第十九話 USBの中身は、二つの名前を持っている
問いは、答えを待っているように見えて、たいてい先に道を用意している。
――次は、あなたが誰を迎えに行く番?
地下四階のいちばん大きなモニタに浮かんだ赤い文字を、私は黙って睨んでいた。
「それ、今ここで答えたらあかんやつやで」
ナユが言う。
「分かってます」
「分かってる顔に見えへん」
「今の私の顔を数値化しないでください」
『直接回答は推奨しません』
台座の上で、再起動したばかりのラプラスが小さく告げた。
『発話した固有名は、救出対象として登録される可能性があります。登録後は、対象以外の可能性が切り捨てられます』
「ほんま、答えさせるふりして選択肢を減らすん好きやな」
ナユがモニタへ中指を立てかけて、ルナを見た。
「これもあんたらの親切設計?」
「現行ノルンの仕様ではありません」
ルナは円筒の向こうで、赤い文字を見つめていた。
「では誰の仕様ですか」
「分からないから、私はここにいます」
それを認める声は、これまでより少しだけ人間らしかった。
次の瞬間、部屋中のモニタが一斉に白くなった。
低い警告音が響く。
――未承認領域への外部照合を開始。
――隔離処理まで、百二十秒。
「何を照合するんです」
「あなたたちが、ここで何を見たかです」
ルナは淡々と答えた。
「記録が一つの説明へ統合されれば、矛盾保持層への入口は閉じます。ラプラスの保護領域も、同時に切り離されるでしょう」
「それ先に言えや!」
「先ほど決まりました」
「最悪の速報やな!」
ナユがラプラスを抱え上げる。私は父の社員証と、まだ一度も中身を確認していない古いUSBをポケットへ押し込んだ。
「出口は」
『正規経路は封鎖されました』
「じゃあ不正規」
『ルナの背後、保守扉』
ルナは振り返らなかった。
けれど、彼女のすぐ横にある細い扉の認証ランプが、赤から緑へ変わった。
「見逃すんですか」
「いいえ」
ルナはいつもの静かな顔で言う。
「どこへ行くか、観測します」
「便利な言葉やな、観測」
「ええ。責任を取らずに見送る時にも使えます」
ナユが一瞬だけ黙った。
私も何も言えなかった。
保守扉の向こうは、階段というより縦穴に近かった。錆びた梯子を上り、配管の隙間を抜け、最後は使われていない搬入口から外へ出た。
夜明け前の空気は冷たかった。
旧第三観測棟を振り返ると、窓のないはずの地下から、白い光が一度だけ脈打った。
まるで建物全体が、私たちのことを忘れようとしているみたいだった。
*
ナユの隠れ家は、閉店した写真館の二階にあった。
一階の看板には、色褪せた字で《白黒写真館》と残っている。シャッターは下りたまま。裏路地側の非常階段だけが生きていた。
「不法侵入では」
「持ち主のおっちゃんに、たまに掃除する代わりに使わせてもろてる」
「その説明の信用度は」
「ツンデレ率より高い」
『比較対象として不適切です』
「猫は黙っとき」
案内された奥の部屋は、昔の暗室だった。窓がなく、壁には金属箔が貼られ、携帯の電波もほとんど入らない。机の上には十年以上前のノートパソコンと、外付けのカードリーダー。
「何でこんな設備あるんですか」
「詐欺師は、ネットにつながってへんパソコンを一台くらい持っとくもんや」
「一般化しないでください」
「犯罪適性の肯定も推奨しません」
ラプラスまで真面目に口を挟む。
さっきまで死んだみたいに黙っていた声が戻っている。それだけで、私は少し安心してしまった。
安心したことを認めるのが癪で、ラプラスを机の端へ置く。
『扱いが雑です』
「正常動作の確認です」
『言い訳の整合率、十二%』
「低」
ナユが笑った。
その笑いが長く続かなかったのは、私が父の名刺入れを開いたからだ。
中には、見慣れた電力会社のロゴが入った名刺と、旧第三観測棟で使った社員証。
けれど暗室の赤い照明の下で見ると、社員証の表面に薄い継ぎ目がある。
「これ、上から貼ってる」
ナユが爪を差し込んだ。
透明な表層フィルムが、音もなく剥がれる。
電力会社のロゴが消えた。
下から出てきたのは、円を十三本の線が囲む、見覚えのない紋章だった。
《都市観測局 第三観測部》
《意味環境設計官 九十九》
顔写真は父のまま。
けれど、私が知っていた父の所属はどこにもなかった。
「電力会社の研究員やなかったん」
「……少なくとも、それだけじゃなかった」
『都市観測局は、インフラ事業者の研究部門を外装として利用していました』
ラプラスが言う。
『電力、交通、通信。人間が日常的に依存し、かつ異常が起きても“設備不良”として説明しやすい領域です』
「最初から隠す気満々やん」
父が嘘をついていた。
そう考えると腹が立つはずなのに、胸に浮かんだのは別の感情だった。
あの人は、どこまでを私に見せて、どこからを隠したんやろう。
もしかすると、私が父だと思っていた輪郭そのものが、仕事用の表層フィルムみたいなものだったのかもしれない。
「USB、開けます」
考え続けると、勝手に答えを作ってしまいそうだった。
古いUSBをノートパソコンへ差す。
表示されたのは、拍子抜けするくらい普通のフォルダだった。
《家庭用AI実証》
《需要予測》
《生活支援ログ》
「きれいすぎるな」
ナユが画面を覗き込む。
「隠す側が見せたいファイルだけ並べた感じする」
「同感です」
容量表示を見る。USB全体は六十四ギガバイト。見えているデータは六・二ギガバイトしかないのに、空き容量はほぼゼロだった。
「残り五十ギガ以上、どこ行った」
『不可視領域です』
ラプラスの目が細く光る。
『ただし、わたしが直接アクセスすれば、ノルンに位置を検出される可能性があります』
「じゃあ触らないで」
『合理的です』
「たまには素直やな」
ナユがカードリーダーに父の社員証を差した。
画面が一度暗転する。
次に表示されたのは、パスワード入力欄ではなかった。
《継承対象を選択してください》
その下に、二つの名前が並ぶ。
《N-091_LAPLACE》
《MOMO_NULL》
私は、二行目から目を離せなかった。
「モモ……?」
知らない名前のはずだった。
なのに口に出した瞬間、舌の上に甘い餡の味が広がった。
ぱり、と薄い最中の皮が割れる音。
小さな指が、餡だけを私の方へ押してくる。
――お姉ちゃん、甘い方あげる。
頭の奥で、誰かが笑った。
「ユカリ?」
ナユの声で我に返る。
爪が手のひらへ食い込んでいた。
「今、何か……思い出しかけた」
『詳細を言語化しないでください』
ラプラスが珍しく強い声を出した。
「何で」
『まだ名称と記憶の対応が確定していません。誤った対応づけは、記憶を修復するのではなく作り替えます』
名前を決めすぎるな。
父の字が脳裏に浮かぶ。
私は深く息を吸った。
「分かった。まだ、誰の記憶か決めない」
画面の二択にも触れない。
代わりに、社員証をもう一度抜き差しした。
すると二つの名前の間に、細い灰色の線が現れた。
《共同保有領域を開きます》
「二択やなかったんかい」
「選ばせる画面ほど、選ばない操作が隠れてるんでしょう」
暗号化領域が展開される。
研究ログ。転送記録。音声ファイル。
いちばん古いファイルの作成日は八年前。
いちばん新しい更新日は、三年前の同じ日付だった。
ナユの表情が消えた。
「その日……」
フォルダの奥に、一つだけ再生可能な音声がある。
《count_091.wav》
私はナユを見る。
「再生します」
「うん」
クリックする。
最初に聞こえたのは、砂嵐みたいなノイズだった。
やがて、幼い女の子の声が浮かぶ。
『八十九、九十、九十一……』
そこで止まる。
少し遠くから、父の声。
『百まで数えないのか』
『残りは猫ちゃんに預けるの』
『どうして』
『ぜんぶ言ったら、答えが決まっちゃうから』
胸の奥が、理由もなく痛んだ。
父が困ったように息を吐く。
『モモ。それは数えたことにならないよ』
『いいの。猫ちゃんは分かってるから』
音声が大きく乱れた。
八年前の記録が終わり、三年前の時刻へ飛ぶ。
同じ女の子の声が、少しも成長しないまま続いた。
『お兄ちゃん。今日も百まで数えたよ』
次に聞こえた少年の声で、ナユが椅子を蹴って立ち上がった。
『いや、九十一までしか聞こえへんかったで』
『残りは猫ちゃんの中』
『この黒いやつ?』
『うん。返して。ユカリお姉ちゃんに』
短い沈黙。
少年は、笑ったようだった。
『分かった。この猫は、ユカリって人に返す。約束する』
音声が途切れた。
暗室に、古いパソコンの駆動音だけが残る。
「……ハルト」
ナユの唇が震えていた。
「今の声、うちの弟や」
私は何も言えない。
ナユは画面の日付を見た。
「ハルトが消えた日や」
その瞬間。
机の端にいたラプラスの目が、淡い青から白へ変わった。
『ハルトお兄ちゃん』
ラプラスではない、幼い女の子の声だった。
『猫は、ちゃんと帰ったよ』
「今の、誰」
ナユが掠れた声で訊く。
ラプラスは答えなかった。
代わりに、ノートパソコンの画面へ赤い警告が浮かぶ。
《未定義領域九%――人格衝突を検出》




