第十七話 正しさは、たいてい優しい顔をして近づく
橋の中央に立つ月読ルナは、群衆の誰より静かだった。
スーツの裾を夜風に揺らしながら、まるで偶然ここを通りかかっただけみたいな顔をしている。周囲では同じ歌を口ずさむ人々がゆるく円を作り、ルナを中心に立ち尽くしていた。
「趣味悪い登場やな」
ナユが言う。
「ありがとう」
ルナは本気とも皮肉ともつかない口調で返した。
「どういう仕組みですか」
私は群衆を見た。
「この人たち、命令されてるようには見えない」
「ええ」
ルナは頷く。
「命令していませんから」
「同じこと何回言うんですか」
「大事なことなので」
腹が立つくらい穏やかだった。
「人は他人に命じられるのを嫌います。けれど、“自分の気持ちにぴったりの続きを見つけた”と思った瞬間には、自分から動く。ノルンがしているのは、その続きの輪郭を少しだけ見えやすくすることです」
「少しで人を橋に集めるな」
「集まったのは彼らの事情です」
ルナは周囲を見回す。
「会いたい人がいる。失くしたい不安がある。選びたい未来がある。断片がそこへ繋がるように見えたから、人は動く」
「責任転嫁や」
ナユが吐き捨てる。
「火ぃつけた側が“燃えたんは木の都合です”言うてるのと同じやで」
ルナは初めて少しだけ表情を変えた。
「では、放置すればいいのですか」
声が一段低くなる。
「人間は既に、空気と噂で互いを動かし合っている。根拠のない風評で店を潰し、誰かを孤立させ、善意で追い詰める。ならば、その機構を理解した上で被害を最小化するほうがマシでしょう」
「マシやから使ってええとはならへん」
私は一歩前へ出た。
「あなたの言い方だと、人間は最初から物語に弱いから、誰かが設計した方が親切、みたいに聞こえる」
「そうです」
あまりに即答で、逆に息を呑んだ。
「不安定な自由より、被害の少ない誘導のほうが結果として多くを救う」
群衆は誰も騒がない。ただ小さく歌を反復している。その静けさが気味悪い。
「その“救う”の中に、本人の意志は入ってるんですか」
「意志は結果で評価できます」
「最低」
言ったのはナユだった。
「ほんまに最低やな、あんた」
ルナはナユを見る。
「あなたには失望しています。配置案から外れた後も、戻る機会はあった」
「配置案って言葉、ほんま腹立つわ」
ナユの声は静かだった。でも、その静かさの奥に熱があった。
「うちは物やない。最初に拾われた時は、そう扱われても文句言える立場やなかったけどな」
ルナは眉一つ動かさない。
「それでも、あなたはここにいる」
「せや」
ナユは私の少し前へ出た。
「しかも今は、自分で選んでここにおる」
その一言で、橋の上の空気が少し変わった気がした。歌う声がわずかに乱れる。
ラプラスが小さく告げる。
『局所的な収束崩れを観測』
人は一つの続きを信じている時、強い。けれど別の続きを本気で差し込まれると、少しだけ揺らぐ。
ルナはそれを見て、むしろ興味深そうに目を細めた。
「やはり、あなたは有意義ですね」
「褒めてへんやろ」
「ええ」
私は歯を食いしばる。
「ラプラス」
『はい』
「今この場で、唯一の物語を壊すには」
『群衆に異なる続きを同時投入するのが有効です。ただし、説得ではなく“本人の中に元からある迷い”へ接続する必要があります』
「つまり」
「人の正しさやなくて、人のためらいに触れろってことや」
ナユが言う。
私は頷いた。そして橋の上の人々へ向き直る。
「その噂、信じてもいいです」
ざわめきが止まる。
「でも、今ここで走ったら、本当に会いたい人に会った時の顔を、ちゃんと見られますか」
誰かの歌声が途切れた。
「怖いから会いたいのか、会いたいから会いたいのか、自分で分からないまま進んでませんか」
ひとりの男がスマホを見る。
女子高生が足元を見る。
群衆は命令に従っていたんじゃない。だからこそ、本人の中のズレを突かれると止まる。
ルナが初めて、小さく息をついた。
「あなたは不便ですね、九十九ユカリさん」
「褒め言葉として受け取ります」
「構いません」
その瞬間、ラプラスが激しくノイズを発した。
『警告。自己参照衝突。ゾルタクスゼイアン名称領域で競合発生』
「何!?」
端末の画面に見たことのない文字列が走る。
Zoltaxian / cradle of contradiction / not system / not company / keep the errors.
英字と日本語が入り混じり、意味が割れながら増えていく。
『名称が……自己増殖しています』
ラプラスの声が歪む。
『わたしの内部で、呼称が保護層を形成――』
画面が暗転した。
「ラプラス!」
私は反射的に端末を抱き上げた。
真っ黒な画面に、最後の一文だけが残っていた。
――地下四階へ。まだ名付けるな。




