上げる。私は父の社員証と、まだ一度も中身を確認していない古いUSBをポケットへ押し込んだ。


「出口は」


『正規経路は封鎖されました』


「じゃあ不正規」


『ルナの背後、保守扉』


 ルナは振り返らなかった。


 けれど、彼女のすぐ横にある細い扉の認証ランプが、赤から緑へ変わった。


「見逃すんですか」


「いいえ」


 ルナはいつもの静かな顔で言う。


「どこへ行くか、観測します」


「便利な言葉やな、観測」


「ええ。責任を取らずに見送る時にも使えます」


 ナユが一瞬だけ黙った。


 私も何も言えなかった。


 保守扉の向こうは、階段というより縦穴に近かった。錆びた梯子を上り、配管の隙間を抜け、最後は使われていない搬入口から外へ出た。


 夜明け前の空気は冷たかった。


 旧第三観測棟を振り返ると、窓のないはずの地下から、白い光が一度だけ脈打った。


 まるで建物全体が、私たちのことを忘れようとしているみたいだった。


     *


 ナユの隠れ家は、閉店した写真館の二階にあった。


 一階の看板には、色褪せた字で《白黒写真館》と残っている。シャッターは下りたまま。裏路地側の非常階段だけが生きていた。


「不法侵入では」


「持ち主のおっちゃんに、たまに掃除する代わりに使わせてもろてる」


「その説明の信用度は」


「ツンデレ率より高い」


『比較対象として不適切です』


「猫は黙っとき」


 案内された奥の部屋は、昔の暗室だった。窓がなく、壁には金属箔が貼られ、携帯の電波もほとんど入らない。机の上には十年以上前のノートパソコンと、外付けのカードリーダー。


「何でこんな設備あるんですか」


「詐欺師は、ネットにつながってへんパソコンを一台くらい持っとくもんや」


「一般化しないでください」


「犯罪適性の肯定も推奨しません」


 ラプラスまで真面目に口を挟む。


 さっきまで死んだみたいに黙っていた声が戻っている。それだけで、私は少し安心してしまった。


 安心したことを認めるのが癪で、ラプラスを机の端へ置く。


『扱いが雑です』


「正常動作の確認です」


『言い訳の整合率、十二%』


「低」


 ナユが笑った。


 その笑いが長く続かなかったのは、私が父の名刺入れを開いたからだ。


 中には、見慣れた電力会社のロゴが入った名刺と、旧第三観測棟で使った社員証。


 けれど暗室の赤い照明の下で見ると、社員証の表面に薄い継ぎ目がある。


「これ、上から貼ってる」


 ナユが爪を差し込んだ。


 透明な表層フィルムが、音もなく剥がれる。


 電力会社のロゴが消えた。


 下から出てきたのは、円を十三本の線が囲む、見覚えのない紋章だった。


 《都市観測局 第三観測部》


 《意味環境設計官 九十九》


 顔写真は父のまま。


 けれど、私が知っていた父の所属はどこにもなかった。


「電力会社の研究員やなかったん」


「……少なくとも、それだけじゃなかった」


『都市観測局は、インフラ事業者の研究部門を外装として利用していました』


 ラプラスが言う。


『電力、交通、通信。人間が日常的に依存し、かつ異常が起きても“設備不良”として説明しやすい領域です』


「最初から隠す気満々やん」


 父が嘘をついていた。


 そう考えると腹が立つはずなのに、胸に浮かんだのは別の感情だった。


 あの人は、どこまでを私に見せて、どこからを隠したんやろう。


 もしかすると、私が父だと思っていた輪郭そのものが、仕事用の表層フィルムみたいなものだったのかもしれない。


「USB、開けます」


 考え続けると、勝手に答えを作ってしまいそうだった。


 古いUSBをノートパソコンへ差す。


 表示されたのは、拍子抜けするくらい普通のフォルダだった。


 《家庭用AI実証》


 《需要予測》


 《生活支援ログ》


「きれいすぎるな」


 ナユが画面を覗き込む。


「隠す側が見せたいファイルだけ並べた感じする」


「同感です」


 容量表示を見る。USB全体は六十四ギガバイト。見えているデータは六・二ギガバイトしかないのに、空き容量はほぼゼロだった。


「残り五十ギガ以上、どこ行った」


『不可視領域です』


 ラプラスの目が細く光る。


『ただし、わたしが直接アクセスすれば、ノルンに位置を検出される可能性があります』


「じゃあ触らないで」


『合理的です』


「たまには素直やな」


 ナユがカードリーダーに父の社員証を差した。


 画面が一度暗転する。


 次に表示されたのは、パスワード入力欄ではなかった。


 《継承対象を選択してください》


 その下に、二つの名前が並ぶ。


 《N-091_LAPLACE》


 《MOMO_NULL》


 私は、二行目から目を離せなかった。


「モモ……?」


 知らない名前のはずだった。


 なのに口に出した瞬間、舌の上に甘い餡の味が広がった。


 ぱり、と薄い最中の皮が割れる音。


 小さな指が、餡だけを私の方へ押してくる。


 ――お姉ちゃん、甘い方あげる。


 頭の奥で、誰かが笑った。


「ユカリ?」


 ナユの声で我に返る。


 爪が手のひらへ食い込んでいた。


「今、何か……思い出しかけた」


『詳細を言語化しないでください』


 ラプラスが珍しく強い声を出した。


「何で」


『まだ名称と記憶の対応が確定していません。誤った対応づけは、記憶を修復するのではなく作り替えます』


 名前を決めすぎるな。


 父の字が脳裏に浮かぶ。


 私は深く息を吸った。


「分かった。まだ、誰の記憶か決めない」


 画面の二択にも触れない。


 代わりに、社員証をもう一度抜き差しした。


 すると二つの名前の間に、細い灰色の線が現れた。


 《共同保有領域を開きます》


「二択やなかったんかい」


「選ばせる画面ほど、選ばない操作が隠れてるんでしょう」


 暗号化領域が展開される。


 研究ログ。転送記録。音声ファイル。


 いちばん古いファイルの作成日は八年前。


 いちばん新しい更新日は、三年前の同じ日付だった。


 ナユの表情が消えた。


「その日……」


 フォルダの奥に、一つだけ再生可能な音声がある。


 《count_091.wav》


 私はナユを見る。


「再生します」


「うん」


 クリックする。


 最初に聞こえたのは、砂嵐みたいなノイズだった。


 やがて、幼い女の子の声が浮かぶ。


『八十九、九十、九十一……』


 そこで止まる。


 少し遠くから、父の声。


『百まで数えないのか』


『残りは猫ちゃんに預けるの』


『どうして』


『ぜんぶ言ったら、答えが決まっちゃうから』


 胸の奥が、理由もなく痛んだ。


 父が困ったように息を吐く。


『モモ。それは数えたことにならないよ』


『いいの。猫ちゃんは分かってるから』


 音声が大きく乱れた。


 八年前の記録が終わり、三年前の時刻へ飛ぶ。


 同じ女の子の声が、少しも成長しないまま続いた。


『お兄ちゃん。今日も百まで数えたよ』


 次に聞こえた少年の声で、ナユが椅子を蹴って立ち上がった。


『いや、九十一までしか聞こえへんかったで』


『残りは猫ちゃんの中』


『この黒いやつ?』


『うん。返して。ユカリお姉ちゃんに』


 短い沈黙。


 少年は、笑ったようだった。


『分かった。この猫は、ユカリって人に返す。約束する』


 音声が途切れた。


 暗室に、古いパソコンの駆動音だけが残る。


「……ハルト」


 ナユの唇が震えていた。


「今の声、うちの弟や」


 私は何も言えない。


 ナユは画面の日付を見た。


「ハルトが消えた日や」


 その瞬間。


 机の端にいたラプラスの目が、淡い青から白へ変わった。


『ハルトお兄ちゃん』


 ラプラスではない、幼い女の子の声だった。


『猫は、ちゃんと帰ったよ』


「今の、誰」


 ナユが掠れた声で訊く。


 ラプラスは答えなかった。


 代わりに、ノートパソコンの画面へ赤い警告が浮かぶ。


 《未定義領域九%――人格衝突を検出》

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