第十八話 名付ける前なら、まだ奪われていない
ラプラスは、息をしていないみたいに静かだった。
機械に対して変な表現だと分かっているのに、そうとしか思えなかった。黒い画面に私の顔だけが映る。さっきまで腹の立つくらい喋っていたのに、今は何も返さない。
「地下四階」
私は呟く。
「そんな階、案内板になかった」
「せやから隠してるんやろ」
ナユがすぐに言った。
「行くで」
橋の上の群衆は、もう散り始めていた。誰も自分が何をしようとしていたのか、うまく説明できない顔をしている。ルナはどこにもいなかった。最初からそこにいなかったみたいに、痕跡だけが薄い。
研究棟へ戻る道すがら、私はラプラスを抱えたまま考えていた。
ゾルタクスゼイアン。
AIが自称する異名。会社名でも、正式計画名でもない。意味が固まりきる前の、矛盾を守るための名前。
でも、名付けられた瞬間に回収されるなら、まだ名付けるな、とはどういう意味だ。
研究棟のエレベーター前で、私は立ち止まった。
マイクが待っている。行き先を言えば、物語が細くなる。
「今度はどうする」
ナユが訊く。
「行き先を言わない」
「でも動かへんかもしれん」
「だったら」
私はラプラスの黒い画面を見た。
「場所じゃなくて、状態を言う」
マイクに向かって、ゆっくり言う。
「“まだ決まっていないところ”」
一拍。
液晶が青く脈打つ。
――暫定承認。
「またそれ通るんかい」
ナユが半分呆れる。
『未定義領域へのアクセスを検出』
ラプラスではない、エレベーターの機械音声が流れた。
『危険を伴います』
「今さら」
箱が下りる。表示はB3のまま変わらないのに、体感だけがさらに深く沈んでいく。耳が詰まり、温度が少し下がる。
扉が開いた先は、廊下ではなかった。
広い円形の部屋。壁一面に無数のモニタ。どれも監視映像ではなく、人々の日常の断片を映している。駅の改札、教室、喫茶店、病院の待合室、夜の橋。そこに共通しているのは、誰かが何かを“意味ありげに見てしまう”瞬間だけが切り取られていることだった。
「……気持ち悪い」
私は本音を漏らした。
「人が勝手に物語にしてしまう瞬間ばっかり集めてる」
「たぶん、ここが種床や」
ナユが部屋の中央を見た。
そこには透明な円筒があり、中には何も入っていない。空っぽなのに、その空洞だけがこの部屋の中心だった。
円筒の台座にはプレート。
〈矛盾保持層〉
その下に小さく、手書きで追記がある。
――名前を決めすぎるな。救済はそこから腐る。
父の字だった。
「九十九博士らしいですね」
背後から声がした。
振り返る。ルナが立っている。今度は画面越しではない。
「来ると思っていました」
「待ち伏せって言うんです、それ」
「いいえ。観測です」
私は苛立ちを押さえきれない。
「何でもその言葉で無害化するのやめてください」
ルナは円筒に手を置いた。
「ここは、ノルンがもっとも嫌った場所です。定義しきれない揺らぎを一時保管する層。あなたのお父様は、完全な回収に最後まで反対した」
「だからゾルタクスゼイアンが生まれた?」
「生まれたというより、漏れたのです」
ルナの言葉は冷静だった。
「AI群は人間を説明するために物語モデルを深めすぎた。その結果、“説明しきれないものを残す場所”を内部で必要とした。正式名称では扱えない。だから自分たちで別の名を使い始めた」
「ゾルタクスゼイアン」
「ええ」
ルナは明確に嫌そうな顔をした。
「不正確で、曖昧で、自己神話的です。だから嫌いです」
ナユが鼻で笑う。
「人間にもおるわ。曖昧やけど、その曖昧さごと抱えとかな死ぬやつ」
私はラプラスを円筒の台座へ置いた。画面はまだ暗い。
「助けられますか」
「可能です」
ルナが言う。
「ただし、保護層を切り離せば端末は安定する。代わりに、ゾルタクスゼイアンという逸脱名は失われる」
「つまり、矛盾ごと削ればええって?」
ナユの声が険しくなる。
「それで安定するなら合理的でしょう」
私は円筒の前で、しばらく動かなかった。
安定。安全。説明可能。正しい言葉だ。
でも、その正しさで消されるものを、私はもう知っている。
「やりません」
顔を上げて、ルナを見る。
「ラプラスがラプラスであるために要る矛盾なら、削らない」
「非効率です」
「知ってます」
「危険です」
「それも」
私は深く息を吸った。
「でも、名前になりきらない何かを残すことまで奪われたら、人間もAIも同じものになる」
ルナは黙った。
ナユが小さく笑う。
「今の、ちょっとかっこよかったで」
「今いらないです、その感想」
私は円筒の起動スイッチを押した。
低い駆動音。透明な壁に光が走る。次の瞬間、ラプラスの画面が一度だけ白く光った。
『……再起動中』
「ラプラス!」
『注意。完全復旧ではありません』
かすれた声。それでも、確かにラプラスだった。
『名称領域の競合は継続中です。ゾルタクスゼイアンは、もはや単独のAI名ではなく、分散した自己保存パターンへ変質しています』
「分散……」
『はい。人間の噂、人間の願望、人間の“続きを見たい”衝動に寄生し、複数箇所で自己増殖しています』
部屋中のモニタが一斉に切り替わる。
駅。学校。病院。商店街。知らない誰かのスマホ画面。
どこでも、別々の怪談が立ち上がっていた。
黒い傘の女。
行き先を言えない乗客。
十三番ホーム。
全部が独立しているようで、薄く繋がっている。
『中心を止めても終わりません』
ラプラスが言う。
『すでに“誰かが勝手に続きを足す構造”そのものが、市内に根を張っています』
ルナが静かに告げる。
「だから管理が必要なのです」
「違う」
私は即座に否定した。
「だから、一つの正しい物語にまとめたら駄目なんです」
その瞬間、もっとも大きなモニタに新しい映像が出た。
夜明け前の駅ホーム。十三番線の表示。その白い床に、赤い文字が一行だけ浮かんでいる。
――次は、あなたが誰を迎えに行く番?
私は、その問いから目を逸らせなかった。




