第二十八話 嘘をつくのが下手だ
レオナルトと離れてから、三週間が過ぎた。
候補制度は停止されたまま、王会議で正式な廃止の審議が続いている。
六人の元候補令嬢は、王宮の保護下でそれぞれの家と話し合っていた。
誰が何を選ぶのかは、まだ決まっていない。
マルグリットが騎士を目指すのか。エリザが商いを続けるのか。クララが王妃宮から離れるのか。
それは、今後それぞれが選ぶことだ。
私が結末まで決める必要はない。
机の上には、白い帳面が開かれている。
『私が自分で選んだもの』
厨房へ立つこと。
土へ触れること。
剣を持つこと。
市場で知らないことを尋ねること。
嫌なことへ怒ること。
セシリアを今は許さないこと。
最後の一行だけ、何度書こうとしても筆が止まった。
レオナルトを好きでいること。
会わなくなってから思い出すのは、十二歳の少年だけではない。
床へ落ちた人参を拾った手。
泥へ両膝をつき、傾いたタイムを支えた姿。
市場で値段を間違え、店主に銅貨を返されたときの苦い顔。
果実酒が馴染むまで待つと言った声。
今のレオナルトに会いたかった。
会いたい……けれど自分で、あんなことを言った。
あなたのせいです。全部が。
顔も見たくない。
どちらも本心。
怒ったことを取り消したいわけではない。
五年間傷ついたことも、勝手に婚約者へされたことも、正しかったことにはできない。
それでも、会いたい。
午後の報告へ来た側近へ声をかけた。
「オルガ様。殿下は、何か仰っていましたか」
「候補制度廃止の審議についてでしたら」
「そうではなくて」
先を言えず、指先で帳面の端を押さえる。
オルガは少しだけ目元を和らげた。
「フィオナ様のことをお尋ねにならない日はございません」
「それでも、来ないのですね」
「お言葉を守っていらっしゃいます」
胸が痛む。
レオナルトは、ようやく私が言ったことを守っている。
その変化を望んだのは自分だ。
「殿下は、お元気ですか」
「王太子としては、問題なく」
「王太子としては?」
「一人の男性としては、同じ道を何度も散歩なさっております」
「……え?」
その言葉に思わず顔を上げた。
「それは……どの道を?」
「それを私から申し上げるのは、殿下にお気の毒でしょう」
答えになっていない。
けれど、自分と同じことをしているのかもしれないと思うと、胸の奥へ小さな灯りがともった。
翌日で、離れてちょうど一か月になる。
その日は日曜日だった。
夕方、淡い外套を羽織った。
「少し、散歩をしてきます」
ミラベルは行き先を尋ねなかった。
決めていないつもりだった。
ただ、レオナルトが歩きそうな場所へ足が向く気がした。
一か月目の日曜日、王宮の庭には薄い夕靄が降りていた。
行き先を決めずに歩いているつもりだった。
けれど選んだのは、書庫の前を通り、王太子の執務室へ続く回廊を抜け、日曜日のガゼボへ向かう道だった。
遠回りだった。
自分の部屋からガゼボへ行くだけなら、別の道がある。
石床へ靴音が返る。
一歩進むたび、胸の中で言葉を考えた。
お久しぶりです。
制度廃止の審議はどうなりましたか。
事件の調査について、お礼を申し上げます。
どれも違う。
会いたかった。
そう言えばよいだけなのに、簡単には口にできない。
前方から、別の足音が近づいてきた。
規則正しく、けれど以前より少しだけ遅い。
曲がり角へ差しかかった瞬間、立ち止まった。
レオナルトも、同時に足を止める。
一か月ぶりに見る彼は、少し痩せたようにも見える。
濃紺の上着は変わらず整っている。
姿勢もまっすぐだ。けれど目元には薄い影があり、頬の線が以前より鋭く見えた。
彼も、私を見たまま動かない。
「あの」
「あの」
二人の声が重なった。
「……」
「……」
以前なら、レオナルトが王太子として話を進めただろう。
私は候補令嬢として、彼の言葉を待った。
今は、どちらも立場に頼れない。
「お元気でしたか」
「元気だった……フィオナは」
「私も、元気です」
会いたかった相手へ、何を話しているのだろう。
沈黙が落ちる。
けれど五年間の日曜日とは違った。逃げたい沈黙ではない。
言いたいことが多すぎて、どこから始めればよいかわからない沈黙だった。
「殿下は、どちらへ?」
彼の靴へ目を落とすと、つま先と踵に湿った土がついている。
この道の先にあるのは、日曜日のガゼボと厨房裏の薬草畑だ。
「散歩だ」
「執務室からは、随分と遠い場所ですね」
「そうだな」
「以前も、こちらを?」
レオナルトの視線が逸れた。
嘘をつくのが下手だ。
婚約者だという大きな嘘は堂々と言えたくせに、無駄な散歩は隠せないらしい。
「私も、よくこちらを歩いていました」
今度はレオナルトが私を見る。
「書庫にも、厨房棟にも、薬草畑にも。殿下とすれ違うかもしれないと思って」
言ってしまうと、頬が熱くなった。
レオナルトはしばらく何も言わなかった。
やがて額へ片手を当てる。
「ダメだな」
「何がですか」
彼は深く息を吐き、もう隠すことを諦めた顔で私を見つめてくる。
レオナルトは額から手を下ろした。
「お前が会いたいと言うまで待つつもりだった。それなのに、会いたくて仕方なかった」
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