第二十五話 俺を許してくれるだろうか
同じ日曜日、執務机の前で同じ書類を三度読んでいた。
「彼女が言っていることが、すべて正しい」
「左様でございますね」
向かいに立つ側近のオルガは、慰める言葉を探す様子もなく頷いた。
候補制度の暫定停止命令。
七人を候補から外したことを理由に、各家が望まぬ婚姻や修道院行きを命じることを禁じる命令。
王会議へ提出する、制度廃止の提案書。
机には処理すべき書類が山積みだった。
王太子としてやるべきことは明確。
署名し、根回しをし、国王と王妃へ説明し、七家からの反発を受け止める。
それらはできる。
フィオナとのことだけが、どうにもならない。
「候補へ入れたのも、日曜日へ置いたのも王家だ。説明せず冷たくしたのは俺だ。階段から落ちたあと、本人へ聞かず婚約者にしたのも俺だ」
「はい」
「昨日、候補制度を終わらせようとしたのも、また勝手に決めた」
「フィオナ様も、そのように仰っておりました」
容赦がない言葉に、額を押さえた。
今までのオルガなら、王家の都合や安全上の判断を挙げ、すべてが誤りだったわけではないと言ったかもしれない。
だが今回は、フィオナへ弁明する前に自分で考えるよう、沈黙を選んでいるらしい。
「なら、とっとと謝った方がよいのでは?」
「会いたくないと言われた」
「謝罪のお手紙をお出しになれば」
「私信も送らないと約束した」
「花だけでも」
「言葉を変えただけで同じだ。彼女の部屋へ何かを送れば、返事を求めているように見える」
「では、お待ちになるほかありませんね」
「……そうだな」
制度廃止の提案書へ署名した。
ペン先が、少しだけ紙へ沈んだ。
「殿下。先ほどから同じ頁へ三度署名なさろうとしております」
「読んでいた」
「上下が逆でございます」
紙を戻される。
反論できなかった。
窓の外には、王宮の庭園が見える。
木立の向こうに、日曜日のガゼボの屋根がある。
フィオナは、今どこにいるのだろう。
朝食を取れただろうか。踏まれたタイムへ水をやりすぎていないだろうか。書庫で、重い本を左手で持とうとしていないだろうか。
考えるたび、身体が椅子から立ち上がろうとする。
そのたびに、会いたくないと言われた声を思い出した。
「……彼女は、俺を許してくれるだろうか」
口から出た言葉は、王太子のものとは思えないほど弱い。
「それは、私には何とも」
「……」
「……」
「怖い」
やっと出た言葉に、オルガが片眉を上げた。
「殿下にも、怖いものがおありなのですね」
「フィオナに嫌われること以上のものは、今は思いつかない」
「そのフィオナ様を、五年間も怖がらせていらしたのですが」
「わかっている」
胸へ鈍いものが落ちた。
「いや、わかっていなかった。昨日、やっとわかった」
午前九時を知らせる鐘が鳴る。
「まだ九時か」
「はい」
「長いな」
「日曜日でございますから」
フィオナにとって五年間、同じように長かったのだろう。
その長さを、俺は今日初めて一人で受け取っていた。
昼前、執務室を出た。
制度廃止に関する資料を国王へ届けるためだと自分へ言い聞かせる。
けれど足は、最短の中央回廊ではなく、フィオナの居室へ続く東側の回廊を選んだ。
扉まで、あと二つ。
そこまで来て、足を止める。
今、扉を叩けば、また彼女の言葉を無視する。
どうしてもそのまま歩みを進めることができず、踵を返した。
その日、同じ回廊の近くを四度通った。
レオナルトと離れて、一週間が過ぎた。
候補制度の暫定停止は、王宮内へ正式に通達された。
私のもとへ届く報告書には、七家との協議、王会議の日程、元候補令嬢たちの安全確保について、必要なことだけが簡潔に書かれている。
彼からの私信は、一行もない。
約束を守っているのだとわかっている。
それでも報告書を受け取るたび、最後の頁を裏返してしまう。
何も書かれていない。
「本日は、どちらへお出かけになりますか」
「書庫へ行きます」
ミラベルに尋ねられ、窓の外を見た。
王太子の執務室へ続く回廊の途中にある書庫。
遠回りになる。
ほかにも書庫はある。
けれど、読みたい本がそこにあるのだと自分へ言い聞かせた。
回廊を歩く間、向こうから濃紺の上着が現れないか、角を曲がるたび視線を上げる。
誰も来ない。
書庫では王妃たちの書簡集を借りた。以前のレオナルトなら、私がこの本を好むことを知っていたらしい。
閲覧席へ座ると、卓上にまだ温かな茶器が残されていた。
「先ほどまで、どなたかいらしたのですか」
「レオナルト殿下でございます」
司書の答えに、指が止まった。
「制度廃止に関する古い記録をお調べでした。ほんの少し前に、お戻りになりました」
あと半刻早ければ、会えていた。
安堵と残念さが同時に押し寄せる。
会ったら、何を言えばよいかわからない。
それでも、一目見たかった。
レオナルトが使っていたという席の向かいへ座った。
茶器からは、彼が好む渋い茶葉の香りが残っている。
頁を開いても、文字が頭へ入らない。
翌日は厨房棟の前を通った。
その次は訓練場が見える回廊を選んだ。
どれも、今の私に用事がない場所ではない。
厨房には料理長がいる。訓練場では剣の練習を見られる。薬草畑にはタイムがある。
ただ、どの場所にもレオナルトが現れる可能性があった。
「最近、よくお歩きになりますね」
「医師から、身体を動かしてもよいと言われましたから」
「左様でございますか」
納得していない顔だったが、それ以上は言われなかった。
二度目の日曜日。
ガゼボへ行くと、石畳に新しい靴跡が残っていた。
前夜の雨で濡れた道を、誰かが歩いた跡。
大きさは、レオナルトの靴に似ている。
確かめる方法はない。
確信も無いのに、その跡の隣へ自分の足を置いた。
並んだ二つの靴跡は、ガゼボへ向かい、途中で別れていた。
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