第二十四話 殿下のお顔も、見たくありません
叫んだ声が、ガゼボの天井へ当たって消えた。
気が付けば、大きく肩で息をしていた。
右手の中では、紙が皺だらけになっている。指を緩めても、元の平らな形には戻らない。
レオナルトは何も言わない。
反論を待った。
王太子として必要だった。守るためだった。候補制度は自分が作ったものではない。
どれも事実だろう。
それでも、今は聞きたくなかった。
やがてレオナルトが、低く答えた。
「そうだ……候補制度へお前を入れたのは王家だ。日曜日を最有力として扱う慣例を変えず、お前をそこへ置き続けた」
レオナルトの手が、身体の横で強く握られる。
「お前が狙われるとわかりながら、説明せず距離を置いたのは俺だ。特別に扱わなければ守れると考えた。だが、結果としてお前を一人にした」
「殿下……」
「階段から落ちたあとも、意思を聞かず婚約者だと呼んだ。今日もまた、お前が話している途中で候補制度を終わらせると決めた」
彼は、逃げずに私をまっすぐ見つめる。
「お前が言っていることは、すべて正しい」
弁解されると思っていた。
守るためだったと言われ、怒っている自分の方が理解のない令嬢なのだと感じるかもしれないと思っていた。
けれど、レオナルトは認めた。
認められると、怒りの下にあった痛みだけが残る。
「では、なぜ……なぜ、五年間も何も言ってくださらなかったのですか……」
声が小さくなった。
レオナルトの唇が動く。
「特別にすれば、お前を七家の争いへ引き込む。王太子の好意を示せば、お前が断れなくなる。そう考えていた」
「それだけですか……?」
問い返すと、灰色の瞳が揺れた。
しばらくして、彼は目を伏せる。
「……それだけではない」
「では、何です?」
「今ここで話せば、また俺の事情を聞かせて、お前に理解を求めることになる」
レオナルトは一度息を吸った。
「今は、お前が怒る時間だ。俺の理由で、その怒りを小さくしたくない」
ずるい、と言いたかった。
今まで何も言わなかった人が、急にそんなふうに待とうとする。
けれど胸の中は、もう言葉を受け止められる状態ではなかった。
「今は、聞きたくありません」
「ああ」
「殿下のお顔も、見たくありません」
言った瞬間、レオナルトの喉が動いた。
傷ついたのだとわかった。
自分で言ったくせに、胸が痛む。
「……わかった」
「やはり、私を追いかけてはくださらないのですね」
口にしてから、自分の理不尽さに気づく。
会いたくないと言ったのは自分だ。
「追えば、またお前の言葉を無視することになる」
レオナルトは深く頭を下げた。
王太子が候補令嬢へする礼ではない。
婚約者が恋人へする仕草でもない。
傷つけた一人の人間が、傷つけた相手へ向ける謝罪だった。
「候補制度の処理と、事件の調査は進める。だが、結果をどこまで聞くかも、誰に会うかも、オルガを通じてお前へ尋ねる」
「はい」
「私信は送らない。お前が会いたいと言うまで、俺から近づくこともしない」
すぐには返事をできなかった。
本当に来なくなる。
明日の朝も、昼も、夕方も。
自分が望んだことなのに、怖くなる。
「……お願いします」
ようやく言うと、レオナルトはもう一度頭を下げ、ガゼボを出ていった。
追いかける足音はない。
振り返っても、彼は戻らない。
卓上には、冷めた紅茶と、伏せた六枚の紙だけが残った。
翌日は日曜日。
候補令嬢になってから初めて、レオナルトと会う予定のない日曜日が来る。
日曜日の朝、目の前には一人分の朝食だけが並んだ。
焼きたてのパン。柔らかく煮た卵。薄く切った果物。
いつもと変わらない献立なのに、向かいの椅子が空いているだけで、卓がひどく広く見えた。
「殿下から、何か連絡は?」
尋ねてから、パンへ伸ばした手を止める。
「ございません」
ミラベルは少し言いにくそうに続けた。
「フィオナ様がお望みになるまでは、私信も控えるとのことでございます」
「そう」
自分が望んだこと。
顔を見たくないと言った。会いたいと言うまで近づかないでほしいと頼んだ。
レオナルトは、初めてその言葉を守っている。
それなのに、温かなパンは喉へ引っかかった。
午前は書庫で過ごすことにした。
以前なら、日曜日のこの時間にはガゼボで話題を探していた。
記憶を失ったふりをしてからは、レオナルトが選んだ本を持ってきたり、私が読みたいものを尋ねたりした。
今日は紙をめくる音しかない。
植物図鑑を開けば、白い小花の頁で指が止まった。
彼が初めて客室へ持ってきた花と似ている。次の頁には北部の薔薇。日曜日に一人で見た花。
どちらを見ても、レオナルトがいる。
「別の本へなさいますか」
ミラベルの問いに、首を振った。
「いいえ。このままで」
昼前、厨房裏の菜園へ向かった。
踏まれたタイムは、庭師が支柱を立て直し、折れた枝を切ってくれていた。
完全に元通りではない。けれど根元には、傷つかなかった葉が残っている。
小さな水差しを持ち、土へ水を落とした。
「多すぎだ」と止める声はない。
少しずつ注いだつもりなのに、根元へ水が溜まった。
「……本当に来ないなんて」
呟き、すぐに額を押さえる。
「来ないでと言ったのは私でしょう」
自分で自分へ言い聞かせても、納得できなかった。
少しくらい、遠くから様子を見ることはできるのではないか。
手紙ではなく、候補制度の報告書へ一言くらい添えてもよいのではないか。
けれど来たら来たで、また自分の言葉を無視したと怒るだろう。
濡れた土を見下ろす。
午後、何をするか決められなかった。
料理をする気にはなれない。
剣術場へ行っても、教え方を巡ってレオナルトと言い合ったことを思い出す。
市場へ出れば、傷のある林檎を見てしまう。
どれも自分が選んだことなのに、いつの間にか彼との記憶になっていた。
夕刻が近づく頃、外套を羽織った。
「どちらへ?」
「……少し、庭園を歩きます」
行き先は決めていないつもりだった。
けれど足は、日曜日のガゼボへ向かっていた。
白い石の椅子。
向かい合わせに置かれた卓。
五年間、レオナルトの書類と冷めた紅茶を見ていた場所。
記憶を失ったふりをしてからは、彼が隣へ座ることも増えた。
市場で買った林檎を分け、植えたタイムの様子を話し、何がしたいのかを尋ねられた。
今日は、誰もいない。
いつもの自分の指定席へ腰を下ろす。
候補令嬢だった頃も、日曜日は長かった。
隣にいるレオナルトが冷たいことが苦しかった。
今は、隣に彼がいないことが苦しい。
「少しくらい、様子を見に来てもよいではありませんか」
夕暮れのガゼボへ、理不尽な声だけが落ちる。
返事はなかった。
一人で、庭園の鐘が鳴るまで座っていた。
その日曜日は、これまでで最も長く感じた一日だった。
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