第二十話 撤回はいたしません
その日の夕方、セシリアから三度目の手紙が届いた。
封蝋は水色。文字は美しく、文面は完璧だった。
フィオナの体調を案じ、記憶が戻らない不安に寄り添い、同じ候補令嬢として力になりたいと書かれている。
どこにも責める言葉はない。
けれど、最後の一文だけが、私の指を止めた。
『水曜日のガゼボも、殿下をお待ちすることがなくなり、少し寂しくなりました』
美しい字だった。寂しい、というやわらかな言葉。
けれど、その行から目を離せなかった。
水曜日のガゼボ。
日曜日以外の場所。
そこにも、レオナルトを待つ令嬢がいた。
私だけが、傷ついていたわけではないのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸が重くなった。
手紙を閉じると、窓の外はすでに暗かった。
厨房裏の菜園の方角は、ここからは見えない。
けれど、昨日植えたタイムの苗を思い出す。根づけば、いずれ料理に使われると言われた小さな苗。
明日の朝、もう一度見に行きたい。
そうミラベルに伝えて、フィオナは眠りについた。
けれど翌朝。
いつものように茶器を持ってくるはずのミラベルが、青ざめた顔で部屋へ駆け込んできた。
「フィオナ様」
その声で、椅子から立ち上がりかけた。
「何かあったのですか」
「厨房裏の菜園が……フィオナ様が植えた苗が、踏み荒らされております」
菜園へ着いた瞬間、足を止めた。
昨日まで青々としていた苗が、土へ押しつぶされている。
細い支柱は折れ、タイムの葉には泥がこびりついていた。湿った土には、何度も踏みつけた靴跡が残っている。
潰れた香草の青臭さが、鼻の奥へ刺さった。
「……これは」
ミラベルが息を呑む。
裂けた茎を持ち上げた。指先へ冷たい汁がつく。
「植え直せるものを分けてください。犯人を捜すより先に、苗を助けます」
どうにか平静な声を出した、そのとき別の女官が青ざめた顔で駆けてくる。
「フィオナ様、大変でございます!お部屋から本が一冊なくなり、夜会用のドレスにも刃物で切った跡が……」
「本と、ドレスも?」
「はい。警護の交代時刻を狙われたようでございます」
階段から落とされた。
記憶を失ったことになった。
王太子の婚約者だと告げられ、ほかの候補令嬢から睨まれた。
それでも、私は大人しくしていた。
誰かを疑う前に事情を聞こうとした。候補令嬢として恥ずかしくないように、笑顔も礼儀も崩さなかった。
その結果が、これだった。
泥だらけの手を見下ろす。
「……大人しくしてても」
「フィオナ様?」
「大人しくしてても、結局これなんですか!!」
菜園にいた全員が凍りついた。
「なんで私は記憶喪失になってまで嫌がらせされなければならないのですか!?階段から落ちて、頭を打って、昔のことを覚えていない女の畑を踏んで、本を盗んで、ドレスまで切る!?ふざけないで!!」
肩で息をする。
頬が熱い。拳を握ると、爪の間に入った土が痛んだ。
「……失礼しました」
大きく息を吸う。
「ですが、撤回はいたしません」
「何があった」
低い声に振り返ると、レオナルトが菜園の入口に立っていた。
踏み荒らされた畑を見た彼の表情が冷える。けれど、私へ目を戻したとき、その口元がほんの少し動いた。
「今、笑いました?」
「笑っていない」
「笑いましたよね!?」
「お前にも、そのような声が出せたのだと思っただけだ」
「誰のせいで五年間出せなかったと思ってるんですか!」
言い返してから、私は固まった。
五年間。
記憶を失っているはずの自分が、口にしてはいけない言葉だった。
「……候補令嬢として過ごした五年間が大変だったと、父から聞きました」
苦しい言い訳だった。
レオナルトは何も言わず、ただ私を見ている。
「とにかく、もう一人ずつ様子を窺うのはやめます」
泥のついた指で王宮を示した。
「候補令嬢の皆様を全員呼んでください。月曜日から土曜日まで、まとめてです」
「フィオナ」
「止めないでください!これは私の畑です。私の本で、私のドレスです。殿下の婚約者だから狙われたとしても、怒る権利まで殿下に預けた覚えはありません」
レオナルトはしばらく黙り、やがて頷いた。
「わかった」
「明日の午後、全員参加の茶会を開きます」
倒れたタイムの苗を拾い上げた。
「記憶のない私に、皆様との関係を一から教えていただきます」
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