第三十話 今度は二人で歩き始めた
「見ていた」
レオナルトは、すぐに答えた。
「……本当に?」
「お前は毎週、俺の紅茶が冷める前に女官へ合図した。雨の日には、濡れた近衛兵へ先に温かい飲み物を出すよう頼んでいた」
目を見開く。
「俺が書類を読んでいれば、返事を必要としない話題を選んだ。北部の薔薇の話も、王妃の書簡集の話も、途中で返事がなくても最後まで笑って話した」
「聞いていたのですか」
「全部」
「では、なぜ何も返してくださらなかったのです!」
「返せば、もっと聞きたくなると思った」
「何をです?」
「お前の話を。お前が何を好きで、何を考えているのか」
レオナルトは逃げずに続ける。
「好きだと気づかれるのが怖かった」
「特別に扱えば狙われるから、ではなかったのですか」
「それも事実だ」
「それだけではないのでしょう」
「ああ。王太子の好意として示せば、お前は断れない。俺がお前を縛ると思った」
「だから、何も尋ねず冷たくした?」
「正しい判断だと思おうとしていた」
「本当は?」
「お前に拒まれるのが怖かった」
彼の喉が動いたように見えた。
王太子らしくない告白。
「それを五年前に言ってくだされば!」
「言える男なら、五年も拗らせていない」
「威張るところではありません!」
「わかっている」
二人とも、少し笑った。
一か月前なら、理由を聞いても笑えなかっただろう。
今は、理由を免罪符にせず謝ったあとだから、情けなさに呆れることができる。
レオナルトは、もう一度私へ向き直った。
「見ていた。大人しく笑っていたお前も、ずっと」
私の右手へ、触れないまま視線を落とす。
「日曜日の終わりには、必ず礼を言った。俺が一言しか返さなかった日も。自分の紅茶が冷めていても、給仕の失敗にはしなかった。大人しく耐えていたお前も好きだった」
誰にも気づかれていないと思っていた。
レオナルトは続ける。
「失敗したお前も、泥だらけになったお前も、怒って六人を呼んだお前も好きだ。一か月も俺とすれ違おうとしていたお前も」
「最後は、殿下も同じでしょう……?」
「ああ」
「どれか一つではない。全部、フィオナだ」
十二歳の手巾へ縋っていた自分。
冷たい日曜日に笑っていた自分。
記憶を失ったふりをした自分。
厨房で失敗し、泥へ膝をつき、怒鳴った自分。
どれかを捨てなくてもよいのだろうか。
「私も、殿下が好きです……なんども、嫌いになろうとしたんです……でも、方法がわからないのです」
言葉にすると、胸の奥が静かになった。
「十二歳の夜から。冷たい日曜日を重ねても、嫌いにはなれませんでした。今の殿下を好きになったからといって、過去の痛みまで消えたわけではありません」
「ああ」
「ですから、好きだとわかっただけで、今すぐ婚約者へ戻ることはできません」
レオナルトの顔に痛みが走る。
それでも、彼は頷いた。
「待つ」
「一か月で、少しはお上手になりましたか?」
「無駄な散歩なら上達した」
その言葉に、思わず笑ってしまう。
「明日の夕刻、十二歳の夜会でお会いした回廊へ来てください」
胸元へ触れる。
古いタイムの手巾は、今日も内側のポケットに入っている。
「私はこれを持っていきます。殿下は、王太子でも、私の婚約者でもないお言葉を持ってきてください」
「わかった」
「明日までは、会いに来てはいけません」
「……一日か」
「一か月待てたのでしょう?」
「長かった」
「もう一日です」
レオナルトは不満そうだったが、今度は勝手に予定を変えなかった。
翌日の夕刻、十二歳の夜と同じ回廊には、噴水の音が届いていた。
燭台へ火が入り始め、白い柱へ長い影が落ちている。
私は、古い手巾を両手で持って待っていた。
レオナルトは一人で来た。
王太子の紋章をつけた上着ではなく、飾りの少ない濃紺の服を着ている。護衛も側近も、回廊の外に残してきたらしい。
「王太子でも、婚約者でもないお言葉を持ってきてくださいましたか」
「持ってきたつもりだ」
「つもりでは困ります」
「厳しいな」
「五年と一か月、待った相手ですから」
レオナルトは、反論せず私の前へ立つ。
「俺は、レオナルトとしてお前が好きだ」
短く、飾りのない言葉。
「王太子妃として必要だからではない。日曜日の候補だからでも、記憶を失ったお前を守りたいからだけでもない。フィオナが何を望むのかを聞きたい。嫌だと言われれば止まり、待ってほしいと言われれば待つ。その上で、いつか俺を選んでほしい」
灰色の瞳が、夕暮れの光を映す。
手元の手巾を見下ろす。
「私は、あなたが好きです。けれど、好きだから何をされても許すわけではありません」
「ああ」
「守るためという言葉で、私へ何も聞かず決めないでください。大人しくしているときも、何を考えているのか尋ねてください」
「必ず聞く」
「私も、嫌われるのが怖いからと黙るのをやめます。怒っているなら怒ります。会いたいなら、会いたいと言います」
「それは助かる」
「あなたもです」
古い手巾を差し出した。
「これは、お返しします」
十二歳の数分だけを頼りに、五年間握り続けた布。
白かったはずの端は少し黄ばみ、折り目は擦れている。
「大切なものです。あの夜、痛みに気づいてくださったことを、私は忘れません」
レオナルトは、すぐには受け取らなかった。
「これだけに縋って待つ私は、今日で終わりにします。これからのあなたが何をするのかを見て、自分で選びます」
一歩近づき、彼の手を取ると、そっと掌に手巾を置く。
……ほんの少しの名残惜しさと共に。
「明日、候補制度の廃止を正式に告げる」
「はい」
「そのあとで、改めて婚約を申し込みたい」
「今は、まだ返事をしません」
「ああ」
「待てますか?」
「一か月で、少しは上達した」
「無駄な散歩をしていた方が?」
「会いには行かなかった」
「もう嘘をつくのはやめましょう」
「ああ」
レオナルトは、手巾を胸元へしまった。
「フィオナ。一緒に戻ってもいいか」
以前なら、当然のように腕を差し出しただろう。
今は答えを待っている。
「はい。今日は、ご一緒に」
私から隣へ並ぶ。
十二歳の夜に一人で戻った大広間へ、今度は二人で歩き始めた。
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