第三十二話 二本のタイムの葉
日曜日のガゼボには、金色の飾りも、候補令嬢の予定表もなかった。
白い卓には、小さな花瓶が一つ。
植え直したタイムと、王宮の温室で咲いた白い花が挿してある。
レオナルトは一人で待っていた。
「来てくれてありがとう」
「一か月も無駄な散歩をなさったのですから、今日はお待たせしません」
「一か月分を返されるのかと思った」
「……少し考えました」
彼の顔が強張り、笑ってしまう。
「冗談です」
「今のは、あまり心臓によくない」
「殿下にも、怖いものがおありですからね」
「一番怖いものが目の前にいる」
「失礼ですね」
「失うのが怖いという意味だ」
真顔で返され、今度は私が言葉に詰まった。
レオナルトは、卓上へ置いていた小さな箱を持ち上げた。
「昨日、古い手巾を返してもらった」
「はい」
「だから、新しいものを渡したい」
箱の中には、真新しい白い手巾が入っていた。
縁には若草色の細い刺繍。隅には、小さなタイムの葉が二本、並んでいる。
一本は少し傾き、もう一本が根元を支えるように描かれていた。
「私が植えた苗ですか?」
「ああ。傾いていた方がお前だ」
「殿下の苗も、十分に不格好でした」
「刺繍師には、二本とも少し傾けるよう頼んだ」
確かに、支えている方も真っ直ぐではない。
指先で刺繍へ触れた。
古い手巾は、十二歳の数分へ縋るためのものだった。
新しい手巾には、失敗し、泥で汚れ、二人で植え直した時間が刻まれている。
「これは、使ってもよいのですか」
「もちろんだ」
「汚れるかもしれません」
「洗えばいい」
「古くなります」
「その頃には、次のものを贈る」
過去へしまい込むためではなく、これから使うもの。
手巾を受け取ると、レオナルトは一度息を吸う。
制度廃止を宣言したときより、今の方が緊張しているように見えた。
「候補が一人だけ残ったから選ぶのではない。日曜日の令嬢だからでも、記憶を失ったお前を守りたいからでもない」
灰色の瞳が、私だけを見る。
彼は胸元から、古い手巾を取り出した。
「十二歳の夜に出会ったお前も、五年間大人しく耐えていたお前も、記憶を失ったふりをして逃げたお前も」
新旧二枚の手巾が、二人の間にある。
「厨房で失敗し、泥へ膝をつき、俺へ怒鳴り、一か月もすれ違おうとしていたお前も。全部を含めた、フィオナ・ベルクハイムに申し込む」
レオナルトが目の前で片膝をついた。
「俺と婚約してほしい」
以前の婚約者宣言は、私が尋ねることもなく、いつの間にか決められた。
今は、私の答えを待ってくれている。
「今後、私へ尋ねずに決めませんね?」
「決めない」
「大人しくしているときも、何を望んでいるのか聞いてくださいますね?」
「聞く」
「嫌だと言ったら、止まりますか?」
「止まる」
「会いたいと言ったら?」
「どこへでも行く」
「公務中でも?」
レオナルトが一瞬黙る。
「可能な限り急ぐ」
「そこは、王太子として正しい答えです」
新しい手巾を胸元へ抱いた。
「そのお申し込みを、お受けします」
「本当に?」
「聞き返すのですか」
「一か月待ったので、念のため」
「お受けします」
レオナルトの肩から、目に見えて力が抜けた。
今度は、はっきり繰り返した。
「ですが、過去のことをすべて許したわけではありませんからね」
「ああ」
「これから、少しずつです」
「俺も変わる」
レオナルトは立ち上がったが、すぐには触れなかった。
「手を取ってもいいか」
「今日は、私からです」
彼の大きな手を取ると、わずかに震えているのに気が付き、少しだけ笑ってしまう。
「明日、正式な婚約が発表されたあと、殿下からお願いします」
「わかった」
翌日は日曜日。
候補としてではなく、二人が婚約者として選び直した、初めての日曜日になる。
正式な婚約が王宮中へ告げられた翌朝、レオナルトは私の部屋の前で待っていた。
候補制度が廃止され、七人の曜日がなくなったあとの最初の日曜日。
この日は、金色ではなく淡い藤色のドレス。
胸元には、昨日受け取った新しいタイムの手巾がある。
「お待たせしました」
「いや。今来たところだ」
扉の脇で控えるオルガが、ほんの少し視線を逸らした。
「一刻ほど前からいらしたとうかがいましたが」
「オルガ」
「私は何も申し上げておりません」
「おはようございます、レオナルト様」
笑いながらレオナルトの前へ立った。
名前を呼ぶと、彼の目が見開かれる。
「もう一度、呼んでくれないか」
「今、呼びました」
「聞き逃したかもしれない」
「では、諦めてください」
レオナルトは本当に残念そうな顔をした。
「昨日の続きを尋ねても?」
「どうぞ」
「手を取ってもいいか」
彼は右手を差し出した。
以前なら、王太子が婚約者へ腕を差し出すのは当然のことだった。
今は私の答えを待っている。
「お願いいたします」
そっと指を重ねると、大きな手が強く握り込まず、逃げられる程度の力でそっと閉じた。
二人は並んで庭園へ向かった。
通り過ぎる者たちが深く頭を下げる。
昨日までなら、その視線へ王太子の婚約者らしく応えなければと背筋を強張らせただろう。
今日は、レオナルトの手の温度を確かめながら歩いた。
「緊張しているか」
「少し」
「俺もだ」
「王会議よりも?」
「あのときは、すべきことが決まっていた」
「今日は?」
「お前へ一つずつ尋ねなければならない」
「面倒ですか?」
「いや。嬉しい」
日曜日のガゼボには、金色の飾りも予定表もない。
向かい合わせの椅子はそのままだが、レオナルトが一方を引く前に長椅子へ腰を下ろすと、隣を軽く叩く。
「今日は、こちらへ」
「向かいではなく?」
「五年間、見飽きました」
レオナルトは慎重に隣へ座った。
肩が触れそうで触れない。
自分から少し近づくと、彼の背が固くなった。
「緊張していらっしゃいます?」
「している」
「先ほども聞きました」
「近づかれると増す」
正直すぎる答えに、頬が熱くなってしまう。
誤魔化すように俯いていると、レオナルトは小さな箱を取り出した。
中には白金の指輪。
中央には若草色の石が一つ、その両脇へ小さな透明の石が添えられている。
内側には、二本のタイムの葉が刻まれていた。
「正式な婚約指輪だ。お前の指にはめてもいいか」
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




