第二十九話 私は、記憶を失っていません
灰色の瞳が、まっすぐ私を見る。
「一目でも見られればと思って、毎日お前が通りそうな場所ばかり歩いた」
「それは、待っていると言えるのでしょうか」
「会いには行かなかった。そこだけは守った」
「すれ違おうとはしていたのですね」
「否定できない」
あまりに真面目な顔で答えるので、口元が緩んでしまう。
「書庫の茶器は、殿下のものだったのですね」
「あの日、お前が東棟へ向かったと聞いて、先回りしようとした」
「先に帰ってしまったではありませんか」
「姿を見たら、声をかけると思った」
「私は、声をかけてほしかったです」
口にしてから、二人で黙ると、外套の端を握った。
「私もです。殿下とすれ違うかもしれないと思って、執務室の近くを何度も歩きました」
「なぜ」
「殿下と同じです。一目だけでも、と思って」
レオナルトの目が見開かれる。
「では、俺たちは一か月も何をしていたんだ」
「無駄な散歩でしょうか」
「随分と歩いた」
「私もです」
小さな笑いが生まれた。
一か月分の重さが、少しだけほどける。
けれど、笑って終わりにはできない。
「フィオナ。謝りたい。候補へ入れたこと。最も長い日曜日へ置いたこと。守るという理由で冷たくしたこと。意思を聞かず婚約者だと呼んだこと。候補制度を終わらせると、また一人で決めたこと」
一つずつ、しっかりと言葉にしてくれている。
「すまなかった。許してほしいとは、まだ言えない。謝ったから戻ってきてほしいとも言わない」
頭を下げられるのを見て、唇を結んだ。
聞きたかった謝罪。
守るためだったという理由だけで終わらせず、自分が選んだ行動として認めている。
「お前が怒ったことは正しい。会いたくないと言ったことも。俺が寂しかったからといって、取り消させるつもりはない」
「私も、寂しかったです。怒ったことを後悔しているわけではありません。ですが、殿下がいない日曜日は、とても長かった」
「俺もだ」
「まだ朝の九時だと、何度も時計をご覧になったそうですね」
「オルガか」
「教えてくださいました」
「余計なことを」
少しだけ、以前の二人らしい言葉が戻る。
胸元へ右手を置いた。
この謝罪を、自分の嘘を隠したまま受け取ることはできない。
レオナルトの責任と相殺するためではない。
彼がしたことを軽くするためでもない。
自分の選択を、自分のものとして話すためだ。
「私も、お話ししなければならないことがあります」
「俺のしたことを軽くするために、謝る必要はない」
「違います。殿下のしたことは殿下のものです。私の嘘は、私のものです」
心臓の音が煩い。
少しでも落ち着けるため、息を吸った。
菫の香りがした階段。
冷たい寝具の中で選んだ逃げ道。
知らない人を見る顔を作った瞬間。
「私は、記憶を失っていません」
レオナルトの表情は何も変わらない。驚愕も怒りすらも。
その顔を見て眉を寄せる。
「殿下は、ずっとお気付きでしたよね?……いつから知っていたのですか」
「知っていたわけではない。疑っていた」
「では……?」
「目覚めた翌日だ」
あまりに早い。
もう少し、長い時間騙せていたかと思っていたのに。
「私が家名を答えられなかった、その翌日ですか?」
「ああ。家族や礼法の記憶は曖昧だと言いながら、父親が入ってきたとき、無意識に姿勢を正した」
言葉を失った。
あの一瞬で気が付かれていただなんて……
「薬指の付け根を親指で押す癖も出ていた。植物図鑑では、初めて見るはずの頁を迷わず開いた。市場では、俺が候補令嬢へ冷たかったことを知っている言い方を何度もした」
「では、ほとんど知っていたようなものではありませんか!」
「確信はなかった」
「また、そのような言い方を」
「問い詰めれば、お前は本当に何も覚えていないと言い張っただろう」
否定できない。
外套の上から腕を組んだ。
「疑っていたのに、婚約者だと言い張り続けたのですね」
「ああ」
「また『ああ』!」
声を上げると、レオナルトの口元がほんの少し緩んだ。
「笑わないでください!」
「笑っていない」
「その言い訳は、もう聞きました」
一か月ぶりに、彼へ腹を立てながら話している。
それが懐かしいと思ってしまう自分にも腹が立った。
「なぜ、私の嘘を暴かなかったのですか」
「お前が逃げようとしているとわかったからだ」
「候補制度から?」
「日曜日から。王太子妃教育から。俺からも」
最後の言葉が、胸へ刺さる。
「記憶を失ったふりは、お前が初めて自分で選んだ逃げ場だった」
「だから、守ったと?」
「それだけではない。俺も、その嘘へ逃げた」
レオナルトは、正直に言った。
風が回廊を抜ける。
「五年間のお前へ謝らず、記憶を失ったというお前へ優しくすれば、最初からやり直せると思った。候補では王宮へ置く理由が足りなかった。婚約者だと言えば、お前を守り、毎日そばにいられると考えた」
「私の嘘を、利用したのですね……」
「ああ」
「私の逃げ場を守ったのですか。それとも、ご自分の逃げ場にしたのですか」
「両方だ」
痛いほど正直な答えだった。
レオナルトは私を大切に思ってくれていた。
同時に、失いたくないという自分の望みで、彼女の嘘へ乗った。
善意だけではない。
だからこそ、少しだけ信じられる気がした。
「私は、候補から逃げるために嘘をつきました。セシリア様が怖かったからだけではありません。殿下の前で、また何も言えない日曜日へ戻ることが怖かった」
「ああ」
「それなのに、殿下が優しくなったら、嘘をやめられなくなりました。欲しかった言葉をいただくたび、もっと続けばよいと思いました」
自分のずるさを隠すことができない。
もうそれには、なんの意味もないとわかっているから。
「記憶がない私なら、殿下に嫌われていない。以前の私が傷ついた理由を知らないまま、愛されることができる。そう思いました」
「フィオナ」
「では、教えてください」
彼を見上げた。
喉が詰まりそうになるのを、なんと押し戻し言葉を続ける。
「殿下が好きになったのは、記憶を失ったふりをして、好き勝手に振る舞う私だけですか?大人しく日曜日へ通っていた私も、見ていましたか」
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