第十六話 あなたを信じる証拠は、だいたい遅れて届く
三年前の写真の中で、父は笑っていなかった。
けれど隣に立つナユは、今より幼い顔で、カメラを真っ直ぐ見ていた。制服ではない。簡素なパーカー姿。背景は研究棟の屋上らしい。風が強かったのか、髪が頬に貼りついている。
「……説明、して」
私はスマホをナユへ向けた。
群衆のざわめきはまだ遠くにあるのに、ここだけ音が抜けたみたいに静かだった。
ナユは写真を見て、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「やっぱり出すか」
「やっぱり、って何」
「その写真、いつか見せられると思ってた」
逃げない。けれど先に謝りもしない。そこが腹立たしくて、逆に目が離せない。
「うちは中学入る前、一時期だけノルンの観測協力対象やった」
「協力対象」
「分かりやすく言えば、拾われた側や」
ナユの声は妙に平坦だった。
「路地で寝とる子どもに、大人が“安全な居場所”と“ごはん”を出したら、だいたい断れへん」
私は言葉を失う。
ナユは続けた。
「うちは人の空気読むのが早かったし、嘘とほんまの境目をぼかすんも得意やった。せやから向こうにとっては使いやすかった。案内役にも、囮にも、観測の媒介にもなれる」
「父さんも、それを知ってた?」
「知ってた」
「止めなかった?」
「止めようとして、間に合わんかった」
即答だった。
私は息を呑む。
「それ、都合よすぎませんか」
「せやな」
ナユは笑わなかった。
「都合ええ話に聞こえるんは分かる。でも、あの人は途中から本気で嫌がってた。人を導線として置くやり方が、一回成功したら止まらんようになるって」
ラプラスが低く補足する。
『該当傾向はログと一致します。九十九博士は後期文書で“意味感染は自己増殖するため、もはや制御ではなく祈りに近い”と記述しています』
「祈り」
「広めた側が、最後は“うまく収まってくれ”って願うしかなくなるってことや」
ナユが言う。
その表現は、嫌になるほど腑に落ちた。噂は命令より速い。けれど速いものは、もう持ち主の手を離れている。
「じゃあ、今の黒い傘の噂も」
「誰かが投げた。けど、もう誰のものでもない」
私たちは駅前の喧騒を離れ、川沿いの遊歩道まで歩いた。少しでも人の少ない場所で考えたかった。
ベンチに座る。夜風が吹く。遠くで救急車の音が鳴る。
「ユカリ」
ナユがまっすぐ私を見る。
「うちは最初、あんたに近づくよう置かれてた。それはほんまや」
胸が痛む。
「でも、途中から仕事やなくなった」
「途中って、いつ」
「たぶん、あんたが“自分が怖い”って正直に言うた時」
思い当たる場面がありすぎて、逆に分からなかった。
「人の心が読めるのに、人を信じるのが下手で、せやのに助けようとしてまう。あんなん見て、距離保てるほど器用ちゃう」
ナユは肩をすくめた。
「情けないけど」
私はすぐに返事ができなかった。
信じる理由には足りない。けれど、全部を切るには十分すぎるくらい人間的だった。
その時、ラプラスが警告音を鳴らす。
『上流側、人流異常』
橋の方を見ると、また人が集まり始めていた。今度は黒い傘じゃない。みんな、同じ歌を小さく口ずさんでいる。
「何あれ」
『新規派生です。噂は一つ潰すと、しばしば別形で自己保存します』
「生き物かよ」
『物語はそうです』
私は立ち上がった。
「ラプラス、源は」
『まだ点に絞れません。ただし、自己保存性の高いフレーズが繰り返されています。“迎えは橋の上で来る”』
ナユが顔を上げる。
「それ、昔からある水難系の怪談を混ぜてる」
「合わせ技で拡散しやすくしてるんだ」
『はい。既存の恐怖と個人の願望を接合しています』
そこへ、また送信元不明の音声が届いた。
今度は短い。再生する。
『ナユを責めるな、とは言わない。でも、彼女は配置されたあと、自分で選び直した』
父の声だった。
『人間が選び直せることだけが、この実験の失敗証明になる』
私はスマホを握ったまま、動けなかった。
ナユも、何も言わない。
信じきれない。でも、疑うだけでもいられない。
その曖昧さが、今の私には唯一まともな足場に思えた。
「……ナユ」
「うん」
「まだ決めないって言ったの、撤回しません」
「うん」
「でも、一緒に行きます」
ナユの息が、少しだけほどけた。
「それで十分や」
橋の上の人波が、ゆっくりこちらを向く。
まるで、私たちの会話が終わるのを待っていたみたいに。
その中心に、月読ルナが立っていた。




